第9話 荒野の落とし穴

 荒野は夜の涼しさから、真昼の灼熱へと徐々に移り変わっていく。

 魔物達の大半も影を求めて少しずつ移動を始める中、歩みを進める二つの影。アルーフが目を覚ましてから二日ほどが経った頃のことだった。


「アルーフよ~……我、もう限界なんじゃけど~……」


 泣き言を言いながら足を引き摺る黒い塊はクロだ。身をすっぽり覆う黒いローブの下からは次から次へと汗が滴る。初めのうちこそ意気揚々とアルーフの前を跳ねるように歩いていたものだが、歩き始めてから半刻もしないうちにすっかりバテてふらついていた。


「そうは言っても、落ち着ける場所もないしなあ……」


 クロに合わせてゆっくり歩いていたアルーフは足を止め、大ぶりのフードを外して辺りを見回した。

 だだっ広く広がる荒野。腰丈程度の草やサボテンは生えている。身は隠せるが、魔物が潜むのにも格好の場所でひと休みするには向かず、影も無い。

 見回してみることで突然都合良く木陰なり岩陰なりが現れてくれれば良いのに。と、詮無いことを思い浮かべてアルーフは肩を落とした。


 すぐ近くには切り立った崖が上に伸びていたが、アルーフもクロも近付こうとはしない。太陽が真上に昇るにつれて影が細くなっていたせいもあるが、それ以上に魔物を警戒していた。崖上で待ち伏せていた魔物に襲われてからのことだ。

 少し前までは二人とも崖の影を利用して歩いていたが、軽く休もうかと腰を下ろしかけた所で上から襲われたのだ。


「もう歩けないんだったら背負って……いや、背負うのは駄目か」


 これが街中なら背負って歩くところだが、いつどんな魔物が飛び出して来るかわからない中、咄嗟に動けない状態でうろつくのは危険すぎる。


「ええい! この際贅沢は言わん!」


 クロは小さい身体にしては大股ですぐ近くの岩陰まで勢い良く歩いて行く。岩の高さはアルーフの膝下程度で身を隠すのには心許ない。だが壁を背にするだけでも気休めにはなるだろう。


「ふぃ~……」


 岩影に入ったクロは座り込むなりローブを脱ぎ捨て、露出の多い身体を風に晒した。すぐさま水筒を傾けるも既に中身は空だった。暑さに顔を真っ赤にしていたクロは岩にもたれかかって天を仰ぐ。

 アルーフもその隣に腰掛けるが、クロとは異なりどうしても肩から上は岩からはみ出してしまう。少しでも後ろの音が聞き取りやすいようにと、アルーフはフードを取った。強い陽射しが直接頭に当たるが、そこは致し方ない。


「羽織りもの取り替えようか?」


 陽射しのきつい荒野に厚手のローブは相性が悪い。しかも黒いとあっては発火しそうな程に熱くなるはずだ。

 アルーフがいま身につけているのはスイコに手渡された薄手のものだった。悪目立ちしていた瑠璃紺のケープではない。灰色がかった生地は荒野の景色に溶け込み、熱を良く逃がす。

 そのまま取り替えるだけではクロは裾をかなり引き摺るだろうが、端折ればなんとかなる。しかしクロは首を横に振って、脱いだローブを両腕で抱え込んだ。


「いやしかし、これは母上から譲り受けたもの故な」

「まあ、そういうことなら。とりあえず今だけでもこれ被っておきな」


 アルーフは外套の紐を解いてクロの頭の上に載せた。簡単な造りのマントはフード部分を起点に広がる。


「おお……! 涼しい……!」


 クロは新たな発見に目を輝かせた。

 休憩してまた歩く気になってくれれば良いが。と、アルーフは腰に提げていた水筒を脇に置く。クロが持っていたものよりも大きい水筒はまだ中身が十分に入っており、皮にも張りがある。


「ほとんど飲んでないし、これ飲んでいいよ」

「良いのか!? 貴様いい奴じゃな!」


 ちゃぽちゃぽと音を立てる水筒を両手で受け取ったクロは、栓を取るとしばらく動きを止めた。


「ほとんど飲んでいないということは、ちょっとは飲んだのじゃな?」

「一口くらいは飲んだかな」

「う、ぬ。……そうか」


 何やら葛藤している。


「あんまり飲まないから、量は気にしなくても」

「そっ、そそ、そのようなこと気にしておらぬわ! 全部飲み干せるくらいじゃからの!」

「全部は駄目だって!」


 先ほどまでの躊躇いはどこへやら。叫ぶように否定したクロは、水筒の中身を勢いよく呷った。細い喉が上下する。本当に全部飲みきってしまうのではないかとアルーフはハラハラしながら見守っていたが、なんだかんだで三口程度飲んだら満足したようだった。


「ぷはっ! 生き返るのじゃ~。礼を言うぞい」


 クロは飲み口から唇を離して、水筒をアルーフに突き返した。


「良かった……ちゃんと残ってる……」


 全体としての状況は全く良くないが。

 アルーフはクロから水筒を受け取りつつ、ソウキ達とはぐれた崖上に目をやった。

 上に登れそうな場所は無いかと崖沿いに二人は歩いてきたが、崖はずっと切り立ったままだった。アルーフ一人だけならまだしも、クロを連れて登るには無理がある。

 最悪、街を出たときの道まで戻ってそこから廃棄市街を目指せば、はぐれた場所までは辿り着く。落下したのが砂都側だったのが不幸中の幸いだ。クロの体力が保ちそうになければ街に戻るという選択肢もある。


 地中から破裂するように飛び出してきた巨大な魔物を思い返してアルーフは耳の先まで身震いした。

 出現と同時にクロを吹き飛ばした魔物は生理的に受け付けない姿形をしていた。長い身体に無数の細かい足。大きな顎は岩をも砕く強靱さだった。


「あの魔物、分裂して追ってきたりとかしないよな」

「不吉なことを口にするでないわ馬鹿者! 魂だけが宙空に取り残されたあの感覚、二度と味わいたくはないわ!」


 魔物に吹き飛ばされたのはクロだけだったが、隊列的に近くにいたアルーフが拾ったことで二人してはぐれることになっていた。

 こういう時に鎖付きの武器は便利だ。張り出した岩場や枯れ木に引っ掛けつつ、勢いを殺して滑り降りるのにアルーフは慣れていた。クロの体重が軽いこともあって大した怪我も無い。


「もう行けそう? 日が暮れないうちにソウキ達と合流……か、街に戻るかしたいんだけど」

「むう……暗くなってから魔物に囲まれればコトじゃしのぅ」


 アルーフに促され、クロは渋々と立ち上がる。再び黒いローブに袖を通した瞬間、地面を突き上げるような衝撃。


「うわっ!?」

「なんじゃ!?」


 よろめくほどの揺れの大きさだった。勢い余ってクロは尻餅までついている。揺れは続いていた。立っていられない程に次第に大きくなる揺れに、アルーフが岩を掴んだと同時に一気に視線が高くなる。


 魔物の背。


 最悪の状況に気付いたアルーフが顔を青くする暇も無く、岩の甲羅を持つ亀の魔物はむずがるようにぶるぶると身を振った。


 甲羅の上に取り残されていた二人からすれば堪ったものではない。二階建ての建物の屋上から突き落とされるようなものだ。

 振り落とされないように身を低くして甲羅の出っ張りにしがみつく。だがそれも一瞬の事だった。

 一瞬でクロの握力は尽きた。アルーフの手は届かなかった。


「あばばばばっ!!」


 魔物が前足を高く上げると同時に尻尾まで勢いよく転がるクロ。尻尾の先端まで衰えることのない速度で到達したクロは、滑り台の要領で綺麗に転がり、すぐ側の丸い花サボテンに激突した。


「痛っー!!」


 尻に針が突き刺さっていたが命に別状は無いようで、すぐさま飛び上がって跳ねる。

 その手があったか。アルーフはクロに続こうとしたが時既に遅し。

 亀の魔物は背中の異物に苛立ち、あろうことかアルーフを背に乗せたまま洞窟とは逆、街のある方向へと走り出した。

 一歩踏み出すごとに鳴る大地。その重量は凄まじく、踏みつけられた小石は瞬時に砂と化し、足元をちょろちょろしていた灰砂蠍は砕ける。異変を察知した砂蠍達は蜘蛛の子を散らすように激震地から遠ざかっていく。


「ちょっと待てーい! 我を置いて行くでなーい!」


 しかし悲しきかな。どれだけ大きかろうが所詮は亀。

 ところで、クロの小走りよりも遅かった。だがその背は大きく揺れる。時折身を震わせたり、地団駄を踏んだりと予測できない動きも重なり、安全に降りられる状況にはほど遠い。

 術で狙い撃とうにもゆっくりと狙いを定められる状況ではなかった。外した術にクロが巻き込まれるかもしれない。


 そうは言ってもこのままでは、クロが力尽きて干物になるのも時間の問題である。

 クロは先ほどから、その場で地面を踏みならしまくっている魔物の足を隙を見て鎚矛メイスで殴りつけてみているが、魔物からすれば痛くも痒くもないようだった。

 アルーフが意を決して跳ねる甲羅を掴みつつ這いながら移動し、飛び降りようとした──その時。


 ミシッ


 地面が軋んだ。耳を疑う音だ。地面は軋むものではない。

 アルーフの冷えた頭がそう告げるが早いか、魔物の足元が薄氷のごとく割れた。魔物の周りをうろちょろしていたクロも当然のことながら共に落下する。


 バランスを大きく崩した魔物は落下しながらひっくり返る。アルーフの身は大きく投げ出されたが、運の良いことに足元はただの空洞ではなく巨大な湖になっていた。

 一つ二つ三つと地下に大きな水音が四方に反響する。三つ目は特大だ。

 津波のように押し出された水は壁にぶつかり大波として中央部へ返る。亀の魔物は岩の身体を浮かせることができず静かに、そして着実に水底へと沈んでいく。

 その姿を水面で眺めていられたら真に幸運であった。


──溺れる!


 アルーフとクロの口から泡が大きく上がり、魔物の背で砕けた。

 巨体の下から抜け出そうにも、沈む岩肌の甲羅と浮力の間で思うように身動きが取れない。なんとか魔物の背伝いに脱出を試みるが、そう都合良く大人しくもしてくれない。魔物も岩に戻らぬようにと必死に手足をバタつかせるのだ。


 地上では強烈な陽射しから身を守ってくれるはずの外套は水を吸って身体に纏わり付き自由を奪う。脱いでしまおうにも紐は水気で固くなっていた。

 水底に着いたらどう足掻いても逃げられない。おしまいだ。

 焦りと共にアルーフが下を見やると、何故か足元が明るかった。沈む深度と比例して周囲が明るくなっていく。呆気に取られているうちに見えない壁に行き当たった。

 結界だ。


 甲羅の隙間になんとか身を捻じ込むことができた二人は辛うじて魔物の巨体に押し潰されずに済んでいた。探るようにアルーフが結界に手を滑らせると、その軌跡を辿るように複雑な文様が淡く青色に輝く。式術によって作られた結界だった。


 アルーフは結界に手を当てたまま、文様として描かれている式の型を読む。かなり古いもののようだ。とはいえ、これだけの質量を揺らぎなく支えるということは結界の強度は生半可なものではない。力尽くで破るのは非現実的だった。

 だが決まり切った型で動く式術は式そのものを書き換えられれば弱い。魔素を直接操る者にとって壁は無いも同然。理屈としてはソウキ達が作ろうとしている魔剣とさして変わらない。


 アルーフはクロの手を引き寄せる。理屈通りなら、アルーフの手で書き換えられた結界をクロも通る事ができるはずだ。

 足りない魔力を補うように周辺の魔素を手元にかき集めながらアルーフは結界に干渉していく。手袋越しに魔力同士の反発によって火花が散るのを感じていたが、力押しでこじ開ける。

 二人の身が沈んだ。ずるりと音を立てて卵からオタマジャクシが孵るように透明の膜を突き破る。無防備に落下した二人だが、足場までの距離はそう遠くはなかった。


「げほっ、ゲホッ!」


 水を飲んだクロが四つん這いになって咽せる。その横ではアルーフが地面に転がったままだった。

 手足に痺れが走り、身体が鉛になったのではないかと錯覚するほどに重い。元々不足していた魔力が急速に消費されたのだ。当然の結果だった。

 領域に力の大半を置いていった時と似た虚脱感。通常は魔力が空になったところで式術や魔術を使えなくなるだけだ。しかしアルーフやアリアのように魔力で固められた身体ではそうはいかない。


 ソウキに移された魔力は戻してもらうべきだった。アルーフは嘆息した。後悔したところで今の状態ではどうしようもない。諦めてアルーフは周囲の魔素を取り込み始めた。空気が揺らぎ、ごく淡く光が立ち上る。

 乾いた砂に水が吸われるように魔素が体内へと吸収されていく。


 いつも通りのはずだった。指先に生じた痛みが異常を知らせる。

 これほどまでに魔力が足りない状態でなら過剰摂取など起きようがないだろうとアルーフは高を括っていたが、魔素が雪崩れ込んで来る気配がした。慌てて遮断するも、魔力暴走を起こした時のような痛みが全身に走る。


「あぐっ……!」

「おいどうした、怪我でもしたか!?」

「だい、じょぶ」


 痛みは一瞬で治まった。派手に暴走を起こす程ではなかったということか。

 胸の奥につっかえを感じながらもアルーフは立ち上がった。スイコの言う、相性が良すぎるとはこういうことかと身を以て思い知った気がしていた。だがそれも過ぎ去ると、魔素が魔力に変換されていくにつれて、血が巡るような心地がアルーフを満たしていく。


 ようやくはっきりしてきた頭でアルーフは周囲を見渡せば、目の前には広々とした地下空間が広がっていた。

 周囲を囲む壁こそ天然の岩肌だが、複雑に入り組んだ空中路は幾何学的な文様を描きながら中央の祭壇らしき箇所に繋がっている。人工物であることは明らかだ。残念ながら、経年劣化によるものか、いたる所が苔むし、通路も半ばで折れている物がほとんどであった。


 聞き耳を立てても、魔物の足音や吠え声などは聞こえない。人の気配も無く、ひとまず今すぐ何かに襲われる心配は必要なさそうだった。


「少しだけ休んだら出口を探そう」


 人工物であれば出口はあるはずだ。風化して塞がっている可能性もあるが、いくつも伸びる通路の形状からして、出口も何カ所かあると期待して良いだろう。


「我は構わぬが、本当に大事ないか? 配下の者を下敷きにした上、負傷させたままとあってはマステロル族の名が廃るのじゃ」

「配下になった覚えはないんだけど……」

「ふっ。氏族を持たぬ下級魔族を庇護するは我ら上級魔族の務めであるが故な!」

「ああうん。頼りにしてるよ」


 胸を張るクロを尻目に、アルーフは小型の羅針儀を確認する。太く通っている空中路の一端は街の方角へと伸びているようだった。精霊か何かを祀る祭殿のようなものあれば参拝者もいただろうし、街のどこかに繋がっていてもおかしくはない。望みをかけてそちらの通路を辿るのは悪くない手だ。

 祭殿自体が年代物であることを考慮すれば、廃棄市街に繋がっている通路がある可能性の方が高い。しかし魔物が棲んでいるという前情報からして、戦力的に不安のある状態で踏み込むのは得策ではないだろう。


 アルーフは大雑把に頭の中で計画を立てつつ、水浸しになった外套を絞る。


「さて首領殿。さっそく手をお貸し願おうかな」

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