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いったん「出ます」と言うと、あっさり役割分担が決まる。休日出勤といえば俺、という空気ができあがってしまった。
誰もいないフロアでもくもくと作業するのも、平日の代休もわりといいものだから、流れにまかせてどんどん引き受けた。
水曜日の朝は、平日にしておくのがもったいないくらいに晴れていて、この日に代休をとってよかったと心から思った。目覚ましを止めて、起きかけた体からくったりと力を抜く。あくびがじわじわこみ上げる。
寝ていてもいい平日の朝。土曜日に出たからあたりまえだけれど、しみじみとうれしい。
遮光カーテンのすきまから、細長い朝日が入り込む。起きなくていいとわかっているのに、ゆっくり目が覚める。喉もかわいた。どうしようかと考えていたら、結局そのまま二度寝して、起きたのは昼前だった。
腹がへって仕方がないから、とりあえずコンビニへ。と思って支度して、やっぱりすこし出かけることにした。十月に入って、乾いた風が気持ちよくなってきて、ちょっと歩いてもいいなと思ったのと、このままコンビニへ行けばすぐに家に戻って来て、また寝てしまいそうだったから。なんとなく気分を変えたくなった。
外に出れる格好に着替えて出直した。といってもいつものポロシャツとデニムだけれど、スウェットよりはだいぶましだ。
一歩外へ出ると、この間までの蒸れた風がうそのように消えている。さらさらした風が耳の端をすべる、散歩にちょうどいい季節になった。
今のマンションに越してから、車もバイクも手放した。維持する金がなくなったし、いっしょに乗る人も、乗せたいと思う人もどこかへいなくなった。
はじめて深く好きになって、ずっといっしょにいたいと思えた彼女は、いちばんの親友だと思っていた友達といつの間にかくっついていた。ごちゃごちゃしているうちに、みんなで立ち上げた会社もあっという間にだめになって、すべてが終わった。
大学生の頃、学生起業が流行った時期があった。最初はただの思い出づくりみたいなノリだったけれど、コンペに参加したり企業の人と直接話したりしているうちに、すっかりその気になっていた。
いや、今ならよくわかるけど、自分に酔っていただけだと思う。ただの学生なのに、なにか大きなことをしようとしている、という意識の高そうな空気に染まりたかっただけだ。
どういう動悸を隠していようと、アイデアがよかったら上位にいけたし、空振りに終わってもそれなりに楽しかった。就活が始まるからもうこれで終わりにしようと、最後に参加したコンペで真ん中くらいに入賞した。狙っていた上位入賞を逃して落胆したけれど、これでコンペも卒業だ、とみんなで帰ろうとしていたときだった。
明らかに学生とは違うスーツの人に「ぜひ一度お話を」と名刺を出され、舞い上がった。そのときメンバーで見合わせた顔は忘れられない。本社の応接室に通されたときは緊張で指がかじかんだ。その後の三年間は、いくら頑張っても疲れを感じなくて、ぼやぼやとかすんでつかみどころのない夢の中にいるようだった。
叶ってしまった夢のいやなところは、突然ふつりと終わるところだ。気の合う友達も、誰よりも大切な彼女も、一生懸命育てたちっぽけな会社も、ぜんぶ消えた。残ったのは微妙な額の借金と、共用にしていた車のスペアキー。見るのもいやですぐに捨てた。
やさしい言葉をもらっても、なにも返せず余計に落ちこんでしまう時期を過ぎて、ありがたみがしみじみ染み込むようになるまでは、かなりの時間がかかった。ぬかるみの日々をどうにかやりすごして、こうしてぼんやりカフェで座れるようになったことが、なによりも嬉しい。
穏やかな語り口の本を一冊持って、とっぷりと沈む。文字を追うのにつかれたら、窓から外をぼんやりながめる。客のいない平日の昼間。ため息をついたり、口をあけたまま頬杖をついたり。なにをするのも自由だ。
ぽかんとした時間を、真っ暗な虚無が押しつぶすこともなくなった。ここにあるのは窓とカウンターと、読み古してぼろぼろになった本。ぼこぼこした手ざわりの焼きもののカップと、コーヒーのにおい。店主が豆をひくかすれた音と、静かな空気の底のほうに流れる音楽と、無垢の床板を踏みしめるすこしの足音。ほかにはなにもない。
今ここにはそれだけしかないのだから、こころの奥からしみ出してくる闇に怯える必要はない。ほんとうは、それはどこにもない。その真っ暗な中に居たがっているのは自分で、居心地のいいなまぬるい泥の中にとらわれたがっていて、沼の底から出られなくなっているだけ。なによりもしんどいのは、底からはい出て、もう一度立ち上がることだから。このことを芯から理解するまでに、ずいぶん時間をかけた。
切れ目なく曲が流れる。ゆったりしたテンポの曲ばかりだ。何度も読んだ文章を、もう一度ふくむように読み返す。
旅先で出会った美味しいもの。親切にしてくれた人への感謝。こういうしあわせな文章を書いている人にも、眠れない夜があるんだろうか。
ふと目をあげると、外はもう暮れかけている。赤とんぼもオレンジの空も見えないけれど、腹はへる。とりあえずコンビニ、とゆるみきった体を持ち上げた。
この間まで熱帯夜だったのに、もう秋の風が吹いている。半袖では寒いくらいだ。昼間はたらたら歩くのも楽しかったけれど、こうなるとさっさと帰りたい。カフェを出て、すぐ近くにあるコンビニへ入った。
レジに近寄ると、なにかが違う。バイトっぽい店員も、こなれた感じの店長も、どこか張りつめている。どこのコンビニに入ろうと、いつもはもっといい意味でだらっとしているのに、なんだろう。
自分の番が来て、レジ台にカゴを置く。ちらりと見回すと、レジ奥の壁のすみに、スーツの男がひっそりと立っている。
手にはクリップボード。すこし書いては目を上げて、厳しい目つきでじっと店員を見ている。採点でもしているようだった。
「いらっしゃいませ!」
ぴりぴりと緊張した声。本社の評価員かなにかが来ているのだろう、と勝手に思った。目の前でバーコードを読み取る手がぎくしゃくと動く。見慣れないものが気になって、もう一度ふいっと見てみると、ぐっと目が止まった。
首から下げた大きな名札に「井上良」と書いてある。カレーのお兄さんと同じ名前だ。なんとなく不自然に首を伸ばす。クリップボードにうつむいていて、つむじしか見えない。
「あの……お客様?」
「あ、すいません」
困りきった顔の店員に、頭を下げて代金を払う。店を出てから振り返ってみたけれど、ガラス越しではぼんやりとしか見えない。
カレー屋の窓からにこにこのぞいていた顔と、さっき見た厳しい目つき。どうしても同じ人とは思えない。はっきり顔を覚えていないし、同じような名前なんていくらでもある。
ベッドに転がって、カレーの見た目を思い出しているうちに、子どもの頃の風景にもぐりこんだ。もう何年も見ていないのに、まぶたの裏にくっきりと浮かぶ。
土がむくむくと育つにおいが、春がきたよと教えてくれる。大好きだった五月の空。宝物にしていた大きなガラスの破片は、誰かにとられないようにと、どこへ埋めたんだかもう忘れてしまった。
真っ青な田んぼに、空の色がうつる。きらきらと張った水の夢を見た。
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