11-4

 マンションの窓から、ほんのすこし見える空が、だんだんと暮れていく。

 一日中しゃべっていても、まだ話したいことがなくならない。からだがすっかり慣れてきて、常にどこかにふれていた。

 手のひらも指も頬も、ずっとふれたいと思っていた髪の毛も、良さんは笑ってなでさせてくれた。

 ふわあと放たれるあくびの、息がまあるく見えるくらいに、ふにゃふにゃした顔をしている。たぶん俺も同じようなものだと、良さんの目の中にうつる自分を見て思った。

「さっちゃんのやってた会社ってさあ、マッチングサービスだっけ」

 眠そうなかすれ声で固い単語を言われて、なんだか合ってないなと少し笑った。

「そうだけど」

「それって結局、今やってることと変わんないね」

「え? なに、よく聞こえなかった」

 すりすりと近寄っても、もう顔を隠さなくなった。鼻の頭をくっつける。

「ちょっ、やめてよ」

 笑った拍子に息がかかる。ふざけていたら思いきり押し戻されて、急に姿勢を正している。

「頼まれごととか貼り紙って、要するにマッチングでしょ。人と人との」

「ああ、そう言えばそうかな」

「もう、ちゃんと聞きなよ! 真面目な話してんの」

 頬を包もうとした指を、ぎゅっと握って取り押さえられる。指をからめてつなぎなおした。

「人と人とを、つないでけばいいじゃん。さっちゃんの店で」

 指にぎゅっと力を入れてくる。あったかくて強くて、どこまでもやさしい。

 良さんはすごい力をもっている。たった今もらった短い一言で、ずっと曇っていた頭の奥が急に、すうっと晴れていった。

「わかった。いま教えてもらってやっとわかった。最初に貼り紙貼ったとき、これだって思えたんだけど、なんだかはっきりわかんなくて」

「なんだよ、知ってたんじゃ……って近い近い近い」

 おでこをこつんと当てて、ぐりぐりと押しつけた。かわいい顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 ばあちゃんがあの店を切り盛りしていた頃、たくさんの人が店に来て、話して、笑って、そういえばひっそりと泣いている人もいた。ここのばあちゃんに話を聞いてもらうだけで、ずいぶん楽になるんだよ、と俺にそっと教えてくれた人もいる。

 あんな風にはとてもなれないだろうけれど、誰かの小さな願いごとを、かなえてくれそうな人に、橋渡しする手伝いくらいならできるかもしれない。

 急に目の前がひらけてきて、薄闇の空が明るく見える。つないだままにしている手に、もう一度強く力を入れた。

「さ、そろそろ帰んなきゃね、さっちゃん」

 良さんは俺の手をぐいっと引っ張って、俺の頭を肩のあたりにぼすんとおさめた。頭をわしわしなでられる。

「そんな顔しないの。またすぐ会えるから」

 首筋のにおいがあったかい。ゆっくり深呼吸すると、それだけで涙が出そうになる。

「次はうちに来る?」

「いいの?」

「いいよ。駅まで迎えに行く」

 何がおもしろかったのか、うひゃひゃと足をばたつかせて、俺の頭をかきむしる。すっかりボサボサにされてしまった。

「あーあ、いい男が台無しだ」

 ふざけて言う良さんと、くすくす笑って目を合わせる。こんなどうでもいいことを、何年たってもそのままに覚えていたいと強く思う。

「さっきの、ほんとに考えといて」

「へ?」

 体を離してひざをそろえる。背すじを伸ばして、声も正した。

「迎えに来るから。そのうち、一緒に暮らそう」

 まんまるな目が、ますますまるくなる。また息を止めている。ごくり、とのどが動いた。

「さっ、さっちゃん」

「なに?」

 しゃべろうとしてつかえたように、げほ、と咳をする。ローテーブルの上のペットボトルを黙って差し出した。

 受けとって、ふたをくるくる回す間にも、良さんの頬はほわほわと赤くなっていく。

「ごめん、また先走った」

「うん」

「そういえば、付き合ってとかなんにも言ってなかった」

「うん」

 焦って言葉がつんのめる。良さんは飲みながら器用に相づちをくれて、ぷはっと息をついた。

 カタカタとふたを閉めている。ぽろりとふたを落として、拾って渡してもまた落とす。よく見ると指が小さく震えていて、手の甲にぽたりとしずくが落ちた。

「うわ、なんか俺、まずいこと……」

「違うから」

 ふふ、と笑いながら、涙をこぼしている。俺が勢いづいて踏み込むと、いつも良さんをこうしてぽろぽろ泣かせてしまう。頬をゆっくりと流れる粒を、指で何度もこすっている。

「俺、こんなに嬉しい日初めてかも」

 長いまつ毛がまばたきをして、ふるふるとたまっていた大きな粒がぽとりと落ちる。指でぬぐってばかりいるから、手のひらの裏も表も、洗ったように濡れている。

 洗面所からタオルを取ってきて、そっと押しつけた。

「嬉しいなら、笑ってくれればいいのに」

「ええ? そこ文句言う?」

「文句じゃなくて、お願いだから」

「それ言い回し変えただけじゃん」

 泣きながら文句を言って笑っている。帰るよ、と言いながら座り込み、もう一時間以上経った。子どもみたいに駄々をこねて、良さんに笑って背中を押されながら、しぶしぶ部屋を出た。


 交差点を歩きながら振り向くと、窓から大きく手を振っている。

 負けじと大きく振り返す。いきなり手を振り上げたから、目の前の人が一瞬驚いて、すぐに興味もない顔をした。

「前向いて歩きなよ」とメッセージが入る。

 へんな顔のスタンプを返して、スマホを胸ポケットにそっと入れた。


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