4-4

 すぐにあかるい声が返ってくるかと思ったのに、ぴたりと止まってしまった。どうしていいかわからなくて、俺も固まる。

 くちびるがぎゅっと閉じている。まばたきもしていない。息をとめている、と表情を見て思った。

「す、少ないとむずかしいから、一週間分くらいはつくるよカレー」

「うん」

「冷凍できる? 出しとくと傷んじゃうから」

「うん、ちゃんとする」

「俺、休み不定期で、いつになるかわかんないけど」

「合わせる。大丈夫」

 ちょっとしつこいかな、と不安になって、顔を見た。見ると、まんまるの目のひかりがゆらゆらと揺れている。しまった、と目を閉じた。

「うわ、ごめん。もう言わない」

 ぱっと手をはなす。両手のてのひらをぎゅっと合わせて、精一杯頭を下げた。浮かれていた自分がはずかしい。

「いや、違うからこれは。嫌とかじゃなくて、ぜんぜんいいんだけど」

 声が震えていた。鼻をすすって目を押さえている。

 きょろきょろと見回して、カウンターの上に残っていた新しいタオルをそっと腕に押しつけた。井上さんはそろそろとつかんで、顔をぼすんとうずめている。

「そんなにカレー気に入ってもらえて、めちゃくちゃうれしかったから」

 タオルの中からくぐもった声が聞こえた。

「それ、ほんと?」

 真っ白なタオルの井上さんが、大きくうなずく。

「ほんと」

「無理してない?」

「ない。するわけない」

 タオルがぱらりと外れる。ぐしゃぐしゃの目と赤い鼻。よれよれの前髪。なにか言おうとして、けほ、と一回せきをした。

「カレーつくってて、よかった」

 真っ赤な目からまた、涙の粒がこぼれた。なにも気のきいた言葉が浮かばなくて、うまく寄りそえない。ただ、うん、と言ってうなづいた。

 井上さんのカレーがたべたいこと、ただなんとなくおしゃべりしていたいこと、たのしそうに話す声がとてもいいと思うこと。どういう言葉を重ねていけばうまく伝えられるのか、よくわからない。


 座っていていいと言ったのに、もう立って掃除を始めている。だってほら、と指さす窓の外を見ると、オレンジの光が差している。

 まわりを建物に囲まれたこの部屋には、すきまのひかりしか入らない。空はもっと高くて遠い。強くてやさしいカレーのにおいが、冷えた風にのせられて窓の外へと消えていく。

 ほんとうにたくさん話したせいか、俺も井上さんも静かになっていて、でも気まずいわけでもない。そんなわけはないけれど、砂浜にぼんやり座っているような、木陰で目をとじているような、どこかなつかしい感じがする。

 この力の抜けた空気が、こうしている時間の中にいるのが、好きだなあと思った。


 家に着いてガチャガチャとカギをあけた。真っ暗な部屋に明かりをつける。帰りに買ったコンビニの袋をそのへんに置いて、ぼすんとベッドに座り込んだ。

 スマホがうなって、すぐに見る。

「おつかれさまです!」

「今日はどうも」

 それからかわいいスタンプをはさんで、写真が送られてきた。俺が皿を渡すところ。二人で並んでカウンターにいるところ。お団子のさなちゃんにバイバイと手をふるところ。誰が撮っていたのだろう。

「リカが撮ってくれてて、さっきもらったから、さっちゃんにも!」

 とピースのマーク。はじめて書かれた自分のあだ名に笑ってしまう。

 写真はどれもゆるくてきれいで、パーティーのたのしい時間がぎゅっとこめられている。自分はこんな顔をしていたのかと見て驚いた。笑顔が自然だ。にこにこと話す様子は、まるで接客が心から好きな人のようにも見える。井上さんがたのしそうなのはいつもだけれど、俺にまでうつったのだろうか。

「俺、井上さんに似てきたかな」

 と送った。

「そう思う! いーい笑顔だったよ」

 すぐに肯定してくれるのが嬉しい。

「はじめて来た人には手伝ってもらうんだけど、浦田さんがいちばん慣れるの早かったし」

 笑顔のスタンプが貼ってある。読んだとたんに、浮かれていた頭がすとんと落ち着いた。

 カウンターの内側に立たせてもらえるのは、はじめて来た客だけらしい。何をどう勘違いしてしまったのか、自分だけが特別だと思っていた。

 タオルから顔を上げたときの、井上さんの真っ赤な目。なにかあるたびに、いつもあんな風に、誰にでもあけすけにさらすのだろうか。あの人ならそうかもしれない、と落ち着いてきた頭で考えた。

「いつがいいかな、出張カレー」

 やってきたメッセージに胸が鳴る。指が勝手に動いた。

「そういうのも、はじめての人ならいつでも歓迎ってこと?」

 なんだこれは、と読み返してはっとする。送れば消せないメッセージは、隠しておきたかった気持ちもどんどん飛んでいく。送ってすぐに頭を抱えた。

「なになに」

「なんの話?」

 すぐに返事が飛んでくる。今ならスマホを持っているはずだろう。下手な言い訳を書いて送るより、直接話したほうが早い。

 はあっと大きく息をつく。冷たい指をぐっと握る。さっきから押してみたくてたまらなかった、通話のマークを押した。


「お疲れ様です!」

 耳もとでぱっと泡がはじける。ごそごそとノイズがうるさい。

「お疲れさまです」

 ほんとうにつながった。さっき別れたばかりの井上さんが、電波の向こうで息をしている。緊張でのどがつまって、すこし外して咳をした。

「今日はどうも、お世話になりました」

「いえいえ、こちらこそ。お客さんなのに遅くまで手伝わせちゃって」

 ふふっ、と笑う息だけが聞こえる。

「あ、もしかして出張カレーのことですか?」

「うん、その……いいのかな、ほんとに」

「ぜんっぜんいいです! もとは俺が言い出したことだし」

「そうだっけ?」

「そうですよ」

 のどの中だけではじくような、低くて甘い声。一瞬ぼうっとしてしまって、ぶるぶると頭をふった。

「井上さんのほうで、いつがいいとか決まったら、連絡もらえますか」

「もちろんもちろん」

 駅のアナウンスが聞こえる。まだ帰っていないのか。

「ごめん、移動中だった?」

「うん、もう帰るとこ」

 ちいさな咳払い。早口のアナウンス。ざわざわとかすむ雑踏の中、どんな顔をして歩いているのだろう。

「浦田さん?」

「うん?」

「大丈夫? なんか静かだから」

「うん、ごめんごめん。……その、なんか言いたかったのに、思い出せなくて」

 そんなことはないのに、うそをついた。ほんとうは持て余すほどたくさんあるけれど、なにひとつうまく言葉にならない。

「いいよいいよ。このままつないどく?」

 ふっと笑う声が耳もとにかかる。そんなはずはないのに、そんな気がした。

 あの、と話し始めたのに、電車のすべりこむ音でかき消される。じゃあまた、お疲れ様です、と大きな声がして、ふつりと通話が切れた。

 ゆっくりゆっくり息をはく。ぱんぱんになった頭の中もごちゃごちゃの胸も、一瞬だけはからっぽになる。目まぐるしい一日だった。

 もう一度もらった写真を見る。色とりどりの皿を持った、名前も知らないたくさんの、カレー好きの誰か。自然に笑顔をかわす自分は知らない人のようで、もっと見てみたいと思った。

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