第三章 会えないとき

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 昼休みになったとたんに、事務所を飛び出した。来月は忙しいと言っていたけれど、今月はあと一週間しかない。どうでもいい話が楽しすぎて、いくら話しても足りなくて、結局約束もせずに脱線してばかりだ。今日こそは、何よりも先にヨガの日程を決めようと念じながら歩いた。

 ポケットに手を突っ込んだり出したりして、スマホと財布を確かめる。ブルゾンのファスナーを閉めないと寒くて、でも閉めて歩くと暑い。ぱたぱたと落ち着かない自分がおかしい。

 広場につくと、なんだか様子が違う。いつものキッチンカーもあるけれど、見慣れない車が目立つ。金色のワゴンなんてはじめて見るし、風船をたくさん結んだジュースの三輪車も見たことがない。

 いつもの木かげに向かおうとして、立ち尽くした。井上カレーのバンがない。いつも後ろに隠れていた自販機が、ここからでもよく見える。どう見ても場所は間違っていない。

 出す場所を変えたのかと広場をぐるぐる回って、公園にも範囲を広げてしつこくぐるぐると回ってみたけれど、見つからない。他のものを買う気にもなれず、空腹のままベンチに座り込んだ。

 風船を持った子どもが走りまわっている。追いかける親も風船を持っている。クレープを顔によせて、写真を撮っている女の子たちもいる。よくある日曜日の風景だけど、井上さんのキッチンカーだけがない。

 公園を歩くと、カレーのにおいがする。スパイスの香りが強くて、インドっぽい音楽が主張深げにかかっていて、見なくても違うとわかる。

 ずるずると全身から力が抜けて、途中のコンビニで水だけ買って帰った。帰りの電車で、「井上カレー」と検索してみたけれど、同じような名前が多すぎてどこにもたどり着けない。

 目の前にある他人の足をぼんやり見ていたら、すこし前の自分に戻った感じがする。持っていたペットボトルを落としてしまって、電車の床をごろごろと転がるボトルを追いかけた。面倒くさくて踏みつけたくなる。いつの間にか、色や香りのないワントーンの世界に戻っていた。


 駅のあたりをうろつくだけでも、カレー屋がいくらかは目につく。そのうち気に入る店に行き当たるかもしれないと期待した。でも、そのほとんどはスパイスを売りにしていて、中にはひどく辛いだけの店もある。口コミサイトはほんとうに頼りにならないことも、身をもって知った。

 うろうろした中では、昔風の茶色い布の屋根がある、小さなドアのカレー店がいちばんよかった。住宅街の近くにあって、初老の夫婦が切り盛りしていて、客があんまりいない。この時期そこらじゅうで目にする、チカチカしたクリスマスのかざりもない。

 なんとかスパイスのカレー、みたいな特別な名前でもなくて、ふつうの、家でたべるようななつかしいカレーだった。

「いらっしゃい。よく来るねえ」

「いつもありがとうね」

 何回か通ったら声をかけられるようになり、ちょこちょこ話してみたけれど、なにもつかめなかった。井上さんと話すときの、なにかが始まりそうなあのうれしい感じは、見つからない。なんでもいいから新しい場、新しい人間関係があればいいのかと思っていたけれど、そうでもなさそうだった。

 いつも行くカフェのマスターとも、はじめて口をきいた。コーヒー豆を売っていたので、「これは家でも飲めるやつですか」と今思えばばかみたいなことを聞いてみたら、「はい、そうですよ」とにこやかに教えてくれた。

 それから行くたびに世間話をしたり、コーヒーのうんちくを教えてもらったりしたけれど、それだけだ。お店に置いてあるカップも実は店主の手作りで、どれも買えますよとすすめられたけど、また今度にしますと流してしまった。

 井上さんがキャップのつばをきゅっと下げる仕草を、ふとした時に思い出す。「来月は忙しい」と言っていたから、その次の月になればまた来るだろうか。年をまたいでしまうな、と最後の一枚になっている卓上のカレンダーを見た。

 あのとき、カレンダーについていた赤丸の日付が思い出せればとか、なんでさっさと連絡先を聞いておかなかったのかとか、もやもやといつまでも考え込んでしまう。

 カフェを出て、コンビニに寄ってレジの奥を見る。あの日見た「井上良」の名札の人も、なぜかずっと見ないままだった。


 真っ暗な部屋に帰って、洗面所に向かい手を洗う。手をぬらしてポンプを押すと、スポンスポンと間抜けな音がするばかりで、ハンドソープがなくなっている。

 買い置きを探そうとガサゴソしていたら、なにかがひらりと落ちてきた。捨てるつもりでつかんでみると、「井上カレー」と書いてある。

 手についていた水が、弱そうな紙にしみこんで、ゆるゆるとよれていく。何度も見ていたなつかしい字体。目にしただけで、頭の奥のもやもやがすうっと晴れていくようだった。改めてよく見てみると、屋号の下に、SNSのアドレスが書いてある。

 息をのんで、出しっぱなしにしていた水をとめて、ポケットのスマホをあわただしく取り出す。アドレスを打ち込むと、愛嬌のあるバンのアイコン。黄色いほろがまぶしくうつる。

「十一月は出店お休みです」

「仕事の研修が長引きそうでまだ予定が出せません……決まり次第こちらでお知らせします」

 洗面台の前に座り込んだまま、延々と画面をスクロールした。日曜日のたびに、あの公園での写真がのせてある。

「今日も完売! ありがとうございました!」

 バンの写真とかわいいピース。顔は映っていないけれど、どんな表情をしていたのか、なんとなくわかる。

 一か月、二か月、半年と、SNSの履歴をめくる。座りっぱなしで腰が痛くなってきて、そもそもまだ手も洗っていないのを思い出して、スマホを置いて立ち上がった。

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