9-3

 声が少し震えている。ひとりぼっちにさせたくなくて、強く手のひらを寄せた。周りを過ぎる人の会話がすこし聞こえたけど、なにも気にならない。

「俺、良さんがそのまんまでいてくれたらいいなと思ってる」

 さっき言おうと思っていたことをもう一度言い直した。結局こんなどうでもいい言葉しか浮かんでこない。

「笑ってるとこもすねてるとこもいいと思うし、良さんのつくるカレーも好きだし、もっといろんなとこ知りたい」

 かわいいくちびるがきゅっとなる。かまわず続けた。

「できればその、ずっと……」

 はっと息をつく。のどが苦しい。たった一言を絞り出すのが、こんなに勇気がいるなんて。

 からめた指に力が入る。背中を押されたような気がして、ゆっくり目を見て言った。

「ずっと一緒にいてほしい」

 まんまるな目がきらりと揺れる。なにも言ってくれなくてもわかる。と思っていたのに、いきなり腰を折って笑いくずれて、指が外れた。

「あは、あっははは! おっかし、さっちゃん」

「え? な、なんで?」

「だって、いきなり、あはははは!」

 腹を抱えて笑っている。こっちは一世一代の告白だったのに、その返事が爆笑とはどういうことだろう。

 完全に出し切って放心していると、いそいそとカレーを出してくれた。

「はい、今日の最後。完売ありがとうございまーす」

 すっかりいつもの良さんに戻っている。ぱたぱたとバンから出てきて、看板をくるりと裏返す。

「あっちのベンチで一緒に食べよう」

「え、良さんは?」

「俺はこれ。カレー屋のくせに」

 くすくす笑ってパンを出す。となりに立つと、きらきらした目の奥までよく見える。

「さっちゃん、いきなり抱きついたりしないでよ」

「なんで?」

「目がヤバかったから」

 ぎょっとしてカレーを落としそうになる。おっとと、と良さんがそれをつかまえる。二人で目を合わせて笑った。

 空の色はすこし落ち着いて、青がきれいに透き通る。二人で座ると、ベンチの木陰がなにより素晴らしい居場所に思えた。


 ふたつ約束をして帰った。ひとつは、相手が不安になる隠し事をしないこと。どうしても言えないこともあるけど、その場合は双方が納得するまで話をする。

 ふたつめは、ときどきお互いの場所に行って一緒にいること。

 良さんも俺も仕事が忙しくて、むずかしいかもしれないけれど、どうにかしようとやんわり手をつないだ。指にきゅっと力を入れて目を合わせると、それだけでこみ上げるほど満たされる。

 何度もそんなことをくり返して、やっと離して車に乗った。

 公園を出るのも高速に乗るのも、良さんからどんどん遠ざかっていくようでへこんだけれど、つないだ手のあたたかさがまだ残っている。言いたいことはぐしゃぐしゃながら言えたし、良さんの気持ちもすこしはわかった。

 ラジオをつけると甘ったるいラブソングが流れてくる。今ごろ良さんも、井上カレーのバンを運転しながら、同じものを聞いていればいいのに、とため息がもれる。

 空の端が赤くなる。明日からは、今日までとぜんぜん違う毎日が始まる。

 どうしてもにやにやがこらえきれなくて、窓を閉めてすこし叫んだ。


 帰って二階の部屋に上がり、昨夜飛び出したままの部屋にまず愕然とした。飲みかけのペットボトル、開けっ放しの窓、風で部屋中に飛び散った書類のあれこれと、つけっぱなしの電気。

 ずるずると座り込みそうになるけれど、ふんっと息を吸い込み腹に力を入れる。寝てないくせに妙に元気だ。

 片づけ始めるとすぐにスマホが鳴って、ばっと手に取る。自分の勢いに笑いながら通話に出た。

「はいはい」

「あ、お疲れー。帰った?」

「帰ったよ。そっちは?」

「俺も今着いたとこ。あっついねー」

 だらしなくゆるんだかわいい声が、耳もとをふわふわくすぐってくる。

 無性におかしくて、うれしくて、どこからくるのかわからない笑いを逃すために、適当な話題を探した。

「良さん、キングモンて知ってる?」

「なにそれ。……あー、あれだ、ゲームでしょ。小学生に流行ってるやつ」

「さすがコンビニ。あ、そうか、良さんに聞けばいいのか!」

 んあ、と眠そうに大きなあくび。どうしてとなりでその顔を見られないのだろう。耳もとで響く声はすぐそばなのに、縮められないこの距離がくやしい。

「なに? なに始めんの?」

「こないだ来た小学生が、お菓子置いてくれって言うから。で、発注かけて、ついでに他の流行りものも入れようかと思って」

「ふうん」

「みんな町のスーパーに行っちゃうから、なんとか引きとめたくて」

 やっと部屋中の紙を拾って、そろえて机に置いた。カーテンをあけて、でも結局真っ暗だからもう一回しめて、となぜかうろうろと部屋中を歩き回る。

「さっちゃん、意外とちゃんとやってんだね」

「意外ってなんだよ」

「だって、もっとこう、店あけてダラーっとしてんのかと思って。あ、でもお茶出したりしてたもんね」

「今度はつぶしたくないからな」

「え? 今度って?」

 パタンと音がする。冷蔵庫だろうか。続けてキュポッと栓をひねる音が聞こえて、ぷはっとかわいい声がした。

「前にもなんかやってたの?」

「あれ、話してなかったっけ。俺、昔会社起こしてつぶしたんだよ」

「え!!」

「すごい前の話だから」

「知らない! そんなの聞いてない!」

 ぎゃっと小さな悲鳴が上がる。ペットボトルを倒したらしい。くすくす笑って片づけるのを待った。

 となりにいたら、床を拭くのも飲み物を取るのもなんだってやれるのに。こうなってしまうと、あの日の思い切りが間違っていたような気さえしてくる。

 どんなに心が近づいても、会えるのは数か月に一回。パソコンの中のスナック菓子を見て、なにやってんだとため息をついた。

「あーびっくりした……。ごめんごめん」

「大丈夫? 服ぬれた?」

「大丈夫。え、さっちゃんすごいんだねえ」

「すごくないよ。友達と学生の時に、なんかこう勢いで始めたやつだから」

「それってどんなやつ? アプリ開発とか?」

「企業向けのマッチングサイト。ほら、よくある感じの」

「ほえ~……。さっちゃんすごいなあ! 俺にはわかんない世界だ」

 カタカタとキーを打って、今でも見れるか探してみた。なにもかもすっかり変わっていたけれど、買収した会社がまだ手放していなかったようで、一応元気に運営されている。

「お、まだ見れた」

「うそ!! どこどこ」

「待って、今送るから」

「まじかあ~。さっちゃんすごい! さすが俺のさっちゃん」

 どさくさにまぎれて、なんだかかわいいことを言われた。マウスを操作してURLを送る。

 もう二度と見たくもないと思っていたページを、こんな気持ちで誰かに送る日が来るなんて、思ってもみなかった。

 聞きたい聞きたいとねだられて、その頃の話や学生時代の話、ついには小さい頃の話まで。良さんは俺の中から、どんどん引っ張り出して持っていってしまう。

 何度も笑って、のどがからからになるたびにペットボトルをあけた。

 ふと見ると窓の外が明るい。カーテンをあけると、山の向こうが白く光っている。

「良さん、寝てなくて大丈夫?」

「うそ何時? げえ! ちょっ、今から寝る」

「今から寝て起きれる?」

「わかんない。けど一時間でも寝とかないと」

「じゃあ俺このまま起きてるから、一時間たったら起こそうか」

「まじで? モーニングコールじゃん」

 うひゃひゃとうれしそうに笑う。目頭のあたりがじんわり熱くて、鼻が痛い。うれしさが度を越すと、どうしてか泣きたくなることを、何年かぶりに思い出した。

 通話を切って、ごろんと横になる。体も頭も限界のはずなのに、まるで爆発しそうに血も心もぐんぐんとめぐっていて、どうにも寝ていられない。

 すぐに飛び起きて、店をあける準備を始めた。

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