9-2
今日、ここに来てはじめてまっすぐに顔を見せてくれた。澄んだ目の奥にある感情が、ゆらりと揺れている。
あんまりきれいでじっと見つめていたら、ぱっと顔をそらされた。
「なに言ってんの。俺はべつに誰のものでも……」
「ごめん、言い方が悪くて。ええと、そうじゃなくて」
どうして気持ちをまっすぐ言葉にしようとすると、ひとかけらの単語とか、つまらない一言にしかならないのだろう。元々文系でもないし、まったくいいフレーズが浮かばない。
考えても考えても、どうしようもない言い回ししか出てこなかった。
「俺は、良さんがそのまんまでいてくれたらいいと思ってて」
「ふうん?」
くすくす笑って俺を見る。楽しそうでなによりだけど、俺はピンチだ。
「だけど、あんまり俺の知らない人と……て言ってもリカ先生しか知らないけど」
遠くのざわめきに混じって、あのカレーにしようよとはしゃいだ女子の声が耳に届いた。焦って振り向くと、手をつないだカップルがこっちを指さし歩いてくる。
「良さん」
気持ちをこめて名前を呼ぶ。ごくりと息をのみこんで、まっすぐに腕を伸ばして手をつかむ。
「いや、ちょっ、さっちゃん」
「ごめん一瞬だけ。俺、こないだ良さんと手つないだとき、すごいいろいろわかった気がして」
指はぴんと緊張している。どうか前みたいに寄りそってほしい。
「これ、恋愛感情だと思う。迷惑なら無視して」
ふわふわと赤みが増す頬の、やわらかそうなところがますます赤くなる。くちびるがすこし、震えている。
「そこのベンチにいるから」
カップルがすぐ後ろまで来てしまって、ぱっと手を放した。力が抜けた良さんの手が、カウンターへぱたりと落ちる。
いらっしゃいませ、の声が聞こえてこない。心配で振り返ると、しゃかしゃか動いて容器を出している。きゃっきゃっと楽しそうなカップルがちくりとうらやましくて、ため息をついてベンチに座り込んだ。
ひとり並ぶとどんどん増える。良さんの井上カレーは、今日も順調だ。
ツイッターで、とかいう声も聞こえてきたから、SNSも集客に役立っているのだろう。いつものようにひとりひとりと丁寧に心を合わせて、楽しそうに笑顔を振りまいている。
気がつけば、空は高く晴れている。ひかりのかたまりみたいな真っ白な雲が、太陽みたいにぎらぎらとまぶしい。腹が減った。
カレーが売り切れたらいやだと思う気持ちと、完売のかわいいピースが見たい気持ちがぐいぐい押し合う。
とりあえず水分、と空のペットボトルを持って立ち上がったところで、スマホが鳴った。メッセージがつるんと表示される。
「あと一食で完売ですけど」
すねたような敬語がかわいい。振り返るともうお客は並んでいなくて、バンの中から手を上げている。
自販機に行くのはやめて、すぐに駆け寄った。
「さっちゃん必死すぎ。猛ダッシュじゃん」
「笑うなよ」
「だって、あは、あはははは」
目がうるんでいるのは笑っているせいだろうか。赤いキャップが邪魔をして、顔がよく見えない。
「とってよ、帽子」
「え? やだよ」
「顔見えないじゃん」
「見せないもん」
ふざけた口調がどうしようもなくくすぐったい。はじめて、手を伸ばして頬にふれた。
「えっ、なになに」
「なんでもない」
「はあ? なんでもなくてついさわるの?」
「さわるよ」
「なんだよそれ。……俺はやっぱりこっちのほうが」
すき、と小さな声がした。俺の手をそっと握って、カウンターに下ろす。しっかりと手をつないで、指をからめた。
やわらいだ指にこめられた力が、あたたかく伝わってくる。やっぱりこうしてふれあったり、目を見たり声を聞いたりするほうが、画面の向こうに言葉を並べるよりたくさん伝えられる気がする。
「さっき言ってたやつだけど」
良さんはうつむいたまましゃべり始める。カレーのにおいがふわふわと漂って、セミがわんわん鳴いている。
「俺はずっとそうだったよ」
「なにが?」
「ずっとさっちゃんだけだったよ」
ぎゅうっと指をつかまれる。手をつないでいるはずなのに、まるで心臓をつかまれたみたいに胸が苦しくなる。いくら見上げても、赤いキャップのつばに隠れて、顔を見せてくれない。
「さっちゃんはふつうの人だから。……ああ、俺はリカが言ってたとおり、ただのさみしんぼうなんだけど」
「ごめん。ほんとにうっかりしてて」
「いや、それはしょうがないから。俺はね、わりと男女どっちでも抵抗なくて」
「そうなの?」
「でもさっちゃんは違うでしょ。見てたらわかる」
「うん、こんなことなかったけど、でも」
「だからいくら好きになってもだめだってずっと言い聞かせてたのに」
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