第五章 つぐみの浦田商店

5-1

 窓の外が明るい。さっきまで分厚い雲が垂れこめていたのに、トンネルを抜けるときれいになくなっていた。また一枚、写真を撮る。

 スマホのカメラはピントが甘い。流れる車窓から見える、彼方の山やどこかのタワーをきれいにおさめて見せたいのに、どうにもうまく写せない。

 短いため息をついて、座席の小さなテーブルの上にスマホを置いた。窓際に頬杖をついてぼんやり外を眺める。ビルだらけの街を出て、どんどん、どんどんと緑が増えていく。

 冬枯れの木立ばかりかと思っていたら、畑にはぐんと力のある葉がわさわさと揺れている。キャベツか大根か、遠目にはよくわからないけれど、あの人にも見せてみたいなと思った。


 昨夜、めずらしく電話が鳴ったと思ったら、実家からだった。久しぶりの母の声は、どこか疲れたようにかすれていた。

「ばあちゃんが、今朝方ね……」

 いつもきびきびと動き回っていた祖母の姿が、ふっと浮かんで遠くなる。足が痛いと言い始めて、だんだんと動きがゆっくりになって、とうとう寝ついてしまったのは、何年前だったか。

 ふう、と母のかすかなため息が落ちた。普段ならなんやかんやとまくし立ててくるはずなのに、ぷつりと言葉が途切れたまま、なにも言わない。かなしい無言を聞いているのが辛くなって、できるだけ静かに口をひらいた。

「いつ帰ったらいい?」

「帰るってあんた、会社は大丈夫なの?」

「有休取れるから。通夜と葬式で、二、三日なら」

「うん、そうしてくれたら……。わるいねえ」

 声に張りがない。すっかりうすく遠くなってしまっている。他人のように遠慮がちに気を遣う、こんな声ははじめてだった。

「大変だったな。こんなことなら、俺ももっとたくさん帰ってれば……」

「なに言ってんの。理はそっちで仕事があるでしょう」

 急に張りがもどった。すこし声が大きくなってきて、ふふっと笑い声がこぼれている。

 ほっとして電話を切った。夜中だったから、それからばたばたと準備をして、朝になって電車に飛び乗った。


 始発の車内は意外と混んでいる。平日の朝、通勤や通学の人ばかりで駅からごった返していた。高校生やサラリーマンがむらがる駅の売店。それを見ていたらふと思い出して、適当なまんじゅうを一箱、お土産に選んだ。

 ばあちゃんが喜びそうなもの、と考えて、そうか、もういないのだとはっとした。そのために田舎に帰るのに、まだぜんぜん実感がない。

 何年か前は、帰省ラッシュにもまれながら、こんなふうな箱ものをひとつ下げて帰った。ばあちゃん、と部屋をのぞくと、介護用のベッドを器用に操作して半身を起こし、帰ったかい、と顔をほころばせてくれた。

 頬杖をはずして首を回す。スマホを見ると、やっと八時になったところだった。慣れない早起きで目が乾く。すこし眠っておこうと目をとじた。


 乗り継ぐたびに、ひと回りずつ駅舎が小さくなる。最後の駅は無人で、改札にも誰もいない。もっとさびれているかと思ったら、きれいに改装されていて、まるで知らない場所のように見違えていた。

 すこし引いて、また一枚写真を撮る。その場で送った。「到着」とだけ短くメッセージをつけて、さっき撮った駅の名前の看板も送る。遠出なんてめったにしないから、まるで実況中継のようにいちいち知らせてしまった。すぐにスマホがうなる。

「これなんて読むの? ツグミ?」

「正解。つぐみです」

「よっしゃー」

 かわいいピースの絵文字。すぐそばにあの笑顔があるようで、うれしくなる。

「あとでまわりの景色も!」

「了解。送ります」

「ほんとにいいの? 忙しいんじゃない?」

「全然。見てほしいし」

 メッセージはぽんぽんと飛んでいく。心の奥にしまっていたはずのことも、言うつもりがなかったことも、あっさりと短い言葉に置き換わってしまう。

 ビッグなスマイルのスタンプが入って、同じように心から頬をゆるめた。もう何度も見た、井上さんが使う黄色のスタンプ。これが入ると、いつもあのくちびるのかたちを思い出して、今日もこんな顔で笑っているのかとあたたかくなる。


 駅舎から出て歩き始めると、細い道路の両端に、もりもりと草が生い茂っている。空はぽかんと晴れていて、ひこうき雲が伸びている。山のてっぺんから空の途中まで、すうっと一本の白い線になって、筆尻のようにかすれ消えていた。

 中身が半分くらい入ったリュックを背負って、スーツバッグを持って、写真を撮りながらのんびり歩く。真新しいアパートや看板ができていて、まわりの建物はだいぶ変わっているけれど、山のかたちや橋の感じはそのままだ。

 冷たく吹きつける風に、なつかしい草のにおい。こんな田舎の風景なんて、日本全国どこにでもあるのだろうけれど、このにおいはここにしかないんだと思う。

 友達のあだ名や、宝ものにしていたおもちゃのこと、でっかい空に浮かんだ雲の影。思い出そうとしなくても、次から次へと浮かんでは、ふわふわとそのあたりに消えていく。スマホが鳴って、手に取ると写真が入っていた。

「俺も移動中~」

「次の店へ向かいます」

「今日は遅くなりそう」

 かわいい困り顔のスタンプ。ビル街を抜ける車からの、渋滞中の写真だった。ホルダーに置かれた缶コーヒーと、ハンドルをつかむ左手が、写真の端に写っている。親指の爪の形を見ていたら、急に胸をぎゅっとつかまれて、息をとめてしまった。

 ごうっと強い風が吹いて、スーツバッグがばたばた揺れる。思ったよりかんたんに飛ばされてしまいそうで、取っ手を持つ手に力を入れた。

 目の前に広がるふるさとの景色と、手の中に広がるあたらしい世界。ぶつかるはずもなかったこのふたつが、俺が立っているこの場所で、なだらかに重なりあっているのが不思議だった。

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