13-4

 店にもどって階段を上がりながら、スマホを取り出す。さっき投稿した料理の写真に、いいねがついていた。

 通知された名前を見て、熱いぐらいだった飲み過ぎの胃がすうっと冷える。宮下、という名前と風景の写真のアイコンは、三年前と変わっていない。


 ピリリと着信が鳴る。黄色のほろのまるいアイコン。すぐに指をすべらせた。

「良さん?」

「おつかれ~」

 ぐでんと伸びた甘い声。癒される。

「よかった、かけてくれて」

「どした? なんかあった?」

「うん」

 ひとこと言って、黙った。なにをどこから話そうか。

 時計を見て、まだふわふわと回りきらない頭をぐしゃぐしゃかき混ぜる。十月の夜はしっとりと寒くて、さみしくて、電話を切る気がしない。

「長くなっても大丈夫かな」

「え? いつものことじゃん」

 声が耳にすべり込むたび、首筋のあたりから流れ込んで心臓にささる。

「昔の話なんだけど」

「うん?」

 無邪気に返してくれる声がほんのり遠い。こんな話はできるだけ手短にしようと、頭を振り絞った。

「会社やってたって言ったじゃん」

「うん、聞いた」

「そんとき、俺の彼女とくっついて、勝手に会社売った元共同経営者が、ツイッターにいいね押してくれた」

「へっ?……え、いや、ちょ、待って待って」

「ごめん、そんだけ。なんなのかな今さら」

 ふうっと息をついて言葉を切る。つくってしまった沈黙が重い。

 カサカサと音が聞こえてくるから、すねて逃げてしまったわけでもないらしい。

「はい、どうぞ。ちょ、もっかい教えて」

「え?」

「紙とメモ用意した。あ、間違えた、紙とペン」

 ふふっと笑う声が、どこかおかしい。動揺を無理やり抑え込んでいる、となんとなく思った。

「さっちゃんいっぺんに話すからわかんないよ。もっかいもっかい」

「いいよそんな、メモまでしなくて」

「俺がしたいの! ちゃんと教えてよ」

 声がきゅっと縮んでいる。これを流したら、本気で機嫌を損ねそうだ。

「わかった。ええと、どこから話そうか」

「その、俺の彼女のとこから」

「やっぱそこ気になる?」

「……さっちゃんのいじわる」

 かわいくてうれしくて、笑ってしまう。さっきの、うっかり暗い穴の底をのぞいてしまったような気分があっという間に吹き飛んだ。

「俺、良さんに会えてほんとよかったと思ってるから」

「はいはいわかってます。そういうのいいから、早く続きを……」

「あいしてる」

 空気がぴたりと止まる。ひゅっ、と空気をのむ音だけが聞こえた。

 もしかしたら、完全にタイミングを間違えてしまったかもしれない。でも、どうにかして今の、ここにいる俺と良さんの、かたちのないつながりを言葉にしておきたかった。

 後ろを向くと、二度と埋められない暗い穴がある。なんとかそこに引きずられまいと、まるですがりつくように、今という時間の中に自分をつなぎとめておきたくて、とっさに言った。

 沈黙がいたい。ぴりぴりと耳をつく。今度こそは、完全に怒ってしまったかもしれない。なにを言うのも違う気がして、じっと待った。

「さっちゃん」

「はい」

 なんとなくひざをそろえた。正座した足の先がそわそわと落ち着かない。

「そういうのは」

 言いかけてふつっと言葉を切った。やっぱり怒っている。スマホを耳につけたまま、うなだれた。

「はい。ごめんなさい」

「じゃなくて、電話はやめてよ」

「え?」

「顔見て、ちゃんと言って。あ、あと、花束持って、スーツ来て、ネクタイもがっちり締めてね」

 くすくす笑っている。言われたことが整理できなくて、一瞬混乱した。

「なに、怒ってんじゃないの」

「怒ってるよ。そういう大事な言葉を、こんな酔っ払いの、しかもやなことあった後の腹いせみたいに」

 やっぱり良さんだ。もうなにもかもばれている。何度もごめんをくり返して、スマホを持ったまま頭を下げた。

「次は激辛だよ、カレー」

「いいよ」

「言ったね? 青唐辛子の辛さを知らないでしょ、さっちゃん」

「知らない。でも良さんのつくるものならなんでも食べる」

 それだけははっきり言える。自信を持って、勢い込んで返した。

「でた、さっちゃんの前のめり。俺も大好きだよそういうとこ」

 世界が、まるでフラッシュをたいたみたいに白くまばたきをした。視界にあるものがすべてまぶしい。

 わかったようなつもりでいたけれど、言葉にすると、こんなにあかるくて透き通っていて、あたたかいものなのだと初めて知った。


 良さんが満足するまで説明を重ねて、今日の通話を終えた。もう一度ツイッターをひらいて、宮下のページをめくる。

 俺と同じようなIT系の会社で、エンジニアをやっていると書いてある。似たような道をたどっているな、とどこかほっとした。個人でも仕事を請け負っているとか、ホームページを作っているとか、のびのびやっているようだ。

 宮下はいつも自分のポジションをさっとつくる。その要領の良さとそつない身のこなしに、かなわないなといつも思って、今思えば憧れていた。

 だから、彼女の心がうつったときも、じたばたともがくこともなく諦めがついて、それが余計によくなかったのかもしれない。

 良さんに「彼女のためにさっと身を引いたさっちゃんはえらい」となぐさめてもらったけれど、それは違う。自分のためだ。自分がみっともないのがいやだから、傷を深めるのがいやだから、すがりつくのはやめて、すぐに断ち切った。

 今、良さんにもし同じことをされたとしたら、いつまでもつきまとうだろう。俺にいい顔をしてくれなくなっても、目もあわせてくれなくなっても、それでも会いたくて行くだろう。

 取り返しがつかないほどに深まっているこの感覚は、自分でもそう簡単に動かせない。これがほんとうなのだと、しんとした夜のつめたい空気を吸いこんで思った。

 スマホがうーんとうなっている。フォローの通知がきた。宮下だ。もしかしたらあのとき、宮下と俺の元彼女も、こんな気持ちでいたのかもしれない。

 固定にしていたふるさとマルシェのお知らせツイートを、もう一度リツイートした。それ以上のことはまだ気が向かないけれど、宮下ならきっと見ている。

 たったこれだけの動きでも、ちっぽけな俺がなにを思っているか、きっと察しているだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る