6-2

「さっちゃんおなかすいてる? もうついじゃっていい?」

「食べる」

 食いつき方が子どもみたいで自分でも笑えた。そわそわと椅子に座る。井上さんはくすくす笑って、真っ白な皿にカレーをよそう。

 すらりとした背中も、きれいに張った腕の筋も、たしかな仕事をしてきただろう指の節にも、目が引きつけられてそらせない。

 目の前にカレーがやってくる。この瞬間を、毎日毎日想像しては踏ん張ってきたなんて、とても言えない。

「いただきます」

「はい、どうぞ! 俺もいただきまーす」

 スプーンをとって目を合わせると、お互い笑っている。いつも、肝心なところで井上さんの顔を隠していた赤いキャップがないから、まるっこい目の端までよく見える。

 先に食べ始めていた井上さんが、慌てて飲みこんで言った。

「ちょっ、なに見てんの、早く食べようよ」

「だって久しぶりだから。帽子かぶってないとこはじめて見るし」

「あっ」

 頭に手をやって、立ち上がって行こうとする。思わず腕をつかんだ。

「だめ。今日はかぶんないで」

「いや、でも俺、あれがないと……」

 みるみる頬が赤くなる。大きな手のひらが、鼻から下をおおう。くったりとうつむいてしまって、まるで俺がいじめたみたいだ。

「とりあえず、手、離して」

「あ、ごめん」

 すぐに謝って腕を離す。するりと腕が引っ込んで、と思ったらすぐに戻って来て、今度は俺が指をつかまれた。

「どうせなら、こっちのほうがいい」

 右手と左手だから、握手にすらなっていない。ふり払わないようにそろそろと手首を回して、手のひらの上に井上さんの手をのせた。

 やさしくやさしく、手をつなぐ。やわらかな手のひらと、しっかりした指の線。あったかくてうれしくて、ただそれだけでいっぱいに満たされていくのが不思議だった。

 顔を見上げると、大きな目から今にもこぼれそうにうるんでいる。またやってしまったのかと慌ててゆるめたけれど、しっかりつかんで離そうとしない。

「まだ。もうちょっと」

 ぐすぐすと涙まじりの、でもしっかりした声だった。緊張でかちんと固まっていた反対の手も添えて、両手で井上さんの手をつつんだ。

 手の甲は筋張っていて、よく日に焼けている。俺の情けなく白い指と、まるで違う場所を歩いてきた色素の肌。そのふたつがこうして重なりあっている。

 なんだかわからないけれど、真新しい気持ちがあふれて頭が追いつかない。そっとなでながら、しみじみと眺めた。

「浦田さんは、気持ち悪くないの?」

 急に名字で呼ばれて、顔を上げた。ちょっと落ち着いてきた目が、怯えたようにすくんでいる。

「なにが? 井上さんの泣き虫?」

 少し笑って言った。井上さんはまだ張りつめていて、ごくりとのどを鳴らした。

「こんなでっかい男が手、握ったりとか」

「そう? 俺よりはちょっと小さいでしょ」

「そうじゃなくて」

 まつ毛がふるふる揺れている。そこにもふれてみたい。でも今、俺の両手は井上さんの手をつなぐのに夢中で、まだ指はのばせない。

「なんかおかしくない? ふつう、男同士で手、つないだりしないもん」

 ちょっと興奮しているのか、脈が早くなった。しっかりと手のひらをつつんで、さりげなく手首に指をあてているからよくわかる。

 とん、とん、とゆっくり指を動かして、緊張した手の甲をなだめた。次第に力が抜けていく。

「おかしいかもしれないけど、俺がしたいから。……だめかな」

 また目がうるんでいる。下のまつ毛がすっかり張り付いていて、そこへぽろりと一粒流れた。

 あんなにきれいな粒を流してしまうなんて、もったいない。頬をぬぐうと、びくりと一瞬体が揺れて、でもすぐに、任せてくれた。

「いやだとかやめてよって言われたらもちろんやめるけど、言わないし、もうちょっとって言うから」

 まるで耳をふさぐように、ぐいっと顔を背けた。でも手は離そうとしないから、きれいな首筋がよく見える。耳の先まで真っ赤になっているのもわかって、指先からスピードを上げる脈も伝わってきた。

 こんなにたくさんの濃度や温度の、言葉にならない気持ちが自分の中にあるなんて、知らなかった。中というより、外から与えられて、ひたすらに反射をくり返している。

 井上さんがいてくれて、こうして手のひらにふれさせてくれて、テーブルの上にはカレーがふたつ。これ以上のものなんて、どこにもないんじゃないかと、すがりつくように手のひらを包み込んだ。

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