10-2

 夕方になって、小学生のカラフルなランドセルがわいわいと店の中を埋め尽くす。貼り紙を見て、さっそくレジに飛んできた女の子がいた。

「ねえ、あの犬、ほんとに子犬?」

「うん、おじさんも見てないんだけどね、まだこんな小さいんだって」

 おばあちゃんがしたように、俺も両手でほんわりとおわんをつくって見せる。女の子の目がきらきらかがやいた。

「うわあ、いいなあ。やまださんちって、どこ?」

「ここの道のね、あの青い屋根の向こうの家。オレンジの壁のとこ」

「行きたい! ゆか、ワンちゃんほしい!」

 ふたつに結んだ髪の毛を揺らして、ぴこぴこと握りこぶしを上下にしている。黄色の帽子はすっかり脱げて、首のゴムで引っかかり、ランドセルの上に落ちている。

「一回家に帰って、お母さんに聞いてごらん」

 言い終わる前に、女の子は赤いランドセルをぐるんと振り回し、走って帰ってしまった。

 その後すぐ、まるで追いかけるように店から飛び出し、無我夢中で走っていく男の子がいた。バラバラとレジに置かれる駄菓子を順に会計するのに精一杯で、ろくに見ていなかったけれど、ひゅんと道の向こうに曲がった気がした。


 わいわいと集まっていた小学生が、店の外のテーブルで遊び始める。ひとり残っていた男の子が、レジまで来てぽつりと言った。

「おっちゃん、あれ、本当にもらわれてしまうん?」

「え? 子犬のこと?」

 男の子は目をきょろきょろと落ち着きなく動かし、小さくうなづいた。

「智也がやっとお母さん説得して飼ってもらえそうになったのに。あの子が行ったら、連れていかれてしまうん?」

「智也? もしかして、智也くんって山田って名字?」

 思いつめたちいさな目が、こっくりとうなづく。名札を見ると宮本と書いてある。

「智也くんは、友達?」

「うん、幼稚園からいっしょ」

「そっか、やっと飼ってもいいって許してもらえて、喜んでたのか。おじさん悪いことしちゃったか……」

 目を閉じて、今朝聞いた話を思い出す。

 嫁の機嫌が悪い。山田のおばあちゃんが困っている。誰かもらってくれんか、とは、おばあちゃんの考えで、お母さんは渋々にでも許してくれていたのだろうか。

 ここで頭をひねっていてもなにもわからない。すぐにとなりの実家に飛び込んで、少しの間、店番を頼むと父に伝えた。

「よし、おじさん今から行ってくる。どうなってんのかわかんないし、勝手なことして、智也くんに謝んないとな」

「ほんと? 智也、子犬飼える?」

「お母さんがいいって言ったらな」

 ぱあっと顔が明るくなる。こんなちいさな歳の頃から、ここまで心配してくれる人がいるなんて、智也はなんてしあわせなやつだと思った。

 

 大丈夫だから、間に合うから、といくら言っても走り出す男の子を追いかけて、ぜいぜい言いながら野道を走った。店から見えていても、実際に歩くと直線距離は長い。

 やっとのことでたどり着いて、ピンポンを押す。キュウキュウと鳴き声が聞こえる。

 玄関のドアのガラスの部分から、男の子が犬を抱いて座っているのが透けて見えた。

「智也、俺。お店のおじちゃん連れてきた」

 ちょこちょこと動く茶色の影が、ぱたりと床に放される。カチャリと遠慮がちに鍵があいて、玄関がひらいた。

 ドアの隙間から黒い鼻が差し込まれて、ふしゅんと吹いている。すぐに子犬は抱え上げられ、男の子の胸でパタパタもがいている。

「ポコ、連れていかれるの?」

「連れてかないよ。ごめん、あんな貼り紙して。おじちゃんよくわかってなくて、謝りに来た」

「智也、もう大丈夫やって。あの子が来たら、おじちゃんに説得してもらお」

 うん、とうなづいて、初めて顔がほころんだ。パタパタとスリッパの足音がして、廊下の奥から女の人が顔をのぞかせた。

「ああ、浦田さんとこの。いつもおばあちゃんがお世話になって」

 愛想のいい高い声。言葉遣いといい笑顔のつくり方といい、どこかこの土地のにおいがしない、きれいなお母さんだった。

「いえ、こちらこそ。今朝、おばあちゃんに頼まれまして、子犬をもらってくださいと貼り紙をしたんですが」

「あら……」

 きりきりと眉間にしわが寄りはじめる。今のなにがまずかったのか。女の人は変わるのが早い。

「ですが、智也くんが飼うことになってると教えてもらいまして。貼り紙を見て子犬が欲しいと、こちらに向かってしまった女の子がいたもので、余計なことをして申し訳なかったとお詫びにお伺いしたんですが」

「貼り紙なんて出してもらえるんなら、もっと早くに頼めばよかったわ」

「すみません、急に始めたことで」

「この子、小さい頃から喘息でね。こっちに来て直ったから大丈夫ってお医者さんも言うけど、でももし再発したらと思うと心配で」

「先生はいいって言ったもん! 散歩もちゃんとするもん!」

「わかった、わかったからちょっと静かにして」

「智也、ポコ連れて遊びに行こ」

「うん」

 小さなクリーム色の柴犬は、嬉しそうに尻尾をふって智也の周りをくるくる回る。二人と一匹はあっという間に玄関を飛び出し、野道を駆けていった。

「ああ、虫が入るからって言ってるのにもう……」

 イライラとため息をつき、開けっ放しのドアに手をかける。いいお母さんの空気がすうっと消えて、雑に組んだ腕をきつく握った。

「貼り紙なんて貼ったら、智也が見つけて当然じゃない。まったくあのおばあちゃんは」

 はき捨てられる言葉とともに、きれいな口紅がぎりりとゆがむ。あまり巻き込まれたくない雰囲気だ。

「ダメって言っても言うこときかなくて、しょうがないから飼ってもいいってことにしてたんです。で、あの子には内緒で引き取り手を探すってことにして」

「はあ」

「おばあちゃんにこっそり聞いて回ってもらえないかと頼んだのが間違いだったわ」

 その眉間のしわの奥に、どれほどの感情が渦巻いているのだろう。山田のおばあちゃんのにこにこした顔がふと浮かんで、なんとなく靴箱の上の水槽に目を逃がした。

「申し訳ありません、おかしなことに巻き込んでしまって。おばあちゃんにはよく言って聞かせますから」

「いえ、突然お伺いしてすみません。お邪魔しました」

 ぺこぺこと何度も頭を下げて、田んぼの中に建つぴかぴかの家を出る。真っ白な壁は周りからよく目立って、先のとがった三角の屋根が、まるでおとぎ話のお城のようだ。

「ここは本当に居心地がいいねえ」と、目を細める山田のおばあちゃんの顔がちらちら浮かぶ。

 たかがお茶の一杯で、どうしてあんなに喜んでくれるのかと不思議に思っていたけれど、なんとなく分かったような気がした。

 野道をのんびり歩いて帰ると、さっきの女の子が腕をぶんぶん大きく振って、大張り切りで歩いてくるのが見える。となりを歩くお母さんらしき人影の、肩がやれやれと落ちている。

 目をとじてゆっくり息をつく。あっちがすんだら、こっちにも謝らないといけない。

 あの大きなまんまるい瞳から、大粒の涙がこぼれるところがちらりと頭をよぎって、すこしでも早くと駆け寄った。

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