1-2

「いらっしゃい!」

 声につられて顔を見ると、ぱちんと目が合う。

 そのとき、お兄さんの目がとてもまんまるに笑っていたから、つられてへらりと笑ってしまった。起きてから誰とも口をきいていないまま、奥へ奥へと閉じた気持ちで急に笑ったから、かなりおかしな愛想笑いになったと思う。

 お兄さんはべつに変わらない。ふんわり笑って待っている。黙って見つめあってもしょうがない。もう一度くるくると左右を見回して、聞いた。

「すいません、メニューは……」

「あ、うちはカレー一種類のみで」

 なんていさぎよい。ごちゃごちゃ考えなくていい。

「じゃあ、カレーを」

「はい、ナンとライスがありますが」

「ええと、ライスで」

 日焼けした感じのいい腕が、流れるように動いてランチをつくる。オーバルの白い容器にライスがよそわれ、カレーが注がれ、きゅっとふたがしまる。リズムのある手さばきに見とれてしまった。

「熱いので気をつけてくださいね」

 ななめにならないよう、容器の底に手をそえて、紙袋を渡してくれた。真似して底を持つ。

「今日はお仕事ですか?」

 あまりにふつうに話しかけてくるから、ふと気が抜けた。カレーはまだ熱くて、底を持つ手がじりじりする。持っていられなくて、そっと手を放した。

「ああ、はい。仕事で」

 カレーのお兄さんは、なぜかしげしげと見てくる。なんだろう、ともう一度愛想笑いをひねり出した。今度はさっきよりうまくいった。

「あんま無理せず、ぼちぼちやりましょうね、浦田さん」

「は?」

 知り合い、なわけがない。でも、うらたさん、とはっきり言った。暑さと空腹でぼんやりした頭を、もたもた働かせてみたけれど、なんにも出てこない。

「あのすいません、以前どちらかで」

「いやいや、ここ、ほら」

 カレーのお兄さんは、なんだかたのしそうににこにこしたまま、自分のTシャツの胸ポケットのあたりをくいくいつまんでいる。ふと自分のポロシャツに目をやると、でかでかとフルネームをさらした名札を、首からぶら下げたままになっていた。

 会社を出るときに外したと思ったのに、うっかりしていた。すぐにひっくり返す。また目が合って、顔をそらしてちいさく吹き出すと、同じようにくすくす笑った。

「浦田、り? なんて読むんすか」

「ああ、これ。さとしです。読めないでしょ」

 ひっくり返した名札を、もう一度返して表を出した。理、の一文字ではなかなか正しく読んでもらえない。

 お兄さんは、ほうほう、と素直に頷いている。若そうに見えたけれど、よく見ると同い年くらいだろうか。吹き出したところで気が抜けて、微妙な警戒心がどこかへ消えた。

「なんで屋台で自己紹介してんだろ」

「屋台じゃなくてキッチンカーですよ」

 ぷにゅっと口をとがらせている。大の大人に、それも男に対して思うことでもないけれど、かわいいな、と思った。

「ここは、カレーしか売らないんですか」

「カレー屋さんですから」

「井上カレー?」

「そうそう、井上カレーの井上です。よしと書いてりょう。俺もよく間違えられます」

 狭いバンの中はここよりもさらに暑いだろうに、ほんとうにたのしそうに笑っている。井上さんはキッチンカーの中を振り返り、プラスチックの札をひょいと指さした。

「営業許可証 井上良」と書いてある。上の文字はかっちりした明朝体で、名前のところは手書き。大らかで読みやすい字だ。

「これ、よかったら。お友だちにも教えてください」

 カウンターの上のかごから、カードを一枚渡してくれた。ショップカードだ。渡し方がきっちり名刺の持ち方で、かちっと頭を下げてくる。こちらもなにやら背すじが伸びて、両手で丁寧に受け取った。

「ありがとうございます」

「いえいえこちらこそ。で、引きとめてごめんなさい、よかったらあったかいうちに食べてください」

 ちらっと両手をあわせて、頭を下げている。もらったカードを胸ポケットにしまって、軽くおじぎを返した。


 歩きだして、背中というか肩というか、胸から上の筋肉がゆるんでいることに気がついた。へらへら笑っているなんて久しぶりだ。他愛ない会話が意外とよかった。たった五分くらいだったけれど、もんやりとくぐもっていた頭と胸が、すかっと軽い。

 広場をうろうろ探し回って、やっと空いているベンチを見つけた。よさそうな木かげはほとんど誰かが先に座っていて、スマホを見たり本を読んだり。うらやましくなる様子で長居している。会社へ帰ろうかとも思ったけれど、せっかくだからここで食べたい。

 さっき買った水をまずはあおって、ひと息ついた。ぷはあと生き返る。ガサガサと袋から取り出すと、カレーはまだあたたかい。

 ふたをあけると俺だけのいいにおい。プラスチックの軽すぎるスプーンで口に運ぶと、思わずすこしのけぞってしまった。

 じゅわっとうまさがひろがって、顔がふにゃふにゃにほころんでしまう。さらにもうひとくち。じゃがいもだと思って舌でつぶすと、ほろほろとほぐれていく。にんじん、玉ねぎ、グリーンピース。つやつやと黄色くまぶしいルーが、どうしたわけかほっくり甘い。

 ごはんはふつうに白ごはん。小じゃれたカフェで出されるような、いかにも滋養のありそうな色の五穀米なんかでもない。これといった特徴のない、ほんとうにふつうの、家で食べるようなカレーだった。

 でもスプーンがとまらない。いい歳をして、そこらの高校生のようにぱくぱく食べた。腹がへっているからこんなにうまいのか、カレー自体がすごいのか。わからないまま完食した。

 ほかほかになった頬を、風が冷やして気持ちいい。からっぽの容器はまだほんのりあたたかい。

 体の底から空へぬけるようにあくびがわいてきて、思いきり大きく伸びをした。肩も背中もびりびり伸びる。腹の底から息をはくと、体の底でよどんでいたものがじゅわじゅわと消えていく。

 あくびの涙を指でぬぐう。しばらくそのまま座っていた。


 事務所に戻ってもなんとなく心地よさが残っていて、ときどき目をとじた。ぼんやりしすぎたせいか、思うように仕事がはかどらなくて、帰ったのは結局夜中だった。

 いつものように真っ暗な部屋。手探りで明かりをつけ、汗を流そうと服を脱ぎかけ、つかんだポロシャツに違和感があった。なにか入っている。胸ポケットから取り出すと、昼間にもらったショップカードだった。

 お友達に、と言われても、ひとりもいない。捨てるのもなにか違う気がして、とりあえずそのへんに置いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る