5-6

 起きてしばらく、どこにいるのかわからなかった。天井や窓の感じが自分の部屋と違う。少し考えて、ああ、実家に帰っているのだと思い出した。

 昨日、衝動で人生の方向を変えたこともよみがえってきて、すうっと目が覚める。井上さんのいつまでも続いた笑い声もまだ耳の底にあって、枕元をなでまわしてスマホをとった。

「おはよー! いってきま!」

 まだ六時だというのに、もう仕事に向かっている。真っ暗な空の下を走る車の窓から、ビル街の写真を送ってくれていた。画面をスクロールすると、昨日の月の写真が残っている。

 井上さんの見ている景色と、俺の見た景色が、こうして同じ画面に並んでいる。なんということもないことだけれど、たまらなくなってスマホをぐっと握りしめた。

  

 昼からの式だったけれど、早めに行くことにして、準備していたら美樹も帰ってきた。結局昨日は間に合わず、今朝の始発でこちらへ向かったと話した。

 持って帰った礼服を着てしまうと、もう他に準備することもない。玄関に続く廊下で、母の支度を待つ。こうして壁にもたれても、なんだか距離が近い。この家が狭くなったのかと思ったけれど、そうではなくて、俺と美樹がかさばる大人になっただけだった。

「聞いたよ、お母さんから。昨夜さっちゃん無茶言って暴れたんだって?」

「暴れた? そんなことになってんのか」

「え、違うの? そうよね、お母さんなんでも大げさに言うから」

 美樹は大人の女性のようにふふっと軽く笑った。俺の二つ下だったから、もう二十三で、それならまあふつうの仕草だと思うけれど、この家で美樹を見るといつまでも子供だと思ってしまう。

「さっちゃんほんとに会社辞めんの? 冗談でしょ?」

「辞める」

「よく考えたの? どうせその場の思い付きでしょ?」

「まあ、そうだけど。でも決めたから」

「は?」

「俺がばあちゃんの店を継ぐ。この家のことも。美樹はずっと東京がいいんだろ」

 きれいなピンクに塗られた唇が、くっと閉じた。髪と同じ浅めのブラウンでふわふわと描かれたまゆが、かすかな八の字に下がる。胸の前で組んだ腕の、手首の細さが気になった。ふくふくしていたはずの頬も、昔より薄くなっている。

「仕事、大丈夫か」

「さっちゃんに言われたくない」

「忙しいんだろ。ちゃんと休みとれよ」

「さっちゃんに言われたくない」

 小さくほっぺをふくらませて、ぷいと横を向いた。足元を見ると、黒のストッキングの先から真っ赤なネイルが透けている。俺の、見るともない視線に気がついたらしく、右足をさっと後ろに隠した。

「ほうれ、まだか」

「はあい、もうすぐ、もうすぐ」

 しびれを切らした父が居間からのっそり出てきて、二階に向かって怒鳴る。母がそれに返して、ドタバタと走りまわる音が天井越しに聞こえて、ときどきミシッと板が鳴る。

 ここは、家のどこにいてもこうして誰かの気配がする。住んでいる時は、それがうっとうしくてたまらなくて、早く出ていきたいとばかり思っていた。

「はいはい、おまたせ」

「お前は、いちいち、遅いんじゃ」

 文句を言いながらも、並んで靴を履く父と母の背中は、おんなじようななだらかさで、まあるく小さくなっている。こっそりスマホを取り出して、一枚撮った。ガラス戸の玄関には朝日が差していて、逆光でうまく撮れなかったけれど、父と母の髪がきれいに光って、いい一枚になった。

 井上さんに送るために撮り始めた写真が、いつの間にか大事な日々の記録になっている。あとで美樹の機嫌が直ったら、みんなで一枚撮ってみようかと思った。


 町のはずれの山の上、車でないととても行けそうにない、ほとんど山のてっぺんみたいな場所に斎場がある。火葬の施設がついているから、それくらい離れた場所でないと、町の人の許可が下りなかったのだと聞いた。

 ロビーに入ると、なんだか妙に視線を感じる。町の人や親戚が、ちらちらとこちらを見て、昨夜の噂話をしているようだった。受付をすませて、ソファの真ん中に座る叔父のところへ挨拶に行った。

「義兄さん、昨夜は……」

「おお、来たかね」

 父が申し訳なさそうに声をかけると、沈んでいたソファからゆっくり身を起こす。こうして見ると、叔父もたしかに高齢になった。さすがに疲れているのか、昨夜の迫力が失せている。

「ご無沙汰してます」

「美樹ちゃんかね! まあまあ、きれいになって」

 となりの叔母も顔を上げる。にっこりと、含みのある微笑んだ目で美樹を見る。

「叔父さん、昨夜は急にすみません」

「ああ、さっちゃん、考え直したかね」

「はい?」

「会社辞めるだの言うて、無理じゃろ」

 ソファで指の先を組み、ねめつけるように見上げてくる。有無を言わせぬ迫力がまだまだ残っていた。父と母がさっと俺を見て、なにか言おうとする。遮って前に出た。

「無理じゃないです。ちゃんと辞めて帰ってきます」

「さっちゃん」

 美樹がたしなめる。その言い方が、あまりに母とよく似ていて、思わず顔を見てしまった。

「俺のばあちゃんの店ですから。母が継いで、それから俺が継ぐのが筋です」

「はっは、筋、と言うか」

 叔父はおかしそうに顔を背けて、大きく短く笑った。戻ってきた視線は、すこしもにこやかではない。

「筋と言うなら、おかしくないか。ばあちゃんの子は、ぼくと、お前んとこの母ちゃん。順番で見たら、さあて、どっちか」

「でも、ばあちゃんが寝ついたとき、店はうちの母がやると約束したと聞いて……」

「さっちゃん、やめなさい」

 母が鋭く打ち切って、腕をつかんでくる。振り払おうとして、それが意外なほど力強くて、ぐっとこらえた。気がつくと、フロアにいるたくさんの人が、はらはらとこちらの様子を伺っている。「相続か」「ああ、あの店」「誰でもいいけど、継いでくれりゃあねえ」などと、うっすら聞こえた。

 父が大きく咳払いをする。叔父がソファに背を静めた。ゆっくりとなだめるように口をひらく。

「まあ、まあ、ここでこんな話は……」

「そうそう、理もほら、もう下がっとれ。すまんかったね義兄さん」

 父がとりなして、その様子がいかにも下手に出たものだったから、こっちまで申し訳なくなってくる。さっき見たばかりの、まるまった背中がふとよぎって、一緒に頭を下げた。

「叔父さん、ごめんなさい」

 美樹がすかさず頭を下げる。慣れた仕草が上品で、ここの斎場の人よりもずっときれいなお辞儀だった。

「叔父さん、すいません。またお話させてください」

「うん、後でな」

 俺がひとこと付け加えると、頷いて、いかにもやさしそうに微笑んだ。それがすぐに変わる表情だということは、もうよくわかった。

 叔母もちょろっと頭を下げて、叔父のななめ後ろをついて行く。フロアを行くと、ほうぼうから頭を下げられ、その度に立ち止まって話している。

 母がとなりでため息をつく。つかんでいた腕をやっと放してくれた。礼服にしわが寄っている。

「もう、あんたはほんとに」

「まあ叔父さんも勝手よね」

「美樹! あんたまで」

「あれならさっちゃんが切れたのわかるわ」

 ふん、と鼻から息をはく。つやりとかがやくネイルの指を、喪服の腕にとんとんとついている。思わず美樹の顔を見た。

「さっちゃん、好きなようにしたら。私はしばらく東京だけど、なんかあったら手伝うから」

「美樹!」

 母が目をまるくしてたしなめる。父はもうすっかりソファに座り込んで、スタッフがくれたお茶を静かにすすっている。

「お母さん、いいじゃない、さっちゃん帰ってきたら安心よ」

「安心はあんたがするんでしょう。お母さんは、お父さんと二人で困っとらんよ」

「いい人見つけて、結婚してもらえば孫も見れるし」

「うん、でも、そうは言ってもねえ」

「孫と近くに住んでくれたら、お母さんもしょっちゅう顔見れるじゃない」

「それは、まあ、ねえ……」

 母の表情が微妙に変わる。二人の会話は、テンポが早くてくるくる回る。おかしな話になる前に、と急いで加わった。

「おいおい、店は継ぐと言ったけど、結婚なんてことは……」

「しないの? さっちゃん」

「そういう人はいないから」

「見つけに行くのよ、そういう人は。じいっとしてたら、できるわけないわ」

 ぽんぽん言い返されて、出かけた言葉もしゅんと引っ込む。父を見ると、もうとっくに近所の人と話し込んでいて、まるでこっちを気にしていない。

「お母さん、みやさんに頼んでみたら。ほら、お見合いの」

「ああ、そうね。こっちに帰ると決まってるんなら、相手にしてもらえるかもね」

「ね、帰るってなったら、いろいろ片がつくよ」

「あら、ほんと。それもええかもねえ」

 あははは、と明るい笑い声が上がる。父がそれを耳だけで聞いて、ふいっと目じりを下げたのを見た。

 美樹は母の腕をそっと支えて、大きく頷いて話を聞いている。母は、まるで美樹に甘えるように、顔を見上げて一生懸命まくし立てている。

 雑誌のスタンドに近づくふりをして、すこし離れてその様子を一枚撮った。離れていても、お互いに違う方向を見ていても、小さな四角におさまっている。

 美樹がいて、父がいて、母がいてくれて、よかったと思った。

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