6-3

 やっと落ち着いた井上さんと、仕切り直してカレーを食べた。メッセージで予告していた激辛にはされていなくて、どちらかといえば甘い、やさしい味だった。

 おいしいのはもちろんだけど、目の前でくるくる変わる表情を見ているだけでいっぱいになる。合間に飲んだ水でさえ、目が覚めるような味がした。

「さっちゃん、見すぎじゃない?」

 井上さんがはにかんで、首をかしげてうつむく。それがかわいくて、にやつく口をぐっと抑え込む。

「いや、だって、食べとこ見るの初めてだし」

「うそお、前にパーティーで食べたじゃん」

「あれは、パンとかお菓子でしょ。カレー食べるとこ、見るの初めて」

 最後のひとくちを、大満足で頬張る。井上さんはまだのんびり食べている。

 おんなじように、最後のひとくちをごくんと飲みこむところまで、ゆっくり待った。

「さっちゃんはしみじみかっこいいね」

「なに、急に」

 びっくりして頬杖のバランスを崩した。井上さんが言うと冗談に聞こえなくて、こっちがはずかしくなる。

「俺がどんなに甘ったれても動じないし、どっしり構えてる」

「そう? めちゃくちゃ焦ってるけど」

「うそだあ。普通、いきなり泣きだした男の手をあそこまでやさしくなだめたりしないよ」

 言ってしまってから自分で照れて、またうつむいている。テーブルの上に、手を置いてくれればいいのに、と思ってじっと待った。

 黙ったままでいると、井上さんもなにも言わなくなる。目がうろうろと泳いでいて、一向に合わせてくれないから、とりあえず話をはじめた。

「ここ、井上さんの実家?」

「うん、ていうか、じいちゃんち。うちはちょっと向こうのマンション」

「そこに家族で住んでる感じ?」

「今はそこも出て一人暮らし。今度そっちにも来てよ」

「行く」

 ふっと頬がゆるむ。やっと目を合わせてくれた。

 窓をあけているからか、通りを行く人の声がよく聞こえてくる。どこからか夕方のにおいがした。

「ここはね、井上カレーの秘密基地。ここで作って、キッチンカーに乗せて行ってんの」

「じゃあここは、もう誰も住んでない?」

「じいちゃんが施設に入ってからは、誰も。だから俺が掃除がてらここに来て、使わせてもらってて」

 きれいに澄んだ目がちらりと曇る。ガラスのコップについた水滴が、ぽつりと流れた。

「あのバンね、昔じいちゃんが移動販売やってて。とうふー、とうふー、ってやつ」

「うわ、聞いたことある」

 記憶が急にひらいて、山奥の道を思い出した。

 ときどき、買い物に来れなくなったお年寄りの家に、ばあちゃんが運転する小さな車で商品を届けた。

 でこぼこすぎる道なき道を、勇ましく運転する前のめりの祖母。クッションもろくにない助手席で、思いきり上下に揺さぶられ、妹とぎゃあぎゃあ騒いで喜んだ。

 そんなとき、同じような理由で町のとうふ屋が、小さなバンで届けに来ていた。

「さっちゃん、たまに放心するよね」

「あ、ごめん。田舎に帰ってた」

「脳内で?」

「うん。なんでだろ、井上さんといるといろいろ思い出してきて」

「へえ……引き出し開いちゃう感じ?」

 にこにこと首をかしげるその仕草を、どれくらい自覚しているのだろうか。

 パーティーに来ていたお団子の女子大生も、キッチンカーで前に並んでいたきゃんきゃんした女子も、仕方なさそうに笑うヨガの先生も、みんなとっくに井上さんのファンだろう。

 俺もその中のひとりなのだと思うと、言い知れないもやもやが広がる。

「そういえば、ヨガの先生が、井上さんは来ないのかって」

「ああ、リカ? 行きたいんだけどさ、調整つかなくて」

 ほっぺをぷくうとふくらませて、スマホを取り出す。つき出した下くちびるまで、ぷっくりとかわいい。指の届く距離だから、つついてやろうかと見ていると、画面をこちらに差し出してきた。

「これでしょ、リカのシフト。俺、ここんとこちょうど取れなくて……あ、でもさっちゃんが向こうに行っちゃう前に、一緒に行きたいなあ」

 つい、つい、と指で画面をつつく。ヨガの先生が言っていた「さみしんぼう」という言葉がふとよぎった。

 手をつながせてくれたのも、こうしてカレーに呼んでくれるのも、人恋しさが有り余っているからだろうか。そんなことを考えてみてもつまらないだけなのに、もやもやがどんどん広がっていく。

「さっちゃん? 聞いてる?」

 はっと顔を上げた。意外とすぐ近くに顔があって、あやうく引き寄せそうになる。冷静になろうと、顔の近くにある指をつかんだ。

「なっ、なになに」

 ぽわんと染まる頬がかわいい。いつの間にか部屋は薄暗くなっていて、窓の向こうの街灯に明かりが灯っている。

「俺って、どのへんにいる?」

「へっ?」

 まんまるな目がさらに大きくなる。指先はまだ緊張している。

「キッチンカーの常連から、いつでもやり取りできる友達にくらいはなれてると思うんだけど」

 勢いで、息継ぎもなく言い切った。胸が苦しい。聞いてよかったのか、やめておけばよかったのか、判断がつかない。

 井上さんの指はぴきんと固まったままで、呼吸まで止めているように見えた。

「もっ、もちろん」

 まだ指先はゆるまない。みるみる冷えていくのがわかる。ちょっと体を動かしたとたん、テーブルに足をぶつけてしまって、皿とスプーンがガチャンと鳴った。

「あ、ごめん」

「いや、あの……さっ、さっちゃんさえよければ」

 きゅっと目がひらく。切羽詰まって、きゅうきゅうに緊張していて、思わず笑ってしまいそうなほど、かわいい顔をしている。

「名前で呼んでほしい……かも」

 消え入りそうな声だった。顔はとっくに下を向いて、真っ赤な耳の先しか見えない。

 頭のてっぺんのちょこんと白いつむじがよく見えて、きれいにくるくると髪の毛がうずを巻いている。

 気がつくと、こんなすみずみまでも、大事に大切に思い始めている。

「なにがいい?」

「えっ?」

 がばっと顔を上げた。その目があまりにかわいくて、今度こそ笑ってしまった。

「なっ、なんで笑うの」

 照れて喜んですねている。この人はほんとうに目まぐるしい。

「なんて呼ぼうか、井上さん」

 つないだ指先が、ふにゃふにゃになっている。

 なんの抵抗もない指は、どちらかというと寄り添いたがっているようで、ぴたりと肌が合って心地いい。すっかり許してくれたみたいで、うれしかった。

「いやっ……それはおまかせで」

「じゃあ、良ちゃんと、良さんと、あとは……」

 聞いたことのある呼び名を並べて、じっと目を見てたしかめる。良さん、と呼んだ瞬間、きらりと目の奥がかがやいた気がした。

「良さん、て気に入った?」

「えっ、なんで?」

「顔が喜んでたから」

 つないでいないほうの手で、鼻から下を必死に覆う。それでも頬の赤みは見えていて、かすかにうるんだ目もよく見える。

「良さん、そんなに照れ屋でキッチンカーとか大丈夫?」

 げほげほ、と咳をした。さっき自分もやったから、きっと涙やその他のもろもろを、ごまかしているのかなと勝手に思う。

「だってあれは、キャップもあるし、窓越しだし、そもそも……」

 顔を隠す手のひらをやっと外してくれた。かわいいくちびるがぷりっと笑う。

「さっちゃん以外なら大丈夫だし!」 

 迫る感情が、もう言葉にならない。いつの間にか指はしっかりとからんで、手のひらがぴったりくっついている。

 どっちが先にこうつないだのか、と言い合って、お互いに押し付け合って笑った。

 立ち上がろうと腰を浮かすと指をほどこうとするから、もう一度ぎゅっとつなぎ直す。何度かそんなことをくり返して、やっと手を離した。

 部屋はすっかり真っ暗で、電気をつけると明るくてまぶしくて、その中で見た良さんの顔が、特別にきれいにいとおしく見えた。

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