予報外れ
白と黒のパーカー
第1話 予報外れ
外から雨の降る音が聞こえる。
ああそうか、「予報外れ」だっけ。
私は今机の上にあるたくさんの書類と格闘している最中で、いつもはこちらのことなど知らんぷりの猫は構ってくれと足をタシタシと叩いてくる。
許されるのならばもうどうにでもなれとすべてを投げ出してベッドに倒れこみ、猫を狂ったように弄ってやりたい。
家の軒先から滴る雨がコンクリート打ちされた地面をたたく音が聞こえる。
外に出る用事があるときに聞くそれは殺意の餌食にしてやろうかと思うものだが、不思議なものでこう自分が発狂する一歩手前まで追い詰められているときには心地の良い子守唄へと早変わりする。
うつらうつらと微睡んでいると不意をついた電子音が甲高く鼓膜を揺らす。
決めた。この電話をかけてきた相手が誰であろうと必ず殺す。
腹の中で煮えくり返る腸を外の雨音で冷やしながら、殺しきれない怒りに打ち震える手で緑のマークをスライドする。
げ、嫌いなやつだ。居眠り後に聞きたくない声ランキング堂々の一位の雨村である。
ブクブクと太った豚のような外見に違わず、脂ぎった声でギトギトと話しかけてくるあの雨村である。
次に会うときはチャーシューにしてやると叫び、右の手にもつカバーすらつけていない無機質な利器を握りつぶしたい所だが、すんでのところで我に返る。
先ほどより少し和らいだように感じる水の撥ね音は荒んだこころを潤す。
機械のように丁寧な受け答えを心掛けた電子音同士での会話はやはり慣れない。
私は現代っ子なんだ勘弁してくれ。
ともすれば漠然とした抑圧に耐え切れずつぶれそうになる。別にそれは悪いことではないのかもしれないが今の時代そんな甘い考えでは物の数秒で淘汰されてしまうだろう。
絶え間のない思考の海に一人取り残されそうになったところで、再び猫の遊べコールに引き戻される。
にゃーにゃーと意味の通じることのない未知の言語でこちらに語り掛けながら必死に机の上で走り回っている。
ちなみにその運動場は私の精魂込めてまとめ上げた書類でできている。
保護者である私はビデオカメラで猫の雄姿でも撮っていれば許されるだろうか。いや、許されないだろう。
ガクリと肩を落とす私の頭にポンと何かが乗るのを感じる。
何のことはない、猫の手である。
不意に立ち止まり、そして無造作に立ち上がり、とても優しく肉球のついた掌で私を撫でり撫でり。
鼻の奥がツンとする。これは別にわさびを食べたわけではないが、とにかくツンとして目の前がおぼろげになる。
外からはしとしとと聞く者の心を無条件で落ち着ける優しい雨の音が聞こえる。
たまには晴れ以外も悪くないかもしれない。
頭をなでるのに飽きたのか疲れたのか、猫は私のベッドで静かに寝息を立て始めた。
時計を眺めると午前四時。空はいよいよ白んできている。
久しぶり朝の散歩でも行こうかと考え立つ。
思えば昔は毎日のように夜更かししては、朝の散歩に出かけていた。
いつ頃からだろうか。明日は早いからと二十二時頃には寝て、綺麗な朝焼けを見る暇もなく家をでる。そんなつまらない日常を送り始めたのは。
つまらない世界と引き換えに私は日常を手に入れた。日常は大事だ。
しっかりと眠るところがあり、着る服があって食べるものがある。どこから見ても非の打ちどころのない日常に満ち満ちている。
でもそれは本当に幸せなのだろうか。ただ生きるという目的を掲げるのならば勿論それは幸せ以外の何物でもないことだろう。
でも、今の自分の目標はただ生きることなのだろうか。
違う、とも思いきっては言えない。それはたぶん私が大人になったからで、現実の厳しさをそれなりに味わった今だからこそ大事にしなければならない大切な欠片だと思う。
それを噛み締めたうえで、私はそこから脱却する手札も持っていることに気づく時なのではないだろうか。
今まで通り、社会の歯車として折り目正しく生きていくのか。
自分の心に従って歯車を断ち切るのか。
きっとそのどちらも間違いじゃないと思う。今正しいと感じる選択をすることがどうしてこれからの不正解になりえるだろうか。
そんなことはあり得ない。見渡せばほかに幾筋でも光は見えるだろう。
その光が必ずしも自分を救い上げる希望の光ではないとしても、何かの足掛かりにはなるかもしれない。
怯えず、まずは一歩だけでも前に進んでみることが今の私には重要なのだと思う。
そこには沢山の「予報外れ」が潜んでいたとしても。あるいはそれも悪くはないのかもしれない。
なんて小難しいことを考えてみても、今の矮小な私自身にできる唯一の世界への抵抗手段なんて限られている。
まずは朝のお散歩に出かけることだ。
長考の間に身支度は整えた。
トイレに飾って毎朝すがるように眺めていた名言集カレンダーは破ってごみ箱に突っ込んでやった。
名言なんてのは自分の好きなように解釈すればよくて、誰かが意訳した文章をまるで天啓かのようにあがめる必要なんてない。
たとえ自分以外の人間がその捉え方は違っていると断じても、心が否定していなければその解釈を貫き通せばよいのだ。
他人の名言を自分ルールで塗り替えてやるのだ。
本人からしたら解せないだろうが、そこはそれもっと我儘に傍若無人になって無視すればいい。
どうせ昔の偉人たちだってそれを名言にしてやろうと思って口に出したわけじゃない言葉の一つに過ぎないのだから。
さて、服も着替えた、鞄も持った。今、靴も履き終えた。
あとは猫を起こさないようにそっと玄関の扉を開くだけだ。
そろりそろりと抜き足差し足忍び足でガチャリと外に出る。
ピイピイと騒がしく朝を告げる鳥の鳴き声は雨を避けるために軒下から聞こえてくる。
我が家の傘は役に立っているかいと声をかけてみるが、表立った反応はない。まあ、当たり前か。
気を取り直して未だ降り続ける「予報外れ」の切れ間から朝日の神々しい光が幾筋か差し込んでくる。
まるで私のささやかな反抗心を見透かしているかのようで少しドキリとするが、ええいままよと傘もささずに一歩前へ歩き出す。
頭と肩をぴとぴとと濡らす雫は心地よく、冷たさを感じる次の瞬間には差し込む日光がポカポカと湿り気を吸い取っていく。
久しぶりの朝の散歩はどうやら私を受け入れてくれるようだ。
行く先はこちらだと言うように日光は照らす場所を変えると、それに続いて鳥たちも歌いだす。
プリンセスにでもなったかのような錯覚を起こすが、ここはメルヘンじゃない。しっかりと自分の意志で地に足をつけたままズンズンと進んでいかなければ蹴落とされる人生である。
例え行きはよいよいでも帰りは恐いものなのだ。相変わらずの詰まらない感性に踊らされていると自覚はしているが、私は反抗はしても愚行は起こさないのだ。
慎重に慎重を重ねて石橋をたたき割ったその瓦礫で川の水をせき止めてから渡る主義である私に死角はない。
こんな意気で本当に気がまぎれるのかと先が思いやられるものだが、一先ずは煌めかしい未来を思って進んでいこうと思う。
水たまりに映る私の顔はどこか安らかな顔に満ちていた。
「予報外れ」の雨はまだやまない
予報外れ 白と黒のパーカー @shirokuro87
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