井上カレーつぐみ店

西ノ原はる

プロローグ

三月 二分の一

 ガラス越しの日ざしがぽかぽかとあたたかい。あくびの長い尾をゆっくりとかみしめて、じっと目をつむる。ベランダのそばにすわりこんで、心地よく遠のいていると、母に背中をこづかれた。

「そんなんじゃあ終わらないよ。美樹のときなんて、三日ぐらいかかったもんね」

「あれはねえ、段ボール二百箱はあったでしょ。しかも半分くらい靴」

 母がこぼすささやかな愚痴を、妹がやんわり拾う。俺が口をはさむ隙は昔からない。やわらかくなまった田舎ことばで、にぎやかに笑う声が部屋に満ちる。

 ここはあんまり荷物がないからいいわあ、うちもこんなふうにすっきり片づけないとねえ、などと、まだ言いあっている。女たちはいくらしゃべっても手が止まらない。

 母は慣れた手つきで食器をつぎつぎと新聞紙にくるむ。その横で、美樹が手早く段ボールの中に並べていく。ふたり暮らしの少ない食器は、あっというまに箱の中へおさめられた。

「あれ、良さんは?」

 みっちりとふくらんだ段ボールを、ぽんとはたいて母が言う。さすが、クローゼットはもう空だ。いっしょに首を回してみると、洗面所のほうから水音がする。

「まーたあの子は。いちばんしんどいとこ、ひとりでしてるんじゃないの」

 ほらあんたも、とどやしつけられ、背中をぐいぐい押される。同性の恋人と暮らす部屋に、母や妹の声が響いているなんて、いまひとつ現実感がない。

 のろのろと立ち上がって、腰をのばしてから雑巾をつかんだ。


 ワンルームマンションの狭い洗面所に首をつっこむ。ここにも段ボールが置かれていて、歩きづらい。中にはすでに、買い置きの洗剤やシャンプーが並べられていた。

 はじめてここに来た日は、暑くてまぶしい夏の日だった。よく知った壁紙のざらざらをなでながら、声をかけずに見ていると、ざばざばと流れていた水音が止まる。

 泡だらけの手で顔をこすろうとして、ふと手をとめた。それから、泡のついていない手の甲で、ぐりぐりとひたいをぬぐう。黙って立っていただけなのに、ふっと気がついて、こっちを見た。

「すんだ?」

 声をかけると、ふわりとほほがゆるむ。

「まだ。さっちゃんも一緒にやろうよ」

 人懐っこい顔で笑う。日に焼けたあかるい肌の色と、くるりと愛想のいい瞳。笑うとそこにだけ日なたが生まれるようで、こっちまであたたかくなる。

「前もそんなこと言って、二人でしゃがんで動けなくなった」

「あー! あったあった」

 うひひ、と吹き出して、ひとつくしゃみをした。

 三月ももうすぐ終わるのに、この北向きの風呂場はいつでも寒い。うっすらと鼻の下を光らせているから、腰から下げた手ぬぐいを引き抜いて、ちょっとぬぐった。

「ごめん、ありがと」

「交代しよう。良さんはあっち、部屋のほう」

 ぐずぐず鼻をならして、やっと風呂場から出てきた。となりに立つと、よく知ったにおいがまぶたをなでる。それが甘くてうれしくて、今日もこうして、生きていてくれてよかったなと思う。

 肩にすこしだけ頭を置いた。同じようにこつんと頭をあててくる。部屋のほうでは、母と妹が、良さんの荷物を勝手にかしましくつめこんでいる。

 良さんは、誰になにを見せることも、なんとも思っていないようだった。むしろさらしてしまいたがるような、ちょっと変わったところがある。それがずっと不思議だったけれど、今ではなんとなくわかる。

「やだー、なにこれ」

「いちいちさわがないよ」

「あ、これ今度貸してもらおう」

「勝手にとらないの」

「いいじゃん、だってもう家族なんだし」

 妹が自分のかわいいわがままを通そうとしているときの声がする。きっとほっぺをぷくうとふくらませているのだろう。

 子どものころはあの顔に何回泣かされたかわからないけど、今は見るだけでほっとする。ああ、元気なんだな、と安心する。

 俺と違って、どんなことにでも切り替えが早くて、順応性があって。そのおかげでどれほど助けてもらったか。今ではすっかり頭が上がらない。

「ねえねえ良さん、これ今聴いてる?」

 ばたばたと風呂場までおしかけてきて、両手で持ったCDのジャケットに目を輝かせている。スーツを着た四人組の、いかにも美樹が好きそうなバンドだ。

「うわ、それまだあった? なつかしいなあ」

「借りてってもいい? 新居に遊びに行くとき返すから」

「いいよ、そんなに何度も来なくて」

 しっしっと手をふると、目をまるくして頬をふくらます。

「行くよ! 良さんにカレー教えてもらう約束してるんです」

 いつの間にそんな約束をしたのか、ねえ、と口をとがらせ、首をかしげて良さんを見る。

 そのときの、美樹を見た良さんの目の下の、まあるい影がもっとくっきり刻まれて、笑ってばかりのこれからになるように。

 笑うたびにつやつやと揺れる美樹の髪の毛と、良さんの強くてしなやかな背中を見て、すこしだけ祈った。

 

 ひんやりした風呂場に入ってしゃがみこむと、良さんのいたあたりだけがほんのりあかるい。三センチほどのタイルの目地が、地図上の道みたいに白く光っている。

 今日を最後に出ていく場所を、くしゃみをして鼻をたらして、こんなにきれいにみがいてしまえる。それが良さんなのだと改めて思った。

 窓をあけっぱなしにしているから、遠くの電車の音までうっすら聞こえてくる。部屋のほうでは明るい声がはずんでいる。

 お昼はなんにしようかと、もう相談が始まっている。段取り上手な良さんの提案に、がんこな母がパチンと手を打つ。わっとわき立つ笑い声。たのしそうだ。

 聞こえてくる声だけでわかる。即決で昼食のもろもろが決まり、それぞれ作業に戻っていく。でこぼこながら、見事なチームワークがおかしかった。

 せっけんのにおいがかすかな風呂場は、次にどんな人が使うのだろう。どうしてもとれない壁のしみも、最初からあったサッシの傷も、昨日まであたりまえだったのに、だんだん遠くなる。

 部屋のほうからは、大きな笑い声が響いてくる。腕まくりしてみがきながら、風呂場でひとりにやにやして鼻をすすった。

 いち、にい、と数えていって、中指を中途半端に曲げて止めた。ちょうど二年と半年前。はじめて良さんに会った日の、ぴかぴかとまぶしい空の色が、記憶の中でますます明るさを増していく。

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