第六章 井上とうふ店
6-1
電車に乗る前に、売店をうろついた。ペットボトルを一本つかんで、目についた箱菓子の中からいちばん良さそうなのを選ぶ。
昨日、やっと井上さんと約束をした。次の日曜日、井上さんの部屋で、数か月ぶりのカレーを作ってもらえることになった。
なんとなくスマホを出して、昨夜のメッセージをめくる。
「で、さっちゃんはほんとに田舎に戻っちゃうの?」
「うん」
「いつ? それなら早くカレー会しないと」
「なんだっけ」
「ひっど! 俺に作ってって腕ぐいぐい引っ張ったくせに~!」
怒りのスタンプがぽんぽん入る。頬をふくらませた井上さんが見えるようで、おかしかった。
「うそうそ。覚えてるよ」
すぐに返ってきたのはすねたスタンプ。後ろ向きのシロクマが、口をへの字に曲げている。ひとりで吹き出した。
「今ので井上さんがかわいいのがよくわかった」
はっとした。送ったメッセージは取り返せない。スマホを持ったまま頭を抱えた。すぐに通知が鳴って、頭蓋骨に響く。
「俺も今のでさっちゃんが意外といじわるなのがわかった」
「カレー激辛にしてやる」
夜中に腹を抱えて、声をおさえて笑う。いつの間にか涙がにじんでいて、少し鼻をすすった。
井上さんとだいぶ仲良くなれた気がする。少なくとも、こうしてメッセージを送れるようになってからは、いつでもつながれるという安心感がある。
電車の窓から、ぼんやり外を眺めた。冬晴れの空がきらきらと明るい。目をとじてもまぶたの中まで、どこまでも日が差してくる。
井上さんに会えるまでの、ここからの一週間はきっと忙しい。でもきっと、この騒がしい気持ちがなによりの力をくれるだろう。
ビッグスマイルのスタンプを思い浮かべて、同じ顔でにやついた。
井上さんが送ってくれた地図を片手に、はじめての下町を歩いた。小さな駅から歩いて少しの商店街で、かわいいアーケードの看板と、活気のある個人商店が並んでいる。
松の内はとっくに過ぎたのに、まだ正月の飾りが残っていたりして、のんびりした空気がどこかなつかしい。
地図に書いてあるように、商店街の中ほどまで進む。オレンジのレンガが積まれた昔ながらのベーカリーがある。緑のほろが元気な鮮魚店もある。昔風の小さな書店に、色があせすぎて真っ白になったポスターが貼ってある。きょろきょろ歩いていると、十字路の角に、井上とうふ店の看板があった。
真っ白なパネルに黒の筆字。いかにも何世代か前の時代の看板で、それなのに墨の色はくっきりと伸びやかだ。井上カレーのバンに書いてある書体と同じで、やっとここまでたどり着いた、と手の甲のあたりがそわそわした。
ガラス張りの引き戸から中をのぞいた。がらんとしている。機械もなく、人もいない。
もう営業していないようで、ひもでまとめた新聞や、段ボールが無造作に置かれていた。どこから声をかけようかと、店の裏のほうへ回ってみると、勝手口のドアが開いている。
中へ入るつもりでのぞきこむと、ふわんといいにおいがする。カレーだ。かいだとたんに、むずむずと胸がかき立てられる。たまらなくなって、気づいたら呼んでいた。
「井上さん!」
奥のほうではあいと声がして、ばたばたと足音がする。
「さっちゃん!」
ぴかぴかの笑顔がのぞく。目の前に、急に井上さんが現れた。ぱっと姿が見えたとき、勢いがよかったのか髪の毛がきらきらと揺れていて、どうしてだか泣きたくなってしまった。
赤いキャップがないせいか、ずいぶん幼く見える。ド派手なTシャツはいつも通り。デニムのひざには穴があいていて、ちょっとやんちゃだ。
手を伸ばせば届く距離に、井上さんがいる。それだけで胸がつまって言葉が出てこない。想定外の自分の状態がおかしくて、半分目をうるませながら、黙って手土産を差し出した。
「あ、わざわざ買ってきてくれたの? ありがとう」
「うん」
やっと声が出せた。咳払いで涙を追い払って、むりやり笑う。
「地図のおかげで迷わず来れた」
「ほんと? 看板目立つから、すぐわかったでしょ」
くしゃくしゃの笑顔。スタンプと同じビッグスマイルだ。すぐに手を伸ばして髪の毛をかき混ぜてみたい。日に透けてきらきらひかる黒髪は、きっとさわり心地がいいと思う。
「入って入って。カレー用意できてるよ」
手を伸ばしかけたところで、くるりと背中を向けられた。慌てて引っ込めて握り込む。
Tシャツの背中のロゴに、ストップなんとかと英字があり、ふと冷静になった。頭と体がばらばらに動いているようで、なんだかおかしい。
井上さんについて、店の奥にある階段を上がる。小さな玄関で靴を脱いだ。入ったとたん、カレーのにおいでいっぱいに満たされていて、からまった胸がほどけていく。
板壁の台所に小ぶりなテーブルがあって、使いこまれた雰囲気があったかい。大きなガラス窓から入るひかりがぴかぴかとまぶしくて、年季の入った食器棚も、吊り戸棚の表面も、つるつるとひかりを反射している。
まるで井上さんそのものみたいな、とてもあかるい部屋だった。
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