2-2
「ヨガはねえ、幼なじみが講師になってて」
「へえ、すごい」
「なんだっけ、上からぶら下がったハンモック? ひも? みたいのにくるまったりとか」
「なにそれ」
くいついて乗り出すと、嬉しそうな目がまんまるになる。井上さんはビニールの手袋をきちきちと外して、さくっとスマホを出した。シルバーのボディに透明のカバー。初めて見る。
「エア……エア、リアル、ヨガ? っていうやつ」
「ちょっと待って、俺も見る」
同じようにスマホを出して、検索した。とりあえず画面に出しておけば、あとでゆっくり見られる。今は話を聞きたかった。
「俺も行ったことあるけど、楽しかったですよ」
「女ばっかじゃない? 居づらくないかな」
およ、とでも言いたげなくちびる。さっとスマホをしまって、いつもよりきらきらした感じの笑顔をみせた。
「え、まじで行く感じ?」
「行けるもんなら。なに、おかしい?」
「いや全然! 全然いいと思います! あ、ちょっと待って」
くるりと後ろを向いて、なにやらゴソゴソやっている。ハガキくらいのチラシをぴらりと渡してくれた。
「ここなんですけどね。俺から紹介されたって言ってくれれば、たぶん大丈夫」
「ありがとうございます。助かる」
「あ、良かったら一緒に行く? 平日休める感じだったよね」
話がどんどん転がっていく。風が強く吹いて、肌寒いけど気持ちいい。俺の髪はくしゃくしゃだ。井上さんのキャップからはみ出た前髪も、かすかに揺れている。
「いや、なんか……え、いいの? そこまでされたら」
「こっちこそ、なんか無理に誘ったみたいで」
「そんなことないですよ、感謝してるし」
くるりと目がかがやいて、真横にじわあとくちびるが伸びる。嬉しそうだ。この顔を見るのが、いつのまにか楽しみになってしまった。
「毎日毎日、おんなじことしかしてないんで。たまには違うことしてみたくて」
言ったとたん井上さんがバンの窓枠をすぱんとたたいた。ちょっと手が痛そうだ。
「わっかる! わかりますよそれ。だから俺もここでこんなことを……」
勢いよく話し始めるのかと思ったら、急にボリュームを下げた。キャップのつばを持って、はね上がってきたかぶり口をぐいっと下げている。
「いやいやすいません。俺の話はいいんで、浦田さんの話」
「今の気になる。続き、聞かせてよ」
カレーを受け取ってから、どれくらいたっただろう。腹がへったのも忘れて夢中で話している。バンにかかれた「井上とうふ店」のことも、コンビニで見たあの厳しい顔も、聞いてみたいことがたくさんあって、でもなかなかそこまでたどり着けない。
じっと見つめていると、井上さんがふわりと口をひらいた。はっと目が開き、瞬時に表情が変わる。
「いらっしゃいませ!」
振り返ると家族連れが並んでいた。しょうがなくのろのろとバンを離れる。そばで待っていようかと思ったけれど、いつものベンチに歩いて食べることにした。どうも頭に血がのぼっている。
カレーをもぐもぐやりながら、頭の中で、さっき見たヨガの画像に自分と井上さんの顔を当てはめてみた。ふはっと笑ってしまう。やっぱり無しだろうか。
一緒に行こうと言ってくれたのが余計におかしかった。いい歳をした男が二人、連れだって流行りのヨガへ。考えてみるだけでおかしくて、ひとりの笑いをこらえるのが大変だ。
家族連れが井上さんのカレーを受け取ってバンを離れる。子どもがぴょんぴょん跳ねながら駆けていく。帰りにまで寄ったことはないけれど、どうしてもさっきの続きが聞きたくて、ふらふらとバンに近寄った。
真っ白だと思っていたバンは、よく見るとくすんだアイボリーだ。きれいにみがかれて、大事にされている感じはあるけど、かなり年季が入っている。折りたたみ式のほろと、手作りっぽい看板は、まだ新しい感じがする。そのあたりのジェネレーションギャップみたいな時間の差の感じが、バラバラだけどひとまとまりの、家族みたいなあったかい雰囲気をつくっている。
ちょっと離れて見ていると、手が空いたらしい井上さんがぴょこんと顔を出した。おいでおいでと手をふっている。そういう仕草を自分に向かってされるのは久しぶりで、まるで子どもの頃の屈託のない友達みたいで、にやける顔をぐっと引きしめて近寄った。
「浦田さん、まだ戻んなくていいんです?」
「うん、あと少しくらいなら」
ごちそうさま、とビニール袋を持ち上げて見せる。井上さんは手を伸ばして、すいっと受け取って片づけてくれた。
「さっきの続き、聞きたくて」
「ああ、ヨガのこと?」
「いや、その後の、井上さんの話」
ちっちゃなラジオから流れる声がちょっとうるさい。日曜日のお昼、いかがお過ごしですか。今とても楽しいところなので、おしゃべりはそこそこにして、楽しい曲だけかけていてほしい。
井上さんの笑顔の雰囲気が、ほんのすこし変わった。すとんとここに降りてくるような、カレー屋のお兄さんから個人の井上さんに戻っていくような、そんな感じがした。
「俺も浦田さんとおんなじサラリーマンで。で、カレーが大好きで」
「うん」
「日曜日はほぼ休みなんで、友達集めてカレー出してたんだけど。途中からマンネリになってきて、じゃあ、知らない人にも出してみようかなって」
「お、すごい」
はずかしそうに目をふせて笑う。そのとき、この人はほんとうのことを教えてくれている、と思った。
今までどんなに話しても、どこか調子がよすぎるというか、あくまで店と客の会話の延長だった。それが今、やっと手の届くところにおりてきた感じがする。新しい人間関係をつくる機会がなさすぎて、人に飢えているだけかもしれないけれど、それくらいのことがひたすらに嬉しい。
井上さんはレードルを持ち直して、鍋をぐるぐる混ぜている。動きが軽くて早い。
「なに、そんな変すか?」
「なんで? 全然おかしくないけど」
「浦田さんめっちゃにこにこしてる」
キャップのつばをぐいっと下げる。いつも合わせてくれる目を、合わせてくれなくなった。じっと見つめてから、ああ照れているのかとやっとわかった。そのとき、ずっと使っていなかった心の奥のなにかが、ほんのすこし動いた音がした。
「ヨガ、いつ行こう」
「あ、俺来月はしんどいかも。今月なら……」
バンの中に貼ってあるカレンダーを振り返っている。日曜日のところに、「出店日」と赤丸があった。
「そういえば、平日は会社で日曜はキッチンカー? それつぶれない? 大丈夫?」
振り向いた顔がきらきらしていた。
「ぜんっぜん大丈夫。むしろこれがないとやってられない」
それがあまりに早口で、はじめて聞いた声の調子だったから、無性にわくわくした。井上さんがいつもしてくれていたように、すこし笑って言葉の続きを待つ。
「俺さ、めっちゃくちゃストレスあって。……みんなそうだとは思うんだけど。管理とかまったく向いてないのに。だからしんどくて」
「うん」
目を見て相づちを打つ。ほっとしたように、目のまわりの力がゆるゆると抜けていく。
「ほんとはずっと現場がよかった……」
しょぼくれた声に、うん、とうなずくと、ぱちりと目が合った。まっすぐに俺を見ている。ぐるぐると重なった、ややこしい感情をはぎ捨てたような澄んだ色で、あんまりにもきれいだったから、たった一瞬だったのに強く焼き付いた。
ポケットの中でスマホがうなる。昼休み終了のアラームだ。一時になっていた。
「やべ、戻んなきゃ」
「うわ、すいません引きとめちゃって」
「いやこっちこそ」
もう一度目があって、二人で吹き出した。
キッチンカーから遠ざかる。ふと気になって振り返って、俺がひらひらと片手を上げると、井上さんも同じように返してくれた。何度も振り返りたかったけれど、そんなにのんびりしていられない。
風と落ち葉がくるくる回る公園から、誰もいないひとりの事務所へ。歩くと疲れる微妙な距離が、ふわふわと浮かんだ頭をさますのにちょうどいい。パソコンの前に座るころには、半分くらいは夢だったのかと思うようになっていて、あっさりと現実に戻れた。
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