第四章 クリスマスのカレーパーティー
4-1
新作のカレーと井上さんのやわらかな圧にやられて、はじめての約束をした。場所は、井上さんのカレー仲間の家だという。
クリスマスに特に予定のない人を集めて、みんなでぱーっと騒ぐらしい。井上さんらしい、やさしい思いつきだ。
いつものヨガスタジオの先生に、手土産がどうのと聞いていたら、せっかくだからいっしょに行こうと誘われて、駅で待ち合わせをすることになった。
「浦田さん、連絡先聞いてもいいかな」
「あ、はい」
同じようにスマホを取り出して、画面をさわる。仕事以外で女の人と連絡先を交換するなんて、いつ以来だろう。
井上さんのカレーを食べてから、ほんのすこしずつだけど、確実になにかが変わり始めている。うれしいというより目まぐるしくて、でもすごく、たのしい。
「私も会ったことない人とか来るし、ごちゃごちゃだから、気にしないで」
「井上さんて、顔が広いんですね」
「うーん……なんていうか、人恋しすぎるんだよね」
「え?」
ぎょっとして聞き返した。
「さみしんぼう? 彼女ができても、べったりしすぎてフラれる感じ」
先生は、あははは、と軽い笑い声をたてる。きれいな石のついた爪が、きらりとひかった。
「かわいいんだけどね、良ちゃんは」
「先生はかまってあげないんですか?」
「私? やだ、旦那に怒られちゃう」
今まで気づかなかったけれど、左手に指輪をしていた。女の人はほんとうにわからない。
「じゃ、日曜日ね。行く道でなんか買っていこ」
「すいません、お世話になります」
かちっと頭を下げると、またからからと笑われた。宇宙の話ばかりする遠い先生だと思っていたけれど、気さくな人だな、と思った。
駅の裏通りを歩いて、ごちゃごちゃしたビルの道を行く。先生は短い髪をふんわりさせていて、コートの裾からきれいなワンピースをひらひらさせている。
カレーのことで頭がいっぱいで、いつものポロシャツにウールのジャケットを羽織って来てしまったけれど、どういう雰囲気だろう。
「え、ここですか?」
「そう、4階。エレベーターないけど頑張って」
うふふ、と笑ってするする上がる。カツカツ鳴る先生のヒールが目の前を跳ねる。狭い階段を上がると、久しぶりの看板が立っていた。
「いつものやつだ」
「良ちゃんらしいね」
キッチンカーのそばに、いつも出ていた看板だ。このドアをあけると、井上さんがほんとうにいるのだ、となんだか嬉しくなる。ドアをあける前からも、たくさんの人の笑い声がこぼれて聞こえた。
中に入るとちいさなお店のようで、みんな靴のまま。廊下にグラスを持った人がいて、奥へどうぞと手招きされた。
広いリビングに行くと、もう飲んでいる人もいて、ゆるやかながらハイテンションだ。ドラマか映画で見たパーティーのようで、にぎやかで現実感がない。
俺みたいなふつうの人も、ギラギラにきめた人もいて、無国籍な感じがいかにも井上さんの交友関係らしい。
先生についてひとまわりしていると、大きなステンレスのカウンターの奥に、井上さんが見えた。
「あ、いた」
「あいさつしておいでよ。私はあっちで飲んでるから、来たよって言っといてくれる?」
はい、と紙袋を持たされた。来る道で買ったお土産だ。デザートにと先生が選んだ焼き菓子。ちょうどいい口実ができた。
奥行きのあるカウンターをぐるりと回る。赤いキャップに、派手なTシャツ。いつもキッチンカーの窓越しだったから、となりに立つのははじめてだ。その半径の中に入っていいものか、足先が迷って踏みとどまる。
声をかけようと口をひらいて、ふっとつぐんだ。大きな寸動鍋を、熱のこもった目で見つめている。なにかをたしかめるように、ゆっくりとレードルを動かして、片手で調味料の瓶をとる。
となりに、すぐ近くに俺が立っていても、まわりの音楽がどんなにうるさくても、気づきもしない。カウンターごしにのぞいているドレッドの人と目が合ったけれど、軽く肩をすくめてにっこりされた。なんだかうれしくて、おなじように笑って会釈を返す。
俺の立っているすぐ前の引き出しに手をかけようとして、ちらりと目を上げた井上さんと目が合った。さすがに気がついたようで、うはっと笑う。
目をまんまるにして驚いている。つられて笑って声をかけた。
「お疲れさまです」
「浦田さん! いつ来たの?」
「ちょっと前。呼んでくれてありがとう」
先生と買ったお土産を渡す。
「ああ、リカが好きそう。ありがとうわざわざ」
リカ、はたしかヨガの先生の名前だ。俺がヨガに通っているのも、先生と井上さんが昔近所に住んでいたことも、先生のお姉さんのことも、井上さんが一人っ子だということも、ぜんぶ今日までのメッセージでやりとりした。
最近は仕事が忙しいことも、後輩が上手に手を抜いて困ることも、新発売の缶コーヒーがかなり気に入っていることも、もう知っている。
そのせいか、紙袋を渡したら、お互いぱたりと言葉が止まってしまった。なんだかへんな緊張感がある。
なにかないかとまわりを探す。井上さんの肩の線を目で追って、目の前の鍋をのぞいてみたら、引きつっていた頬が勝手に笑顔になった。
「いいにおい。今日すっごい楽しみにしてたんだけど」
「え、ほんと? プレッシャーかけてくるねえ」
「いやいやいや、だってもう何か月食べてないと思う?」
「ええと……前に出店したのが十月だから……」
くるくるとレードルが回る。きらきらと表情がかわる。換気扇のごうごうという音が、リビングの音楽をすこしだけ遠くにしてくれる。
「ずっと会いたいと思ってて」
まるで違う場面でつかうような言葉に、自分で驚いた。後悔する間もなく、井上さんが楽しそうに口をひらく。
「あ、俺も俺も」
「ほんと?」
「浦田さんのにこにこした顔見ながら、だらだらしゃべりたいなーって思ってましたよ」
「そこ敬語?」
「あれ、なんだろ。緊張しちゃって」
キャップのつばをぐっと下げる。かわいくて目のあたりをじっと見つめた。
井上さんはなかなか顔を上げてくれない。レードルを持つ手もぴたりと止まって、動かない。カレーの表面が、ぼこんと大きく泡だった。
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