第一章 二年半前

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 キーボードをたたく。咳払いをひとつ。手元の資料をめくって、もう一度確認してからメモをはがす。机の上の電話は鳴らない。事務所には俺ひとりだけ。

 誰にもじゃまされないから、休日出勤は意外と好きだ。昨日の夜に出たクレームで、押しつけ合いが始まっていたから、黙って手を上げた。


 ざっと視線が集まり、すぐに俺に決まる。身代わりができてほっとしたのか、先輩が笑うように声をかけてくる。

「お前あれか、休日手当か、欲しいのは」

「そうなんす、いまビンボーで」

「それずっと言ってんな」

 はき捨てるように軽く笑うと、先輩は行ってしまった。波立っていたフロアの空気が、やれやれと低く落ち着いていく。

 ディスプレイが大きいせいで、座ってしまうと顔も見えない。カタカタとキーボードをはじく音だけが、止まることなく聞こえてくる。


 休日出勤は、悪いことばかりじゃない。明日出勤になったからと、昨夜は思ったより早く帰れた。こうしてひとりでのんびり作業できるのはなかなかいい。どうせ時間がかかるのだから、快適な環境のほうが効率が上がる。

 エンジニアといえば聞こえはいいが、IT系なんていうより、デジタル土方と呼ばれたほうがしっくりくる。きつい、厳しい、帰れない。せめてほかの仕事にすればよかったと思うけど、もう遅い。二十五歳を過ぎてしまえば、転職もだんだん厳しくなってくる。

 机の上でスマホがうなる。昼休みだ。固まった首筋をひねりながら、数時間ぶりに椅子から立ち上がった。


 なんにしようかとぶらぶら歩いて、決まらないままだいぶ歩いた。駅前からはずいぶん離れて、のんびりした雰囲気の店が多い。

 九月も末まできているのに、歩くとうっすら汗ばむほど暑い。ポロシャツの胸をつかんではたはたとあおぎながら、とりあえず入るところを、と見回した。

 コンビニはすぐ近く。道路の向こうにある。渡ろうと左右に首をひねると、向かいの道路のそのまた奥に、街路樹がわんわんと茂る道が見えた。そのずっと向こうに、ぽっかりひらけた場所がある。公園か広場か、なにかがある。

 会社に来ても駅とのあいだを往復するくらいで、近所になにがあるかなんてひとつも知らない。こんなに大きな公園なら、なにか食べるところくらいはあるだろう、と足を向けてみた。

 街路樹の木漏れ日を抜けるとどっしりしたお堀があって、立派な橋がある。自転車や日傘の人がゆったりと歩いていた。真ん中がこんもりともりあがった橋で、見た目はいいけど足がのけぞって歩きにくい。写真を撮っている人も、何度もカメラをのぞいている。

 橋を渡るとまた街路樹の道で、木かげがうれしい。ほっとひと息ついて、たらたら歩いた。まだ店は見つからないけれど、真ん中の広場になにかある。カラフルなかざりがにぎやかにしていて、お祭りでもしているのかと思ったら、キッチンカーの集まりだった。


 グリーンのワーゲンからは、華やかで甘い焼き菓子のにおい。でかすぎる黒のトラックは、釜をのせた本格ピザ。こんがり焼けたパンの色のワゴンに、レトロな三輪車のサンドイッチ。なんでもありそうだ。

 見ているだけで、どれにしようかと目が疲れてくる。広場の中央には噴水があって、ばしゃばしゃと石を打つ水音が気持ちいい。そのおかげかすこしだけ風も吹いていて、のんびり見て回るにはちょうどよかった。

「サンドイッチ、いやまてよ、やっぱりピザ……」

「どっちも買えばいいじゃん! 早く行こ!」

 トラックの近くで、高校生くらいのカップルがいちゃいちゃともめている。家族連れも多い。発電機が煙くさくうなる音に、それぞれの車が流す音楽がごちゃまぜになっている。

 いろいろないいにおいに、からだの中がいっぺんにかき回される。どれでもいいから行列の短いもの、と見回して、木かげのほうにある真っ白なバンに吸い寄せられた。

 黄色と白のしましまのほろがゆっくりと揺れて、日よけになっている。ちいさな立て看板に「井上カレー」と手書きの字。たしかにカレーのにおいがただよってくる。でも、つられてふっと思い出したのは、路地裏のにおいだった。

 子どものころの夕方、家に帰る途中の道。知らない家からただよってきたおなかのすくにおい。

 赤とんぼがこわいくらいに田んぼをおおって、家の白壁も友だちの顔も、すべてがオレンジに染まっていたあの時間。ひぐらしの声。

 一瞬、頭の上からがんがんとふってくるセミの声までもが、すっかり遠ざかっていた。こんな記憶がどこにあったのか。思い出すこともなかったのに、まるでついさっき見てきたように、くっきりとそこにあった。

 ぽかんと立っているうちに、すこしの行列がさくさくさばかれていく。ひらひらのほろの下にようやく入れた。なつかしいにおいがぐんと強くなる。

 さてなにを、とメニューを探したけれど、それらしいものが見つからない。立て看板にもバンの外にも、一皿いくらと値段があるだけだ。

「いらっしゃいませ!」

 前に並んだ女の人が声をかけられる。顔見知りなのか、にこにこと話している。

 キッチンカーの中でレードルを持ち上げているのは、気のよさそうなお兄さんだ。赤いキャップと派手なTシャツ。紙袋に両手を添えて、ていねいな仕草で渡している。

「ありがとうございました!」

 はずんだ声に見送られて歩いていくお客さんの顔が、ほんわりとあかるくなっていた。いいな、と思いながら前を向く。もう一度メニューを探した。

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