5-2
数年ぶりに見る祖母の家は、全体的に色があせていて、存在そのものが薄くなっているようだった。
つぐみ町の端のほう、山すその田んぼに囲まれたこののんきな場所で、浦田商店という小さな日用雑貨店をひらいたのが俺のひいばあさん。戦後のゴタゴタで、持っていたわずかのものもすべて失い、この田舎の町に流れ着いたのだという。
一階で小さな商店をしていて、奥にも一間あり、二階が住居になっている。階段を上がるのがむずかしくなってからは、となりに建てた母の住まいにベッドをうつし、そこで介護をしていた。
浦田商店と看板をかかげた入り口の、引き戸に手をかけた。当たり前のように開かない。取っ手のくぼみにも、うっすら砂ぼこりが降り積もっている。ガラス戸から中が見えないように、緑色のストライプのカーテンが下がっていて、それも日にあせていた。
ここが、このへんで唯一の店だった。買い物するにも車で三十分は走らなければどこへも行けないこのあたりで、うっかり切らしてしまった醤油や砂糖や洗剤を気軽に買いにこれるのはここだけで、儲かるとまではいかないまでも、それなりに繁盛していた。
店先の低い棚には駄菓子も置いてあって、小学生のたまり場だった。俺が小さい頃は、店には入れ替わり立ち替わり、のんびりといろんな人がやってきて、みんながばあちゃんとおしゃべりしていた。
大人にとっても子供にとっても、このあたりで唯一の憩いの場で、それが俺のばあちゃんの店だということが、幼心にとても誇らしくてうれしかった。
取っ手やカーテンと、一歩引いて店の全体を写真に残した。敷地に生えている梅の木の、落ち葉がずいぶんたまっている。それも一枚撮って、ぐるりと裏手に回ったりして、また写真を撮った。
そうしているあいだに、ずいぶん思い出のピントが合ってきた。いちばん太い枝の曲がり方に覚えがある。「ここにまず足をかけろ」などと、えらそうに妹に教えていた日がよみがえってくる。木登りなんてもうすることもないだろうに。
となりに建つ俺の実家も、よく見ると同じようにあせている。ベランダには真っ白な洗濯ものが、少ないながらも風に揺れていて、それが妙にほっとした。
玄関にまわって引き戸に手をかける。ぐっと力を入れても全然開かない。この地域でもやっと、昼間は鍵をかけるようになったのかと安心して、ドアのチャイムを押した。間髪入れずに母の元気な声がする。
「はあい」
「あ、俺。ただいま」
「あら、開いてんのに。ちょっと待って、ここんとこグッてしないと」
ガラス戸に、すこし縮んだ母の影がうつる。引き戸に力を入れているようで、一緒になって押した。
「ああ、開いた! 高橋さんに来てもらおうと思ってんだけど、忙しくて」
もしゃもしゃしたパーマの髪の毛があらわれて、ぴっかりと笑顔が輝いた。
「おかえり」
「ただいま。建付け、俺が見ようか」
「え? あんたそんなことできるの」
「少しくらいなら」
久しぶりの玄関は、見覚えのない靴ばかりが並んでいる。はじめて見る靴箱や花器もあって、ますます知らない家のようだ。
「工具ある?」
「お父さんに聞いて。ほら、そこに座ってるから」
小さくてぽっちゃりした母は、ころころと廊下を走っていく。自分の部屋に上がって荷物を置いて、工具を借りて玄関の戸を見た。
外してみると、砂ぼこりがずいぶんレールにつまっていて、これだけでも動きが悪くなりそうだ。ついでにきれいに掃除して、滑車を調整する。もっと深刻な劣化かと思っていたら、それくらいできれいに走るようになって、拍子抜けした。
「直ったよ」
「ほんと? 修理代が浮いたねえ」
からからと笑いながら、台所でこちゃこちゃと手を動かしている。変わらない母の様子にほっとして、リビングへ座り込んだ。
昼過ぎの日が、縁側のガラス窓からさんさんと降り注ぐ。外は風が強くて寒いのに、サンルームみたいな部屋だった。
つけっぱなしのテレビは昼のワイドショーをやっていて、元気な色のこたつ布団に足を突っ込むと、ぽかぽかとぬるい。乾燥したモノトーンのオフィスで、パソコンの画面だけに視界を遮られている毎日から突然やって来たから、まるで異世界に来たみたいだ。
「美樹は?」
「明日戻るって。今日は仕事、休めなかったとさっき電話があってね」
妹は、俺と同じ東京のほうで、いまは洋服の販売をやっている。手広くいろいろやっている会社で、いつも慣れたころに配属を変えられると嘆いていた。昔から明るくて人懐っこく、知らない人にも怖じ気なく話しかけていくやつだったから、よく向いていると思う。
「兄さんが、お通夜の前にもう一回話し合うって言うから、早めに行くよ。お父さん、お父さんてば」
母がお茶を出しながら、テレビを見ている父に話しかける。父は返事もせずこちらも向かず、大げさな曲の流れる情報番組にじっと目を凝らしている。
どこか機嫌のわるい父と、取りなすように甘いものを出す母の、そこだけで完結した空気を見ると、急に飛び込んだりできないし、なにも言えない。こたつでぼんやりしているうちに、あっという間に夜になり、俺も一緒に叔父の家に向かった。
「ばあちゃんの家をね、どうするかって」
「家って、うちのとなりの?」
「そう。近所の人からね、どうにか続けてほしいって言われてね、店のほう」
「ずっと閉じてたのに?」
「ちょっと前まで、お母さんとお父さんで開けてたんだよ。ここんとこバタバタで閉めてるけど」
「じゃから、うちで継ぐと言うたのに義兄さんは……」
ざくざくと土を踏みしめる父の、はき捨てるようなもの言いが耳に残る。
「ちょっと、お父さん」
「なに、もめてんの?」
「お前が気にすることじゃあない。子どもは知らんでいい」
「お父さん、理ももう大人なんだから」
三人で歩くと、俺がいちばん背が高い。うしろをついて歩きながら、小さくなった二つの背中をしみじみと見た。
もこもこした縫い目のダウンジャケットは、何年も前に買ったのか、ところどころ糸が飛び出ている。ふるふると風に震えている髪の毛は、白いところがまばらになっていて、記憶の中の姿とうまくつながらない。
風が強く吹くたびに、月明かりが差し込んだり途切れたりして、足もとがはっきりと見えない。父と母は慣れた様子で歩いていくけれど、俺は小石や草を踏んではいちいちぎくしゃくしていた。
街灯もない細い野道は、深い海の底を歩いているようで、いつまでたっても膝から下が落ち着かなかった。
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