第16話 綺麗事焦がれ
冷たい石と鉄だけの地下牢。灯りも無ければカビ臭く湿っぽい。手足に巻かれた枷は自由を奪う。この空間で唯一自由なネズミは既に亡骸となった先客を囓っていた。
食事も与えられず身体は弱る。だがあの先客と同じになってたまるかと、目だけは爛々と光らせ脱獄の機会を窺う。
──などという光景はどこにも存在していなかった。
想像とかけ離れた現状を受け入れられずアルーフは当惑顔を晒していた。手渡された麦粥を抱えたまま、その中身をじっと見つめ続ける。
「大丈夫です? まだ手が痛みます? 口元までお運びします?」
「だ、大丈夫です。ちょっと色々と想定外だっただけなので」
様子のおかしいアルーフの顔を覗き込んだのは麦粥を渡した老婆だ。白い装束に身を包み、目だけでまろい笑みを浮かべる。危険とは対極にある存在。
彼女の雰囲気につられてアルーフは曖昧な笑みを返し、顔の前まで手を挙げて問題ないことを伝える。その指には一本一本丁寧に包帯が巻かれていた。
アルーフ含め捕縛された四人が連れて行かれたのは陰惨な地下牢などではなかった。白い漆喰で塗られた一室は十人程度寝かせられるほどに広い。入り口を挟んで両側の床は一段高くなっており、アルーフ達はその敷かれた厚手の布の上で一列になるよう座らされていた。仮に寝そべったとしても高床から足がはみ出すことはないだろう。
忙しなく器具を弄ったり、汚れた布を片付けていく見知らぬ人々。皆一様に白くのっぺりとした衣服に身を包み、口元を布で覆っている。年頃も性別もバラバラだが、共通している点があるとすれば、誰一人としてアルーフ達に腕っ節で勝てそうな者はいないというところか。
穏やかな空気感に包まれて、逆に居心地が悪そうにしているのはアルーフだけではなかった。ソウキもスイコも同じように名状しがたい顔をして椀を抱えて座っている。
顔や腕など怪我が目立っていた箇所には、これまたアルーフと同じように包帯が巻かれていた。スイコが用意したものではない。全てこの部屋に連れて来られてから施されたものだ。
「具合が悪くなったり困ったことがありましたら、この鐘を鳴らしてくださいね」
「あ……りがとうございます」
やることがひとしきり終わった白装束たちは次々に部屋から出て行く。最後に振り返ったのは若そうな男だった。
ゆったりとした口調と動きにあてられ、もとの屋敷へ戻ってきた錯覚に襲われるアルーフ。だがそれも一瞬のことで、声が消えると共に閉まる扉の音が現実を突きつけてきた。
掌ほどの厚さがある重々しい金属の扉。度重なる開閉によって劣化した蝶番の軋みは物の少ない部屋中に反響した。
色々としくじって領主に捕らえられたのが夢でもなんでもないと告げるのは扉だけではない。ぎりぎり出入り口までは届かない程度の長さに調整された足枷もだ。
もっと扉近くに繋がれていたら覗き穴に指先くらいは届きそうなものだが、その辺りは考慮されていたのか。扉の一番近くの場所ではクロが大の字になって眠っており、アルーフは部屋の一番奥に押しやられていた。
四人だけが取り残された部屋にはしばらく沈黙が続く。
天井付近に作られた小窓からは朝日に暖められた生ぬるい風が吹き込み、アルーフの髪が揺れた。
解かれたままの髪が邪魔くさくて髪紐で括ろうと腰に手を伸ばしたが、手は空を切る。荷物類も武器と共に全て没収されているようだった。
「……なあ、これどう思う?」
沈黙を破ったのは隣に座るソウキだった。手持ち無沙汰に麦粥をぐるぐるとかき混ぜ続けている。
毒入かと疑っているわけではないことはアルーフにも理解できた。命を絶つつもりなら怪我の治療までしてこの場に留めておく必要がない。
「似たような部屋もあるし、わたしたちだけ特別扱いじゃあなさそうよね」
「でも領主に怪我でもさせてたらもっと扱い悪かっただろうな。……ソウキが話し合おうとしてくれてて助かったよ」
アルーフにとっては嬉しい誤算だった。
身柄を拘束されても劣悪な環境に置かれなかったという結果もだが、単純にソウキがあの場で踏みとどまってくれた事を思って顔を緩ませる。廃棄市街に行く前に交わした会話からして、姿を見るなり領主に襲いかかるに違いないと思っていたが、実際にはそうならなかったのだから嬉しくないはずがない。
そんな疑いの無い澄んだ翡翠の眼差しを浴びて、ソウキは照れくさげに唇に力を入れた。
「まあその、剣じゃなくて、言葉で殴り合うってのもありかな~……みたいな?」
目を泳がせつつ頬を掻く。ソウキの様子は誰の目から見ても明らかに不自然だった。口を挟まずに挙動をみつめるだけのスイコに気付いて、言葉尻はどんどん小さくなっていく。
アルーフ並に下手な嘘のつき方だったと自分でも思ったソウキは、勝手に観念して片手で膝を抱えた。
「……剣が折れてたんだよ。右腕もおかしくなってたし」
「それじゃあ」
「万全の状態だったら普通に斬りかかってた」
アルーフの言葉を半ば遮るようにしてソウキは言い切った。動きを確かめるように右手を握っては開いてを繰り返し、口角を片方だけ上げる。なにかを小馬鹿にした口元に反して、その目には力が無かった。
「オレはアルーフと違って覚悟決まってるから。……悪い奴なら殺す。綺麗事なんか言ってらんないんだよ」
「言うだけならいいんじゃない? それに、わざわざ汚れ事である必要もないと思うけど」
重苦しいソウキの声色と反比例するように、アルーフの声は世間話でもする程度の軽さだった。縋り付いていた覚悟の重さをつま先で転がされる心地。落ち着き無く遊ばせていた指をソウキは握り込んだ。
「いつまでそんな甘っちょろいこと言ってる気だよ」
「いつまで……いつまでもかな。綺麗事か汚れ事か選べるうちは綺麗事を選ぶつもりだよ。覚悟なんて決めたら、選べたかもしれないもっと良い方法を最初から諦めることになる」
「そうやって迷ってるうちに、手からどんどん落ちていくぜ。〝ああどうしよう、殺さなきゃ。でも怖い殺せない〟ってな」
いつもの芝居がかった口調は憤りが収まったのかと一瞬思わせるものだった。だが顔を向き合わせているアルーフがそう感じることはない。
ころころと良く変わる表情の中に、まだこんなものが残っていたのかと感嘆するような必死の形相。
今までも冷めた顔をすることはあったが、手を伸ばせば噛み付かんばかりに顔を歪めたことはなかった。一時手を組んだだけの相手。感情を露わにしてぶつかれるほど互いを知っているわけではない。
「それともなにか? 自分の手は綺麗なままで、必要な時はどっかの誰かに手を汚してもらおうってやつ? あー、はいはいご立派ですね~」
現にソウキの目はアルーフを見ているようで見ておらず、どこか遠い。
あまり踏み込むつもりもなかったが、存在を無視されているのに怒りだけぶつけられているようで気分はささくれ立つ。アルーフはソウキの頬をつまんで伸ばした。
「なにを拗ねてるのかわからないけど、喧嘩売るならちゃんと売ってくれないかな」
「いひゃい! はなふぇよ……!」
「いーやーだーねー」
よく伸びる頬を押さえてソウキは涙目になっていたが、目を据わらせたままのアルーフは手を離さない。指先の感覚が鈍っているせいでアルーフ自身が思っているよりも強い力が加わっており、降参するようにソウキは腕を叩く。
「わるかっひゃ! おれがわるかっひゃから! ごめんふぇ!」
「自分で悪かったって言うんだ」
今度こそアルーフの目を見て言った。満足げに頷いたアルーフはようやく手を離したが、間髪入れずに手刀の形に揃えた指をソウキの首に軽く添える。
「じゃあソウキは悪い奴だから死んで当然だし、殺しても構わないよな」
本気で言っているわけではない事は明白だった。殺気も無く、ただ正面に座っているだけ。ゆっくりと瞬きをする瞳の表面はいくらでも波立つが、底は深い湖のように凪いでいた。
「なにを」
「……って、俺はしたくないってこと。今のはちょっと極端だけど。ソウキだって悪っぽい事をしてるのが楽しくて仕方ないってわけじゃない、よな?」
「一緒にするな。楽しいわけじゃないけど、辛いわけでもない。だいたい、そんなの手を汚してないから言えるんだろ。一度汚れたら二度も三度も変わんないっての」
「変わるよ。何度でも蘇って来る奴を相手にしてるんじゃなければ、相手にとっては一度目だ。それに何度目だって重いものは重い」
指は首筋に宛がったままアルーフは目を細め、あくまでも静かに口にした。
受け取っても受け取らなくても良い。そんな曖昧な輪郭をした意思。
ソウキは呆れた風に手を振り払う。おどすつもりすらない腕は自身の何を脅かすでもないはずなのに、逃れたくて堪らないように身をも引いた。
「いちいち悩むなんてやってられるかよ。バカみたいにさ」
「……やってることは綺麗とはほど遠いし、口先だけかもしれないけど……うん。たぶん欲張りなんだと思う。少しでも良い方が欲しいって」
「倒すべき敵なら、それがなんであれオレは倒す。オレは欲張ったりしない。迷わない」
餓えた猫に引っ掻かれる幻影が視えたアルーフは大人しく手を下ろす。閉じてしまっている相手にこれ以上ちょっかいをかける気もなかった。
考えようによっては、ソウキの態度は頼もしいとも言えるかもしれない。
かもしれない。ではない。絶対に必要だ。と、アルーフは眉を下げる。
「まあ……そんな状況が来ないのが一番だよな。今だったらほら、噂とちがって領主が実はいい人とか──」
アルーフが言いさしたところで耳をつんざく悲鳴が扉の向こう側から響く。
「ぎゃあああ! 話す! 話すからやめてく──あ゛あ゛あ゛ああ!」
聞き覚えのある声。時を同じくして領主に捕らえられていた小太りの男のものだ。
部屋に再び沈黙が戻った。誰からともなく固唾を飲む音がする。
「ななななんじゃっ、何事じゃ!?」
前ぶれなく部屋に充満した汚い悲鳴に、深い眠りに落ちていたはずのクロまでもが跳ね起きて目を白黒させていた。
「体力が戻るまで回復させて、回復したら拷問にかけて、また弱ったら回復させてってことかしらね」
「……いい人、ではなさそうかな……」
「脱獄か!? いますぐに!?」
「なんの準備もなしに逃げられるわけないじゃないのよ。ちょっと落ち着きなさいって」
寝起きに入ってきた不穏な情報に混乱するクロだが、スイコも手慣れたもので、その頭を少々乱暴なくらいに撫で回す。
そうされるうちにクロも、落ち着く──を通り越して再び眠気が襲ってきているようだった。
「逃げるにしたってまずは体力を戻さなきゃ。力尽くで突破するにしても頭使うにしてもね」
肩をすくめたスイコはぬるくなった麦粥に口をつけるが、それを遮るものがいた。
「堂々と脱獄宣言してんじゃねえよボケ」
鍵の開く音。軋みながら扉が開く。
「なんだおい。まだ飯食い終わってねえのかよ。お前ら全員ナメクジか」
「無礼者め! 我ならばとっくに済んでおるわ。……ふふふ、もっと寄越しても構わぬぞ」
「この状況でおかわり要求してくるとか、お前相当図太いな」
「そうであろう。もっと褒め称えても良いのじゃぞ」
「いや褒めてねえから」
クロのペースに巻き込まれ始めているのは、魔動機械のあった地下で領主の護衛をしていた、若い衛士のシンラだ。その後ろで咳払いをするのは共にいた年嵩の衛士。
二人とも鎧は着ておらず、手には紙束とペンが握られていた。
「思ったよりか早かったわね。早速拷問の時間ってわけ?」
「なんだ。拷問されねば吐かぬような重要な情報でも持っているのか?」
挑むような視線を投げるスイコだったが、年嵩の衛士は気にした様子もなく、四人が並ぶ高床の対面の空いた場所に腰掛ける。倣うようにシンラもその隣に座った。
「シンラ、一行目日付と聴取者名」
「え、オレが書くの……んですか」
「当たり前だろうがアホ!」
またしてもシンラの頭の上に拳が落ちた。
そんなに頭をぶつけたら本当にアホになってしまうのではないかと我が事のようにアルーフは心配になる。頭をぶつけすぎているのは他人事ではなく、思わず自身が打った後頭部をさすった。
その間にも滞りなく筆は進められ、紙束の一行目によれた字が刻まれる。
書き込まれる名前はシンラ=イツカ、カテナ=イツカ。衛士二人の名だ。
「で、えー。
「クロではない! 我が名はクロウチルヴァリ・クロースティル・ルバトゥス・マステロル──」
はっと、なにか重大なことに気付いたようにクロは動きを止めた。
「なぜ、貴様は我らの名を知っておる」
「君ら思いっきりお互いのこと名前で呼んでたろうに……」
緊張感のないクロに頭を抱えるカテナ。年相応に疲れの滲む顔面の疲労感がもう一段濃くなり、全身から力が抜けたように崩れた動きをする。
暴力的かつ厳格な人物あるいは組織であれば、馬鹿にしているともとれるクロの言動を見逃すはずもない。
恐ろしげな拷問が行われる様子はいつまでもなく、アルーフは口を挟んだ。
「あの、普通の聴取なんですね?」
「普通のってなんだ。衛士団に捕まりでもした──となると君前科持ちか?」
「前科とかないですから! そうじゃなくて、噂を聞いてた感じだと即処刑とか拷問受けた末に処刑とか、そんな印象だったので!」
あらぬ疑いをかけられてアルーフは慌てて両手を身体の前で振り、全力で首も横に振る。声を張り上げるアルーフとは逆に、カテナは小さく唸った。
またか。とでも言わんばかりにゆっくりと腕を組んで、白漆喰の天井を見上げる。
「どうも最近、似たような事ばかり外周区域の者達から聞くんだがどういうことだ? 一昔前には無かったはずなんだが」
「自分たちの胸に手を当てて聞いてみたらいいんじゃないかしら。正義の味方の衛士様?」
「それがわからんからこうして聞いてるんだがな。具体的に何が気にくわない? 専門の暗殺者を送り込まれるほどの事は衛士団も領主様もしていないという認識だが」
「ぐ、具体的にって……」
衛士は小市民の苦言になどろくに取り合わないという先入観からかスイコは口ごもる。どこまで衛士が情報を持っていて、何を口走れば自分たちが不利になるかなどわからない状況。
相手がどのような人物でどのような立場なのかも知らないうちは、不用意に口を割るわけにはいかない。と、スイコは唇を引き結ぶ。
そのかたくなな様子にカテナは眉を上げ、面倒くさそうに後ろ頭を掻いた。
「白化の病を広げているのが領主様だとか、その辺りの噂か?」
「なによ。知ってるんじゃないの」
「その噂ならば嘘だ。領主様はそのようなことはしておらん」
「口先でならなんとでも言えるじゃろう。あの時、領主もそう言っていたではないか」
領主の口から直接噂が嘘であると耳にしていたクロだが、裏付けが無い中では素直に信じるつもりはないようだった。それはスイコも同様だ。敵対しているはずの相手の言い分を全て聞き入れるわけがない。
「それなんだけど、たぶん領主は嘘をついてないと思う。少なくとも魔動機械に関しては」
けんか腰に構える二人に対し、アルーフが前のめりになる。つられて口を開いたのは珍しく大人しくしていたソウキだった。
「領主が嘘をついてないって、なんの話だ?」
「あの魔動機械はこの辺りでたくさん作物が穫れるようにするためのものだって。実際、式に少し触れられたけど、確かにそういう傾向があったから」
「作物をたくさん穫るため……。オレらが聞いてるのと逆のことしてるな」
ソウキは背を丸めながら頬杖をついてスイコを見上げた。
視線の先のスイコも悩ましそうにこめかみを揉み込んでいる。
「それが本当ならね。そもそもわたし、アルーフのこともあんまり信用してないわけだし」
「え、疑ってるって、普通本人には言わないもんじゃない?」
平然と言ってのけるスイコにアルーフは目を見開いた。
「疑うまではいかないけど、全部鵜呑みにはできないってこと。アルーフにその気が無くても、アルーフが騙されてるってことだってあるわけだし。なにもかも顔にも耳にも出過ぎなのよ。そんなんだからソウキにも遊ばれるわけでしょ?」
「それはまあ、否定は……難しい、かな」
「……仲間割れするのは構わんが、こちらの質問に答えてくれんか」
他の囚人と比べてもあまりに緊張感がない。手慣れているのか、舐めているのか。あるいは動揺を誘おうとしているのか、他意なくやってのけているのか。
考えすぎても呑まれる。と、アルーフ達のペースに巻き込まれそうになるのをカテナは堪えた。
「どうも魔動機械に関しても君らの方が知っている事が多いかもしれん。場合によっては領主様と直接話す機会も設けよう。我々にかけられている疑惑、黒い噂、我々に関係なくとも困っている事柄、手当たり次第に話せ」
「いいんですか? こいつらただのガキですよ?」
「お前と大して年は変わらんだろうが」
領主と直接話す機会を設けると言い出したカテナをシンラはのぞき込み、アルーフ達は顔を見合わせた。
「調書にも残さん。ただ単に
指示されたシンラは逆らうことなく紙束を横に置いた。不承不承であることを隠そうともせずに、挑発的な表情は収めない。
「まあ、地下で見たこととか少しくらいなら話してあげてもいいけど……」
そこでようやくスイコは口を開いた。
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