第七章 根を下ろす

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  会社を辞めると申し出るとそこそこに引きとめられて、でも実家を継ぐというとあっさり認めてもらえた。

 俺よりずっと年上の上司たちには、実家問題はかなり切実なようで、その年でよく覚悟したとか、お前のおかげで両親が助かるのだから胸を張れだとか、意外なほどの応援の言葉をかけてもらった。


 部屋を引き払ったり、なんやかんやと手続きをしているうちに、目まぐるしく毎日が過ぎる。その間も良さんとメッセージをして、電話をして、近況の写真を送り合った。

 はじめてつないだ手のひらの感覚が、まだ残っている。あたたかくて、やわらかくて、ぴたりと合った。

 まっすぐにひかれていったから、ふと気づくのが遅すぎたけれど、男同士だ。

 良さんはああいう感じだから、もしかしたら慣れているのかもしれないけれど、俺は知らない。そもそも女性ともろくに付き合ったことがないから、ふつうは感じるだろう違和感も抵抗感も、意外なほどに薄かった。


 最後の荷物を見送って、がらんとした部屋に立つ。この部屋を、こういう形で去ることになるとは思わなかった。

 黄色くなったエアコンが、家具のない部屋にぽつんとある。はじめてここに来た頃は、まだ生傷が新しくて、毎日借金の額を数えて暮らしていた。

 その頃の記憶も記録もない。ぼろぼろになるまでつけ続けたノートが数冊あるだけだ。スマホで写真を撮ることもなく、なにを食べてもなにも思わなかった。道を歩くのは会社に行くときだけで、あとはこの部屋で寝転がって過ごした。

 数年前までつけていた返済ノートを、久しぶりに広げた。最初の頃は紙がぼこぼこにへこむほどの筆圧で、どれほど強く恨んでいたかがよくわかる。それもだんだんゆるくなり、カフェ通いをはじめたあたりで格段にやわらかくなった。

 それから、数年以内に返せる目途がはっきり立って、緊張感がなくなったのかつけるのを忘れている。それきりやめてしまっていた。

 書類の上の金額がただの数字にしか見えていなかったから、だんだんおかしくなっていったのだと思う。ただの数字でも、その後ろにはいろんな人の顔や手や時間があって、気が遠くなるほどたくさんのものがつながり隠れている。

 そんなこともわからずに、調子よくゼロを並べていい気になっていたから、こうしていつまでも残るほどのものを背負ったのではないか。

 カフェで一杯のコーヒーを飲んで支払う金額は、心からのありがとうと共に相手に渡したくなる。おいしいコーヒーをありがとう。気持ちのいい空間をありがとう。

 そうして家に帰ってノートをつけると、七百五十という数字を見ただけでもあのやわらかな時間を思い出す。この金額の中に、どれほどの積み重ねや気持ちがこもっているだろうと、耳をすませたくなる。


 電車の窓にもたれかかって、三月になったばかりの空を眺めた。どこまでも雲が広がり、真っ白にひかる空。雲の上にはいつも太陽があって、どんなに雲が分厚くても、必ずひかりが差してくる。

 右手をそっと握り込む。いつかきっと、良さんに俺のばあちゃんの店を見てもらおう。庭にある大きな梅の木も、となりに立つ俺の実家も、父も母も妹も、ぜんぶ知ってもらいたい。

 そのためにも、結局うやむやになっている叔父との話し合いから始めていかなければ。どんなに相手にされなくても、周りからやめろと遮られても、無理やりにでも始めなければ、前には進めない。

 スマホをかざして一枚撮る。窓の外には山と畑が広がっていて、なにもめずらしいものはない。だけど、この瞬間に考えていたことを、見るたびに思い出せるはずだ。




 実家に戻ると母は出かけていて、父から祖母の家の鍵を借りた。引き戸に鍵を差し、回す。がちりと手応えがあって、引き戸を引くと中からふわりと風が通った。

 土間にはかすかな洗剤と祖母の残り香がまだあたたかく残っていて、もうどこにもいないなんて信じられない。

 一番上には手が届かなかった棚が、俺の鼻よりも低い。ちらほらと残る日用品のパッケージが日に焼けて、白っぽくなっている。

 ざりざりとかすかな砂ぼこりを踏みしめて、荷物を持ったまま店の中を歩いた。中は薄暗いけれど、棚に隠れた窓も引き戸のカーテンも、すべて開ければかなり明るくなりそうだ。

 試してみたくなって、あけられるところをすべてあけてみる。とたんに空気が変わった。

 ガラス戸を目隠しするように貼ってある白っぽいポスターも、はがしてしまえばもっと明るくなるだろう。きっと店の奥までひかりが届く。古びていてもたくさんほこりをかぶっていても、まだこの店はあたらしくなれる。

「ほんとに帰ってきたんだねえ」

 母が引き戸の敷居をまたいで、店に入ってきた。いつものエプロンに上着を羽織っている。

 小さなレジスターの台まで歩いて、よいしょ、と丸椅子に座った。

「あれから何度か話し合ってね。この店も土地も兄さんが相続して、それをうちが買わせてもらうことになったんだよ」

「買うって、叔父さんにお金払うってこと?」

「そう。お父さんが頑張ってくれてね、なんとか理にやらせてみたいからって。起こした会社つぶしちゃったのは残念だったけど、その経験があるんだから、今度はちゃんとやれるだろうって」

 これからどれだけ時間をかければ叔父はわかってくれるだろうかと、張りつめていたものが急にとけた。首の後ろのあたりに、重たいものがずしんと下がる。

 父のぶっきらぼうな背中が浮かぶ。父も母も、こうして俺から見えないところでいつもいつも道を引こうとしてくれる。

 その気遣いを余計だとかうっとうしいだとか、子どもの頃のようにはもう思わない。今はまだ、返せるものをなにも持っていない自分がただくやしくて、言葉も返せず頭を下げた。

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