11-3
えりあしの髪が頬をくすぐる。
まだ一言も話していないのに、胸や腹や体のくっついているところから、一気に感情が流れ込んでくる。
背中に手を回して抱きしめ返すと、ふきゅ、と変な声がした。まるで犬が喜ぶように、ぐりぐりと首筋に顔を押しつけてくる。
暑さとうれしさと、言葉にならない気持ちをどんどん押しつけられて、目まいがした。他になにもいらないと思う気持ちと、だからこの人だけは絶対にいる、という気持ちが大きくうねってぶつかり合う。
ゆっくり息をはいて、背中をなでる。肩甲骨のかたちも、背骨のくぼみも、何もかもちゃんと確かめたくて、夢中でたどった。
改めて顔を合わせるとお互いに笑ってしまって、良さんはしばらく顔を見せてくれなかった。
無理やり向けようとすると必死に抵抗するから、部屋の隅の壁にもたれて、しばらくそのままでいた。
「あのさあ」
背中を見せたまま、ぽそりと話し始める。あと三歩の距離が遠くて苦しい。
「さっちゃんは、これから店、どんなふうにしていくの」
「え? 仕事の話?」
ひざを抱える背中がまるい。真っ白なTシャツの首のあたりに、ちらちらとかかるえりあしが気になる。
そうっと指を伸ばしてさわってみると、うひゃひゃと笑ってくれた。
「ちょ、まじめにまじめに。仕事の話」
「うーん……どんな風に、って言われてもなあ」
もしゃもしゃとえりあしをくすぐりながら考えた。ふわふわ浮かんだ頭のなかで、この間の出来事がふいっとかすんだ。
「そういえば、あれから貼り紙してくれっていうのが増えて」
「ああ、わんこの?」
「犬だけじゃなくて、町内清掃とか会合とかの。ああ、あとイベントも」
小学校の七夕祭りに、保育園のバザー。はいはい、いいですよ、と安請け合いしていたら、店の四枚のガラス戸はあっという間に貼り紙でふさがれてしまった。
今は一日中まぶしい季節だから日よけになっていいけれど、もう少ししたら店内に移すとか、なにか考えないといけない。
「あと、相談されるようになったかも」
「相談? お客さんに?」
「うん。犬のことがあってから、お祭りの手伝い探してくれとか、古道具引き取ってくれる人見つけてくれとか」
「うわ、けっこう無茶振り」
いつの間にか振り向いて、俺の手に頬を預けている。ふにゃふにゃしたあったかいほっぺが手の甲にのっていて、うれしくてすこしつまんだ。
「頼まれても百パー応えられないし、微妙なんだけど。でも、頼んだ時点でなんか気が抜けてるみたいで、ダメでも今のところクレームはない」
「それすごいじゃん。カウンセリングみたい」
そこまで大層なものでもないけれど、そういう効果があるのかもしれない。たとえどんな頼まれごとでも、はい、はい、と真剣に聞いてチラシを受け取ると、相手はいからせていた肩をすとんと下ろす。
もし人が思うように集まらなくても、準備くらいなら俺も手伝うし、古道具も少しくらいなら倉庫に置いてもいいと、最初に逃げ道を作ってあるからだろうか。
頬をくすぐっていた指を、かわいいくちびるがくわえようとしている。手を放して鼻をつまんだ。ぷははと笑って俺の手をはねのける。
「良さんのカレー、たべたい」
「言うと思った。そろそろお昼にしよっか」
すっと立つと、ハーフパンツからすらりと足が伸びる。骨ばったひざと、かたちのいい筋肉がついた足が目の前を過ぎていく。
同年代の男の足を、きれいだと思うようになるなんて、人生はわからない。
「甘口?」
「今日は中辛。大人だけだから」
「じゃあ、一緒に暮らしたら毎日中辛?」
皿ががちゃりと音を立てる。ぽかんとまんまるな目をして、こっちを見ている。
「さっちゃんまた先走ってんの?」
「うん。最近ずっと考えてる」
小さな座卓の上のリモコンをどけて、ティッシュの箱や充電器と一緒にテレビの横へ置いた。低い棚に、映画のDVDやCDが並んでいる。
俺も見たことがある、なつかしいタイトルがあって、あとで話を聞いてみようと思った。そういうことが毎日できるようになったら、どんなにいいだろう。
「さっちゃん手伝ってー」
狭いキッチンで、かわいい人が笑っている。すぐに近づいて、後ろからくっついて邪魔をした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます