たんぽぽ
冷たくなった両手に息を吹きかける。外はすっかり寒くなってきた。温かいミルクティーでも買おうかと思ったけど、自販機の前で立ち止まるのも憚られるくらいの人波だ。
朝の通勤ラッシュは混雑を極める。地下鉄の階段を上ると、新鮮な空気に思わず頬が緩む。ぼくは冬がはじまる匂いが好きだ。どことなく、優しい匂いがする。
オフィスビルが立ち並ぶ通りは風が強く、前を歩く人はすでにマフラーを巻いている。昔、十五歳の誕生日におばあちゃんがマフラーをくれたことがあった。それも手編みの派手な花柄マフラーで、思春期だったぼくはそれが嫌で仕方がなかった。もちろん、一度も巻くことなく机の引き出しに締まったまま。もう五年も前の話だ。結局、ぼくはおばあちゃんにマフラー姿を見せてやることができなかった。これから先もずっと。
募金を呼び掛けている人たちの前を、大勢の人々が通り過ぎていく。誰も足を止めないのは急いでいるからなのだろうか。募金詐欺なんて話しもよく聞くし、募金箱を抱えた人たちは白装束でどことなく宗教色も強めだ。それでも、ぼくはポケットの小銭を全て募金箱に入れた。
「おおきに」
募金箱を抱えたおじさんが無表情で呟く。偽善とかそんなんじゃない。たとえ騙されていたとしても、このお金が世界のどこかで誰かの助けになるかもしれないならそれでよかった。
小さなカフェに入ると、小柄なマスターが笑顔で会釈をしてくれた。カフェオレを頼み、窓際の席に腰を下ろす。ここがぼくの特等席だ。まだ通勤時間とあって店内の客は少なく、コーヒーの匂いだけが室内に充満している。店内は今風の装飾だけど、流れている音楽がジャズで心地がいい。
ガラス張りの店内からは外の通りが見渡せる。向かいのビルに吸い込まれていくサラリーマンたちを見送りながら、ポケットから文庫本を取り出す。アイルランドの小説家の自伝だ。昨日この場所で読んだばかりで、続きもすんなり入ってくるはずだ。
「どうぞ、お熱いうちに」
マスターがコーヒーを持ってきてくれて、小さく頭を下げる。一口飲んでから、ぼくはゆっくりと栞を引き抜いた。
足元に暖かな感触を感じて目を覚ました。どうやら寝てしまったらしい。昨日は夜遅くまで外で立ちっぱなしだったし、連日の疲れが溜まっているのかもしれない。
足元を見るとチワワがぼくの足に身体を擦り合わせていた。カフェの看板犬だ。どうして動物はこんなにも可愛いのだろうか。犬も猫も、あんなに愛おしく思えるのはどうしてだろう。多分、言葉を発しないことで感情が伝わりにくいからだと思う。人間が自己都合で物事を解釈するといういい例かもしれない。
飲みかけのコーヒーはすっかり冷めている。どのくらい寝ていたのだろうか。日が暮れ始めて焦りを感じるも、向かいのビルから人波は流れて来ない。ほっとしたのも束の間、ビルの出入り口からスーツ姿の人々が溢れ出てくる。店内の時計を見ると、終業時刻を過ぎていた。ぼくはお釣りがいらぬようコーヒー代を用意し、窓の外を伺った。嫌でも目立つ、ブランド物の赤いマフラー。出てきた、あの女だ。
ぼくはチワワを足で払い除け、急いで会計を済ませカフェを後にした。
適当な距離を保ち、女に歩幅を合わせる。誰に教わったわけでもない、映画やドラマから得た知識だ。もうすっかり慣れたもので、気づかれる心配もないだろう。
赤いマフラーの女は二十七歳で大手出版社で受付をしている。仕事の後はまっすぐ家に帰ることは少なく、男と会うことが多い。この十日間、女友達や同僚と過ごすところを見たことはなかった。休日もやはり男と会っているようだ。特定の男ではなく、不特定多数の男と会食していることから、マッチングアプリか婚活サイトを利用してるんじゃないだろうか。買い物もブランド店ばかりを利用していて、もしかするとパトロンのおじさまがいるのかもしれない。笹塚の5階建てのマンションの角部屋に住んでいて、ゴミ出しのマナーは悪く、分別もされていなければ曜日も守らない。煙草をポイ捨てする現場も何度か目撃している。
女は電車に乗って赤坂までやって来た。タクシーを使わないのは意外だった。「前の車を追ってください」って言うの、あれ好きなんだけどな。
今日も女は男と会うようだった。ホテルのロビーで男と合流するところまでは把握できたが、そこからエレベーターに乗ってしまい尾行は断念。おそらく部屋に行ったわけではなく、上階の高級レストランで食事なのだろう。ガードが堅いというわけではなく、男を見定めているのだと思う。それが許されるだけの容姿を彼女は備えていた。
食事の後に部屋にでも行かれたら面倒だなと思った。二日続けて外で待ち続けるのはさすがに骨が折れる。高級ホテルのロビーでは、ぼくのような格好は嫌でも目立つからだ。
ぼくはまず、相手の生活を観察することから始める。対象者は些細なきっかけで選ぶことが多い。肩をぶつけて謝らない人、コンビニの店員さんに横柄な態度を取る人。女は満員電車で自分のバッグを隣に置いて座っていた。
この十日間で女の人間性はよくわかった。あの女はわるい人間だ。
女はホテルから一人で出てきた。ああいう高級レストランはコース料理でそれなりに時間はかかるだろうに、女は一時間足らずで姿を現した。
パーカーのフードを被り後を尾ける。大通りを曲がり狭い路地に入ってくれたことは好都合だった。ひと気もなく薄暗い。ふいに女が立ち止まり、その場にしゃがみ込んでぼくは足を止めた。弱々しい猫の鳴き声がする。おそらく仔猫に遭遇したのだろう。
中学生の時、下校途中に仔猫を拾ったことがある。飼うことができないと両親に咎められ、ぼくは仔猫を抱えたまま近所の野池に立ち寄った。林の中の方が、仔猫一匹でも生きていけるような気がしたからだ。同時に、こんなに愛らしい生き物を池に投げ捨てたらどうなるだろうという思いに駆られた。想像した瞬間に鳥肌が立った。ダメだと自分に言い聞かせる程、衝動は大きく膨れ上がった。気づくと、ぼくは仔猫を池に放っていた。そして、仔猫がもがき苦しむところをじっと眺め続けた。やがて水面の波紋が消え、ぼくはようやく自分が射精していることに気づいた。
パーカーのポケットから特殊警棒を取り出し、ゆっくりと近づく。仔猫が逃げていくと同時に、しゃがみ込んだ女の後頭部めがけて警棒を振り下ろした。鈍い音がして、女は悲鳴もなく倒れ込む。身体がピクピクと痙攣している。ぼくはそれに構わず何度も警棒を振り下ろした。くぐもった短い悲鳴が、殴打する度に聞こえてくる。それをしっかりと耳に感じとめながら、ぼくはおばあちゃんの編んでくれたマフラーのことを考えていた。ずっと何の花がデザインされていたのか忘れていたけど、女の頭を叩き割りながらようやく思い出した。たんぽぽだ。マフラーには季節外れの黄色いたんぽぽが編まれていた。
やがて、女は全く動かなくなった。脳漿が散乱する血だまりの中で、喉の奥で空気がヒューヒュー鳴っているだけの人形みたいだった。ぼくは顔に浴びた返り血を拭いながら、実家に帰っておばあちゃんから貰ったマフラーを持って帰ろうと思った。
短く切って、お気に入りの花瓶の敷物にしよう。窓際に置いて、綺麗な花を飾るんだ。
誰も知らない世界で勝手に死んでくれ 侘助 @wabisukebe
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