第6話 夢うつつ

 アルーフが目を開けると、そこは見覚えのある何も無い空間だった。風も無く、音も無い。群衆の人いきれは幻のように消えていた。


「ずいぶんとお寝坊さんでしたね」


 何も無いはずの領域にゆったりとした涼やかな声が響く。

 長く白い髪に囲われたアルーフの視界の中に映るのは覗き込んでくる翡翠色の瞳。長い睫毛に覆われた目は細められ、小さな口元が弧を描く。頭の下には柔らかな感触があった。


「……来てたの」

「ずっと前から来てましたよ」

「起こしてくれればよかったのに」


 ゆっくりと身を起こして伸びを一つ。アルーフにのっていた薄布が滑り落ちていく。彼女が身に纏っていた幅広の衣の一部だ。

 前に女神が──アリアが来たのはいつの事だったか。

 アルーフは記憶を辿る。一日のほとんどを寝て過ごしていたせいで、アルーフの時間感覚はすっかり無くなっていた。冬眠中の熊みたいにしてずーっと微睡みと覚醒の繰り返しの中にいた数千年間と比べればだいぶマシだが。


 アリアが勇者と呼ばれる者と共に旅を始めてからは、領域へは比較的頻繁に来ていたはずだった。ほぼ毎日と言っても差し支えない。

 外界で活動できる肉体を捨てた代わりに、距離が離れていても意識体を移動させられるのは女神ならではの所業だ。世界の端から端まで歩いたところで十日程度の道行きだが、こうして頻繁に顔を合わせるのに便利であることには違いなかった。


 領域に来るのは近況の報告のためだ。報告といっても、機関のように公的な記録を残すでもない。実態としては、学舎に行ってきた子供が親に「今日はこんなことがあった」なんて事を話すのに近い。


 話の内容は主に、巡ってきた土地の様子や旅する仲間のことだった。

 アリアは新しい地を見ることができて嬉しいようで、喋っている間の表情は明るい。仲間にも恵まれたのだろう。皆の食事風景から武器の手入れをする様子までもを事細かに語っていた。

 つい昨日もそうだ。新しい土地に移動したり、なにかトラブルがあったりしない限り似たような話が続く。それでも、漂白された空間に彩りが与えられる貴重な時間だった。時間が許す限り話の続きを強請るのが癖になる程度にはアルーフもその時間を楽しんでいた。


 そのうちに、「いつか一緒に見に行きましょう」とか「きっとアルーフならみんなとも仲良くできますよ」なんて、まるでこの先があるかのように言葉が交わされるようになっていた。

 ごっこ遊びみたいなものだ。楽しげに語るアリアの姿を眺めながらそんな景色を思い浮かべる。それだけで十分楽しめるのだから安いものだ。


 それなのに今日は領域に来ても、アリアはずっとぼんやりとしている。

 アルーフからは顔の隠れた右側しか見えず、表情は窺いづらい。仲間と喧嘩でもしたのだろうかと気になって、アルーフはアリアの肩を叩いた。


「どうかした? なにかあったのか?」

「あ、いえ……旅は順調ですよ。最後の塔もちゃんと閉じられましたから。あとはもう……」


 アリアは自身の腕に指を食い込ませた。眉根もきつく寄せられる。悲壮な顔などあまりさせたいものではない。アルーフはアリアの顔に両手を伸ばし、頭を包むようにして眉間のシワを添えた親指で伸ばした。


「なにするんです」


 強制的に表情を変えられたアリアは口を尖らせる。幾重にも布が襞を作る荘厳な衣服と釣り合わないその表情の方が似合っているとアルーフは思った。


 同じ碧混じりの目の色をしたアルーフと目が合えば、アリアは手をすり抜けて肩口に額をのせた。先の尖った長い耳がアルーフの首筋をすべる。

 アリアはそのまま喋らない。アルーフは続きを促すでもなく、猫がするように頭をすり寄せていた。

 しばらくそうしているうちに、肩口に熱いような濡れたような感触が広がる。


 勇者を伴った旅の終わりの意味はアルーフにもわかる。勇者が魔王を倒してハッピーエンドという筋書きを用意したのは他ならぬ自分なのだから。

 アルーフは背中に回した腕に力を込めた。


「ごめん」


 酷な事を頼む。その自覚はアルーフにもあった。

 竜に喰われてしまった活力を大地に行き渡らせるには〝導きの女神様〟の力が必要だ。勇者がトドメを刺すその瞬間には立ち会う必要がある。


「今からでも、なにか、他の方法を……」

 アリアの声は震えていた。

「それは駄目」


 アルーフはアリアの両肩を掴み、引き剥がす。勢いで目尻から涙の粒が飛んだ。


「そもそも俺が余計なことを言わなければこんなことにはならなかった。余計な欲を出すのは……」

「大切な人に生きていて欲しいと願うのは余計なことですか」

「余計だよ」


 間髪入れないアルーフの答え。再びアリアの眉間近くに力が込められる。


 アルーフは下を向いた。

 逆の立場だったなら、自分だって土壇場で足掻きたくもなるだろう事を痛感していた。それだけ外の状況が変わっていれば、もしかして、という気持ちが芽生えるのも理解できた。


──自分という存在を記憶を消す事ができたら。

 アルーフは考えずにはいられなかった。苦しい思いをさせたくはない。だからといって、じゃあ一緒に、というわけにもいかない。

 だがそれも一瞬のことでアルーフは思い直した。存在そのものを忘れられてしまったら勇者がここに来ることもない。


「俺は十分すぎるほど生きた。もうさっさと死にたいくらいなんだから、それ以上は余計なんだよ」

「ただ存在していただけの年月を生きたと言わないでください!」


 当然の激昂だった。半ば予期していたアリアの怒りを前にしてアルーフが大きな反応を見せることは無かった。代わりにほんの少しだけ肩を落とし、小さく息を吐く。

 実際、アルーフの生きた感覚としては二十年ちょっとというところだった。心残りは無いかと聞かれたら滅茶苦茶あるに決まっている。


 アリアの語っていた美しい景色だって見たいし、勇者達とも話をしてみたい。かつて故郷だった場所に帰りたい。

 そんな些細なようでいて些細ではない願いを挙げたらキリが無かった。

 だがそれでも、なんてこと無い願望がどんな危険を呼び込むかわからない以上、アルーフはそれに手を伸ばそうという気にはならなかった。前科がある。


 ならばそんな願望は悟られないでいた方が良い。死んで当然だとでもいうような状況なら尚良い。

 浮かぶ選択肢の中で、アルーフにとってはそれがまだマシなもののように思えていた。


「迷惑だ。今までのことなんて全部演技なのに、なんでそこまで入れ込むんだか」

「もう少しマシな嘘はつけないんですか」


 アリアの声は平坦だった。

 焦りを繕うように、アルーフは不遜げに顎を上げて嗤う。


「嘘だと言い切れるなんてよっぽど自信家なんだな」

「嘘つく時の癖、気付いてないんですね」

「えっ」


 しまった。と思ったときにはもう遅い。

 思い切り白い目で見られている。アリアの涙はとっくに引いていた。

 アルーフは黙り込んだ。意図的に突き放そうとしても必要な語彙が揃っておらず、バカとかアホとか、そんな幼稚な罵倒しか出てこない。

 そもそも、ただの罵倒なら普通に喧嘩になるだけだ。それでは意味が無い。いつか来ることはわかっていたのだから、前々から対策をしておけば良かったと、詮無い事がアルーフの頭を過る。


「はぁ……俺がいなくなったところでアリアは困らないはずだ。勇者達っていう仲間も出来たんだし、そこでうまいこと──っ!」


 パンッ、と音がよく響く。飛んだのは平手だった。

 容赦ない一撃を正面から受けたアルーフの頬は赤く腫れ上がる。はたかれた勢いで顔は横を向いていた。視界の端に映るアリアの目に揺らぎは無かった。


「もう、いいですから」


 決意とも決別ともとれる芯のある声色で言葉が置かれる。アリアの姿は霞と消えていった。アルーフは再び一人取り残され、いまだ熱の残る頬に手を添える。


──これで良かったんだろうか。


 呆れられていたのは確実だろうが、完全に愛想を尽かして全部投げ出されたら元も子もない。駆け引きの類いに自信は無かった。

 時を戻すすべなど無いが、もっと良い方法があったのではないかと、どうすることもできない思考がぐるぐると結論が出でもなくアルーフの頭の中で回り続ける。


 冷静さが戻りつつある中でアルーフは膝を抱えた。耳は当然のように折れている。


 個人の好き嫌いでどうこうして良いような状況でもないということはアリアも頭では理解しているはずだ。勇者をここまで連れてくる役割は担ってくれる。

 思案を力尽くに断ち切ってアルーフは再び眠ってしまうことにした。


 次に目が覚めるのは勇者が来るときだろう。きっと、その時まで何も考えずに済む。

 ただ、死んだ時に誰も悲しんでくれないかもしれないというのは寂しいものだなという思いは、胸の中で澱を作った。

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