さよならコンクリート

 ハンドルに赤い風船を括り付けたベビーカーを押しながら、女が通りを歩いている。どこからか安っぽいJ-POPのクリスマスソングが流れてきて、遠目に巨大なクリスマスツリーが見える。11月に入ったばかりだというのに、いつだって世間は速足だ。あわてんぼうのサンタクロースだって、まだソリを納屋にしまったままだろうに。

 眼下の景色はいつもと変わらない。それなのに頭上の空は憎らしいほど澄みきっている。こんな時は、「なんで空は青いのだろう?」「あの鳥のように空を自由に飛べたら」などと、寒気がするようなモノローグで映画や小説の主人公になりきって事を済ませるのがいいのかもしれない。だが、現実はドス黒い絶望が腹の底でとぐろを巻いているだけだ。

 ベビーカーに乗った赤ん坊が風船に触れようと手を伸ばす。それに応えようと、母親がハンドルから風船の紐を解こうとする。手元が狂ったのか、母親は誤って風船を宙に投げ出してしまった。ゆらゆらと赤い風船が舞い上がり、それを目で追う母親と赤ん坊。やがて、ビルの屋上で佇んでいる俺と目が合った。母親はなにかを悟ったのかそっと目を逸らした。ただ、赤ん坊だけがじっと俺を見ている。

 幸せそうな親子と、青い空に暖かな日差し。今日は絶好の、自殺日和だ。


 俺は三年前に死ぬはずだった。ジミもカートもジャニスも、二十七で死んだ。ロックスターは二十七歳で死ぬという俗説を信じてた頃が懐かしい。バカな俺は自分もロックスターになれると思っていた。

 中二の時にピストルズに出会ってから、俺の世界は反転した。アイドルソングを聴かなくなり、ゴマキのポスターがいつしかシド・ヴィシャスに変わった。ギターを買ってからバンドを組むまで、そう時間はかからなかった。初めてのライブは今でも鮮明に憶えている。緊張と興奮で初めて体が震えた。全員が下手すぎてライブは散々だったが、対バンしたバンドの女ボーカルが「パンクじゃん」と言ってくれたのが最高に嬉しかった。女はピアスとタトゥーだらけの坊主頭で、革ジャンにエンジニアのブーツを履いていた。彼女に勧められて、俺は初めて煙草を吸った。あの時のマルボロの味は、今でも舌の裏側に張り付いたままだ。


 俺は胸ポケットからマルボロを取り出し、それに火を点けた。煙を深く吸い込み、ゆっくりと吐き出す。三年ぶりの煙草に頭がクラクラした。このまま落ちれば楽に死ねるかもしれない。だが、吸い終わるまでは生きていなきゃいけない気がした。煙草の火が消えるまでが、己の人生を振り返る時間なのだと思った。大した人生じゃないし、悔いだって山ほどある。それでも、納得してこの世界とオサラバしたかった。


 大学進学を望んでいた両親を振り切り、俺は高校を卒業してすぐに上京した。夜行バスで8時間以上。所持金はたった3000円だった。ギターを担いで新宿駅に迷い込んだ時は、パニックになると同時に胸が高鳴った。

 しばらくは友達のアパートに泊めてもらった。すぐにコールセンターのアルバイトを決め、そこで知り合った女の所に転がり込んだ。ハナから自分で住居を借りるつもりはなく、住まわせてくれる女を見つけるつもりだった。彼女は四つ年上で、就職に失敗してコールセンターのバイトを始めたらしかった。見た目は地味だったが、控えめで料理上手な女だった。

 抜けない方言や客と口論になったりで、俺はすぐにバイトをクビになった。それでも、彼女は俺を住まわせてくれた。付き合っていなかったが、彼女は俺を愛してくれているようだった。だから、なるべく彼女を傷つけないよう優しい男であり続けた。

 やがて彼女がコールセンターの正社員になり、金銭的な面は全て彼女頼りになった。金を恵んでもらっては、パチンコやライブハウスに通ったり飲み歩いたりした。

 バンドはメンバーを変えながらも精力的に活動していた。東京でメンバーを探すことは簡単だった。スタジオの張り紙やSNSを使えば、同じ嗜好を持ったミュージシャンはすぐに集まる。スタジオでの練習の合間に、彼女の作ってくれた弁当を食べるのが俺の日課だった。

 そんな生活が二年近く続いたある日、彼女から突然別れを切り出された。他に好きな男が出来たらしい。俺は傷つきも悲しみもしなかった。別れを告げた彼女は泣いていた。「せめて、悲しむフリぐらいしてよ」、それが彼女の最後の言葉だった。

 それからは、ファンや飲み屋の女の家に住み着いたりと、似たようなことを繰り返した。バンドはメジャーどころかインディーズレーベルにさえまともに相手にされず、なんとか自費制作のCDを売るのが関の山だった。そんな生活が七年近く続いた。その間にメンバーは何度も入れ替わった。就職する者、結婚する者、実家に帰って家業を継ぐ者。俺だけが諦めきれず夢を追い続けた。最後まで付き合ってくれたギターも、「ヒモのお前にはわからねぇよ」と捨て台詞を吐いて建設会社に就職した。気がつくと、俺は一人になっていた。

 メンバーを失った俺は高円寺のライブハウスにいた。若手で勢いのあるバンドが出演すると聞いて立ち寄ってみた。あわよくば引き抜けないかとも考えていた。また一からやり直せばいい、そう思っていた。チケットはソールドアウトだったが、馴染みのスタッフがこっそり入れてくれた。若手のバンドは、演奏も楽曲のクオリティも文句のつけようがなかった。それも、まだ全員十代だという。俺はその時、初めて自分に才能が無いのだとわかった。幸か不幸か、これまでそんなバンドを目の当たりにしたことが無かった。天才はいつも画面の向こう側にいたはずだった。自然と涙がこぼれてきた。挫折と後悔で泣いてたわけじゃない。純粋に彼らの鳴らす曲とパフォーマンスに打ちのめされていたのだ。

「ねぇねぇ」

 耳元でそう言われ、我に返った。隣にいたのは一人の女だった。女は演奏のボリュームに負けない大声で話しかけてきた。

「ねぇ、なんで泣いてるの? 全然泣ける曲じゃないのに」

 彼女は俺の返答を待たず、「変なの」と笑った。

 それが、園子との出会いだった。


 短くなった煙草を指で弾くと同時に、ケータイが鳴った。前に仕事で知り合った女子高生からだった。俺に気があるのか揶揄っているのか、彼女はことあるごとに連絡してくる。悪い子ではないのだが、奔放で無垢な分危うさも孕んでるような子だった。彼女たちの記事は、俺のキャリアの中でもかなり大きな仕事となった。まさか、自分がフリーランスで仕事をするようになるなんて、当時の俺は思いもしなかっただろう。


 園子と出会ってから、俺はバンド活動の一切をやめた。奇しくも二十七歳だった。しばらくして、元ベースの紹介で小さな出版社に就職した。サブカル雑誌を謳っていたが、フタを開けてみれば風俗雑誌だった。仕事が決まり、初めて自分でアパートを借りた。夢を諦めた理由は、圧倒的な才能を目の当たりにしたことと、なにより園子に出会ったことが大きかった。

 あの日、ライブが終わって俺たちは連絡先を交換した。園子は彼氏にフラれたばかりで、気分を紛らわせようとライブハウスに立ち寄ったらしい。当日券はラスト一枚だったらしく、「もしかすると、神様が私たちを引き合わせてくれたのかもね」などと平気で口にするような女だった。俺より三つ年下で、いわゆるサブカル系の雰囲気をまとった女だった。大手自動車会社の受付をしているらしく、どことなく受け答えに上品さが垣間見えた。かなりの美人で愛嬌もあり、どこか包み込むような優しさを感じさせる女で、年下と聞いた時は本当に驚いた。

 ほどなくして、俺たちは付き合うことになった。特に趣味嗜好が合うわけでも性格が合うわけでもなかったが、単純に俺が惚れてしまっていた。まじめに仕事を始めたのも園子の影響が大きかった。煙草もやめた。けれど、園子はそんな俺に不満を持っているようだった。

「背伸びしてるの、似合わないよ。自然体でいればいいのに」

「弱い自分をさらけだすことが、カッコ悪いとか思ってるんでしょ? 可愛い人」

「私の隣で笑ってくれてれば、それでいいよ」

 全て園子なりの優しさだったんだと思う。子供みたいな俺を全て肯定してくれた。傷つき憔悴していれば頭を撫でてくれたし、セックスにおいても主導権を握って俺を優しく愛撫してくれた。

 気づくと俺は心底彼女に惚れていた。働いては週に一度デートをする。そんなありふれた生活が、これほどまで充実していて幸せなものだとは思わなかった。

 付き合って一年半が経ち、俺はフリーのライターになった。主に少年少女の犯罪やカルチャーを取り扱い、雑誌のWeb媒体に寄稿していた。元々文章を書くのは得意だったし、足しげく取材を重ねたことが功を奏してか、それなりに満足できる生活基盤を築けていた。

 結婚を考えるようになり、同棲できるようマンションに引っ越した。あとは園子を迎え入れるだけだった。だが、彼女は突然姿を消した。もちろん連絡も取れなくなった。アパートも引き払っていたし、仕事も退職しているようだった。本当に、ある日突然この世界から姿を消したのだ。

 なぜ園子が俺の元を去ってしまったのか。その理由はどうでもよかった。彼女がいなくなった事実だけが、俺を絶望に追いやった。散々女を振り回してきた自分がこんな目に合うなんて、説教臭い昔話のようだった。

 仕事も手につかず、廃人に近い生活を送っていた。噂を聞いた友人が飲みに誘ってくれたりしたが、もちろんすべて断った。酒の席で笑い話にできるほど、俺の精神は頑丈に出来てはいなかった。


「ねぇ、聞いてる?」

 女子高生が電話の向こうで言った。

「なんだよ、俺は今忙しいんだ」

 適当に話を合わせながら、煙草に火を点ける。

 電話を切って初めて、二本目の煙草を吸っていることに気づいた。

 深呼吸をして決意を固める。俺にとって、園子は全てだった。俺を肯定してくれる唯一の人だった。

 ごめんよ母さん、ごめんよ親父。俺を生んで、育てくれてありがとう。

「さようなら」

 そう呟いた時だった。ふと、向かいの部屋の窓が目に入った。開け放しにされた窓に一人の女がいた。女は下着姿で、今まさにブラジャーのホックを外そうとしていた。時が止まったかのようだった。俺は憑りつかれたかのように、女が着替え終わるまでその様子を眺め続けた。

 煙草が燃え尽き、灰がぽつりと落ちてゆく。その時、俺は下腹部の異変に気付いた。勃起していたのだ。次の瞬間、腹の底から何かが這い上がってくるのがわかった。それが笑いの感情だと気づいた時には、もう笑っていた。俺は笑いを必死に噛み殺しながら後ずさり、コンクリートの上に背中から倒れ込んだ。

 空は青かった。太陽は眩しかった。鳥は美しい弧を描いて飛んで行った。笑いながら、涙が溢れてきた。今の俺を誰かに笑ってほしかった。無様だと、滑稽だと腹を抱えて笑ってほしいと思った。

 もうじき、雨が降るだろう。コンクリートには、雨と煙草の臭いが微かに混じっている。

 

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