5-5

 張りつめていたものがゆるんで、ざわざわと空気がなごむ。赤ちゃんと従姉のところに、座卓の準備を手伝っていた義兄がもどってきて、目をまるくしたまま微笑んだ。

「さっちゃん、どうしたの」

「私もびっくりよ。パパちょっと代わって」

 従姉が手伝いに行こうと腰を上げる。義兄は、従姉の手から赤ちゃんを抱きとって、俺のとなりに座り込んだ。

 となり町で、親の代からのちいさな商店を開いていると聞いていた。いわゆる商売人という雰囲気はなくて、いかにも人の好さそうなやわらかな物腰の、従姉と良く似た空気の人だ。

「見てられなかった?」

 ひそっと声をかけられる。義兄にはお見通しだ。このあたりの妙に鋭いところが、俺みたいなただのサラリーマンとどこか違うといつも思う。

「こんな歳でフラフラしてんの俺だけだもんな」

「フラフラしてないよ、ちゃんと仕事してるんでしょ。IT系だっけ」

「いや、ITとか言っても、パソコン打ってるだけだし」

 ふふふ、と低く笑う口もとに、赤ちゃんがぺちぺちと手をあてる。口の端をぐにぐにと好き放題に引っ張られて、さすがに痛そうに、小さな手をやさしく引きはがした。

「偉いよ、サラリーマンは。ちゃあんと、たくさん、我慢してる」

「そんなことないって」

「してるよ。うちらみたいなその日暮らしとは違う、先のことまでようく考えてる」

 言葉の端々に、従姉とおんなじにおいの、あったかい気遣いがあった。腕の中の赤ちゃんのまんまるな目を見る。

 この子も同じように、人の心をほっとさせる人に育っていくのだろうか。きゃっきゃっとはしゃいで身を乗り出すたびに、ぷちんと外れる産着のボタンを、義兄が何度もとめてやっていた。

 叔母が運んできたビール瓶が、テーブルの上にどんどん並んでいく。仕出しの寿司とオードブルも並んで、あっという間にお通夜らしい席になった。

 廊下から大きな声の挨拶が聞こえてくる。近所の人も、古い知り合いも、祖母のために集まってきている。

 祭壇の上で、額縁の中からじっと見つめてくる祖母の目が、いっそうやさしく微笑んだ。線香を上げにと思ったけれど、仏壇の前のあたりはお供物でいっぱいで、座るスペースもないように見える。

 そもそもあんな狭いところに祖母はいない。昔と同じように、好きなようにそのへんを歩き回っているのだろう。

 それともきれいな雲の上で、祖父とやっと二人になれたと、うきうきしているのかもしれない。ほんとうのところなんてわかりようがないけれど、せめて俺の勝手な想像の中だけででも、そうしていてほしかった。

 額縁の中の祖母は、ほっとしたようにほほ笑んでいる。その場で深く、祖母に向かって頭を下げた。




「あは、あははははは」

「井上さん笑いすぎ」

「だって、さっちゃん、あは、あははは」

「そんなに笑うとこ?」

 つい、十年ほど前までこの部屋で寝起きしていたのに、すっかりよそよそしい。がらんどうになった俺の部屋は、日当たりがいいというので、部屋干しのための部屋になっていた。

 端に寄せてもらった簡単な物干しと、ハンガーと、洗濯ばさみのかご。六畳の小さな部屋のど真ん中に、客用の布団を敷いて寝転んだ。

 フリック入力もメッセージもすっかり得意になったけど、やっぱり直接声が聞きたい。

 自然とそう思ってしまうことが、なんだかおかしいような気がしたけれど、そこにこだわるほど余裕がなかった。

「ごめん、遅くなって疲れてんのに」

「いや、さっちゃんこそ。久しぶりの実家なのに、いいの話してて」

「いいの。なんか、井上さんに聞いてほしくて」

「おっ、聞く聞く」

 ノリのいい、かけ声のような相づちと、やわらかで甘い笑い声。今日、朝からずっと、これがほしかったのだとやっとわかった。

「で、なんでそんな笑うの」

「いや、さっちゃんがいきなり会社辞めて実家継ぐって言うから」

「実家っていうか、ばあちゃんちね」

「あ、ごめんごめん。あんまり勢いづいてるから、なんかすごいなって思って」

 勢いと言われれば勢いだ。ほとんどあの場の衝動だった。

 でも、考えれば考えるほど、それしかない気がしてくる。今の会社にいても、ずっと同じような毎日が続くのだと思うし、それでいいかと言うと、そうでもない。

 少し前、井上さんに呼んでもらったパーティーで、はじめてカウンターの内側に立った。そのときの、湯気の立つカレーの皿越しにもらった、誰かの笑顔が忘れられない。そう話すと、電波の向こうでぐっと黙る気配がする。

「なんか、ごめんさっちゃん」

「なにが?」

「俺が変なこと教えちゃったかな。余計なことに巻き込んだみたいで……」

「それは違う」

 思ったより強い声が出て、スマホを外して咳払いをした。鼻をおさえてからもう一度話す。

「井上さんみたいに、生きがいみたいなの見つけたくて。俺、なんにもないから」

「そんな、生きがいなんて立派なもんじゃ……」

 しゅるしゅると声が小さくなる。となりにいたら、また腕をつかんで向こうへ行くのを引きとめたのに、とじりじりした。

「いつかさ、来てほしいんだよ井上さんに。俺のばあちゃんの店、見てほしい」

「なーにそれー」

 にやにやした声が、だらしなく伸びている。かわいいな、と思った。

「なんていうか、井上カレーみたいな店だったから」

 話してみると、言葉がするする飛び出してくる。

 井上さんのカレーのにおいをはじめてかいだときの、あの感じ。あれは、記憶の中の祖母の店だった。そうか、そうだったのか、とひとりで納得した。

「時間かかるかもしれないけど、俺が復活させるから、絶対見に来て」

 スマホの向こうでまた笑い転げている。どうしてかわからないけれど、俺も一緒になって笑った。

 夜中のしんとした空気の中、声をおさえて笑っていたら、腹筋がぎりぎりと痛くなるほどに、強く笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る