第10話
結局、その日の午後に安積は早退したことを担任の教師が告げた。何でも一応整形外科に行って捻った足を診てくるのだという。
永原は姫沢の方に視線を送ると、心配そうな顔をした姫沢も同じことを永原にした。宮田たちの一味は教師がいる場であることを配慮しつつも、必死で笑いを堪えているようだった。
その日の六時限後の掃除時間中、永原が箒でごみを掃いていると、バッグを背負った姫沢が声を掛けた。
「永原、悪いけど今日は先に帰っててくれ」
姫沢は顔の前に右手を垂直に立て、それを小刻みに動かしている。
「ああ、構わんけど・・・どうかした?」
「ちょっと委員会の仕事があってな。遅くなりそうなんだ」
なるほど・・・得心のいった永原は頭を小さく縦に揺らした。
姫沢は図書委員会の副委員長を務めている。普段卓球王国か週間少年ジャンプくらいしか読まぬ姫沢だったので、図書委員会に入ると聞いたとき永原は腹を抱えて大笑いしたものだった。だが、仕事をぶん投げずにコツコツ地道に委員会に取り組み、結果としてNo.2にまで登り詰めるのだから頭が上がらない。永原はその点においても姫沢を密かに賞賛していた。
「なるほどね、今度定期総会あるもんな。大変だな」
「なあに、なんてことないよ」
「じゃあ、先に帰ってるよ」
「悪いが、そうしててくれ」
じゃあな、と去り際に告げると、姫沢は足早に教室から姿を消した。
掃除を終えると、永原は教科書類を放り込んだバッグを背負ってさっさと学校を出た。学校の外は、そろそろ夕暮れに入りつつあるところだった。杜山市の町を挟みその向こう側に低く連なる山々の少し上には、オレンジ色に変わりつつある太陽がぷっかりと浮かんでいる。とはいえ、昼間よりも随分と暑さは弱まったものの、決して快適と言える気候ではなかった。
昇降口と校門との間の短い舗装路を行くと、いつもの校門が見えた。校門の前後には数人の生徒たちが屯している。太陽の光が彼らの顔を照射して明るく見せたり、あるいは逆に背に光を背負ったことで顔を黒く塗りつぶされている者もいたりする。永原は一人、彼らの談笑を横目に見つつ校門を通り抜けた。
今日は卓球部はオフだった。永原たち卓球部を含め、ほとんどの部活動は他の部活動と活動場所を時間ごとにシェアしあっている。森部の部活動数と活動場所の数を照らし合わせて考えれば、活動ができない日が生まれるのはやむを得ずだった。大安高校との練習試合が控えているなか、この休みは少なからず痛手ではあった。どのスポーツでもそうだろうが、毎日ちょっとでも練習をするというのが大事だ。一日でもルーティンをしない日があれば、人間は驚くほど感覚というのを失ってしまう。例えば大安高校のように専用の卓球場があればこんなことせずに済むのだが、多くの部活動が公平に練習をするためには、仕方のないことだ。
長い坂をとぼとぼと降りてきた永原は、バス停にかなりの人数の学生が列を成しているのが見えた。うんざりしながらも列の最後尾に永原が並ぶと、間もなくバスがやってきてドアが開き、順番に車内へ入っていく。すると、そこは既に高密度に人間が押し込まれた鉄の箱に相なっていた。そのほとんどが森部の学生である。それだけではなく、蒸し暑いバスの中は、汗や制汗剤の匂いが混じりあい、濃度の高い不快な空気で充満していた。
最初は息をするのも苦しいと感じた永原だったが、バス停を一つずつ経由するごとに、バスの中の乗客は少しずつ減っていった。とりわけ、近辺の主要駅である森部駅に到着した途端、大勢の乗客が降車していった。先程までは通路上も立錘の余地もないほどの人で溢れかえっていたが、今はしっかりと通路の役目を果たせるほどの隙具合だ。
それと引き換えに、駅のバス停から乗り込んだ客も数人いた。ただ、その数は今しがた降車していった人数の数分の一程度であり、切符を手に取ったりバスカードを専用の機械へ挿入する人間の顔を、いちいち把握することができるくらいであった。
その中に、安積順平の姿を認めた。
今日は誰も周りにいない。いつもあまり賑やかな方ではない安積だが、今日も落ち着き払った様子でいる。だが、いつもの落ち着きは彼持ち前のクールさが起因するところが大きいが、今日の安積はどちらかといえば気分が沈んでいる、という歩合の方が大きいようであった。いつものクールな微笑みは無く、背中はどことなく猫背だ。宮田の悪趣味ながら賑々しさのある哄笑から突き離された安積は、まるで廃墟に足が生えて歩いているかのようだ。
彼は目を右左と動かして空いている席を探している。その途中、バスの中ほどの席に座っている永原と視線がぶつかった。だが、安積は一瞬目を見開いくやいなや、席探しを再開した。
それにつられるようにして永原も空いている席を探した。バスの乗客数はピークを去ったが、郊外の集落を細かくまわる路線なので、がらがらというほど空いてはいなかった。立っている乗客はいないが、席はほとんど埋まっている。人がいないのは、永原の前の席だけだった。
憐憫を感じたわけではない。だが、精神がへし折られているであろう安積を見て、永原の中にちょっとした優越感が芽吹いたのは事実だった。
「よぉ、安積」
「・・・よぉ」
安積は永原のような矮小なる男子生徒に親しげに声を掛けられることを良しと思っていないらしい。最低限の会釈をしながらも、目と目の間には縦皺が刻まれている。
安積はそのまま立っているつもりらしかったが、わずかながら歩き方が不自然に見えた。明らかに足を引きづっている歩き方だ。やはり宮田たちが盛大にと陰口を叩いていたのは本当のことらしい。
「どうだ安積。ここの席に座れよ」
「・・・別にいいよ」
「いや、大丈夫じゃないっしょ。めっちゃ怪我人じゃん」
「余計なお世話だよ・・・イッ・・・!」
クールを決め込んでいる安積だったが、やはり足の負傷は浅からずといった案配らしい。痛みを感じて小さく声を上げた。
「ほら、無理すんなよ」
永原は前方の座席の背もたれを小さく手で叩いた。
プライドと足の痛みとを安積は天秤に掛けた。しかし、最終的にはバツの悪そうな表情をして、しおらしく座席に腰を下ろした。
「勘違いすんなよ・・・別にお前に勧められたから座るわけじゃない。今は一刻も早く足を直さないといけないからな」
「別にいいよ。そんなことわざわざ言わないでも」
安積が憎まれ口を叩き終えるのとほぼ同時に、バスは森部駅前バス停を出発した。バスの中は鈍い加速感を伴ってガタゴトと揺れる。
「・・・なぁ安積」
「・・・」
安積は永原の呼びかけには答えず、代わりに腕を胸の前で組んで溜息を吐いた。
「最近どうだよ」
「・・・最近?」
「そうそう。例えば、バスケ部の方とか」
「・・・別に」
「そうか?ならいいんだが・・・」
取るに足らない会話の末尾にかぶさるように、バスのアナウンスが二人の遠いとも近いとも言えない距離を満たした。
永原は、沈黙の後に接続する言葉を飲み込むか吐き出すか悩んだ。だが、このままでいると色々なものがあふれでてしまいそうだった。
「この前は、宮田にぎゃんぎゃん吠えられてたみたいだな。大変だな」
前に座る男は、小さく頭を揺らす。
「・・・お前には関係ないことだ」
「いや、まぁそうなんだけどさ。俺もこの前似たようなことがあってさ。ボロクソに技術をこき下ろされて、いまもまだスランプ中でさ・・・部活って辛いよな」
自分でも不思議なくらい、永原は間の抜けた笑いを垂れ流しながら話をしていた。ただ永原は安積と心境を共有したかった。スポーツが違っていたとしても、不調の苦しみはきっと同じだから・・・永原はそう信じていた。
しかし、そんな永原の言葉を安積は鼻で笑った。
「・・・お前らの部活と一緒にするなよ」
冷たい言葉。
安積はさらに続ける。
「お前ら、県大会にも行けずによく平気でいられるな。そんな生半可な気持ちでだらだらと部活動やってる奴に分かった風な口を利いてほしくないし、あれこれ言われるのも癪だからやめて欲しい」
クールな安積らしく、ぶっきらぼうな言い方で永原たちを公然と批判した。
しかし、永原もいまの言葉でカチンと来た。
「へぇ・・・やっぱお前も宮田みたいなことを言うんだな。流石は宮田のコバンザメだぜ、ぶれないね」
「は?今なんて?」
永原の震えた声に反応し、安積は体を捻らせて後方にいる小さな男を睨み据えた。
その視線は想像以上に厳しく、蒸し暑いこの空間の中ですら凛と張りつめた冬の空気を想起させるものだった。
正直なところ永原少し怯んだ。だが、ここで食い下がるわけにはいかないし、何より永原自身腸が煮えくり返る感情が抑えられなかったので、煽り調子を続けることにした。
「あいつにも言われたよ。県大会に行けない部活動は努力が足りないし、ありえないんだってさ。まぁ宮田の腰巾着であるお前の発言としちゃあ百点満点だろうがな、俺からしちゃあ、そんなこと言われるとか心外だわ。なんでそんなこと他の部の奴から言われなきゃいけないんだ?」
その発言を聞いた安積は、呆れ果てたように冷たく笑った。
「お前馬鹿なの?がんばって練習しているのはどこも同じだよ。その練習の結果が試合での勝利だし、ひいては入賞や県大会出場だ。強さを対外的に見せつけてこその部活動だろうが。そこに帰結できない部活動に一体何の存在価値がある?そこでやる活動に何の意味がある?」
「へぇたまげたなぁ。それじゃあ、同じ内容を同じだけ練習しても勝ったら練習の賜物と誉められ、逆に負けたら怠惰だと罵られるってことかいな。試合での結果だけで練習の価値が変わるなんておかしいよね」
永原が前席の背もたれを握る手はぶるぶると震えている。対する安積は、相変わらず無表情のまま永原を睨みつけている。
「まったくお前の甘ったるい考えには呆れるな・・・そんな生ぬるい了見だから万年地区大会敗退なんじゃない?本番がお粗末な結果ならばその練習も評価されないのは当然のことだ。誰の目から見ても明らかな結果しか評価されない。元来スポーツってのはそういう価値観で動いてる世界なんだよ」
「だったら・・・!」
永原は血が上った頭に任せて怒鳴り散らさんばかりに語気を強めていたのに気づいた。
だったら、お前はそれができてんのかよ。レギュラー落ちしそうになっているお前が、俺たちをバカにする権利があるのか・・・
そう言いそうになったが、特大のブーメランが顔面に突き刺さりそうな気もしたし、永原の中にまだ幾ばくか残っていた安積との友情もまた、心ない言葉の発露を制止せしめた。
「・・・いや、何でもない」
舌打ちをして言葉を飲み込んだ永原を、前の席にいるクールな男は軽蔑的な笑いを漏らして罵った。
「まぁ、俺はお前たちの生き方を否定する気はない。ただ、俺の部活動での姿勢とは真逆だし、あほ面下げてやる部活動に意義を感じないってだけだ」
捨て台詞を吐いた安積は、先程までの暗い表情から一転、勝ち誇ったような表情を顔に張り付けていた。一方で、永原はももに置いた拳をぶるぶると震わせた。
気付くと、バスは既に永原たちが降りるべき場所にもう間もなく着くというところまで来ていた。
バスが前のめりになりながら、ゆるゆると停車した。前方のドアが開くと、永原と安積は互いに会話を交わすこともなく、いたって事務的に支払いを済ませて降車した。外はまだまだ夏らしい蒸すような暑さで満ちていた。遮蔽物のない国道沿いの歩道は、容赦なく太陽に熱せられていた。はるか向こうでは陽炎が遠景を揺らめかせ、道行く車の姿を歪に変化せしめていた。
安積は永原に背を向け、歩み去ろうとしているところだった。だが、永原は何だか癪に障った。本当は安積の凋落ぶりをちくちくと刺して彼を攻撃しても良かったのだろうが、逆にいいように言われてしまった。その反撃をしなくては、と思った。
「安積」
永原が背中に声をぶつけると、安積は苛立たしげに永原を睨んだ。
「・・・なんだ?」
「確かにおまえがさっき言った通りさ。俺たちは結果を残せていない。その状況で、俺らの見えないところの活動を評価してくれ、なんてのは虫のいい話だと思う」
「分かってんじゃん。だったら」
「だが、さっきお前が言ってた、だらだらやってるなんてことは断じてありえない。俺たちは確かに弱小だが・・・弱小なりにみんなで練習方法考えたり、用具揃えたり、いつだって全力でやってる。惰性で部活をやってたことなんて一度もない。それはもちろん、県大会出場、そして全国大会へ勝ち進むためだ。俺はともかく、他の連中の名誉のためにそれだけは言っておくよ」
「・・・そうか」
安積は一言、呟くように言うと、少しの間目を泳がせた。
だが、また最後に永原の言葉を鼻で笑い、捨て台詞を吐いた。
「まぁ、そう思ってるなら勝手に思ってれば?どっちにしろ、俺はお前らのような部活動は認めようと思えないけどね」
それだけ言うと、安積は不自然な歩き方で永原の前から姿を消した。
永原はその場で立ち尽くしていた。永原はもどかしかった。そして怒りも孕んでいた。だがその怒りを発散するところはどこにもなかった。夏の暑さにも、道を行く自動車にも、安積にも、自分自身にも、どの方向に怒りの銃口を向けることができない。永原は唇の端を噛んだ。
一体何時間こうしていたのか、体から剥がれかかっている意識のなか永原は思った。
ここ数日、悔しいことや惨めなことが立て続けに起こった。何もしていなくても、それらは永原の意識の中に土足で入り込んできては精神を好きなだけ引っ掻き回していった。その後に残ったのは、無惨に破壊された心だけだった。
いつもであれば、———例えばテストで悪い点を取ったり、教師から理不尽な叱責を受けたり、好きだった女子に彼氏がいたときなどだが———卓球のラケットを無心で素振りし続けていればそのうちに消えていった。そう、卓球に打ち込むことで嫌なことは全部忘れられる。永原はそう信じていたし、事実そうだった。これまでは。
だが、今回はそうもいかなかった。何せ、今最も辛くて苦しいものは、他ならぬ卓球なのだ。汗を飛び散らせてラケットを振り続けても、視界が徐々に滲んでいくのがわかった。
何も見ようとしない者が自分たちを怠惰だと断罪するのが許せなかった。何より、それをそういうものだと寛大に受け入れることのできない矮小な自分自身にも怒りがふつふつと沸き上がってくる。
その怒りが臨界点を突破したとき、遂に永原の心は狂った。
「ううぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぁぁぁ!!!」
気付いたときには、中学時代から大事にしていたラケットを力一杯壁に投げ飛ばしていた。ラケットは直線的な動線で空を切り、壁に激突して鈍い悲鳴を上げた。その後力を失ったように落下し、地面に転がって死んだように動かなくなった。
穴の開いた壁と、床に転がるラケットを見て、永原は怒りの発現を抑えられなかったことと、それによって自分が一番大事にしなくてはいけないものへ怒りの矛先を向けてしまったことに対して激しい後悔と自己嫌悪に襲われた。永原は今一度絶叫しながら頭を掻きむしった。しばらくは部屋の物を蹴飛ばしたり壊したりして何とか怒りを抑えこうもうとしていたが、その必要もなくなった。そのうち、自分の中で暴走する怒りは勢いを無くし、徐々に悲しみが大波のように襲い掛かり四肢の力を根こそぎ奪い去っていく心地がした。しまいには、永原は床に四つん這いになり、目からは涙があふれてきていた。
しばらくの間そうしていた。気付いた時には、部屋の中は真っ暗だった。永原は汗だくのままベッドの上にガラクタの如き自分の身を投げうった。心底もう卓球に向かい合うのに嫌気が差していた。しばらくの間は酸素と二酸化炭素の収支に腐心していた体は、やがてそれが落ち着くと静かに永原を眠りへと引きずり込んだ。
薄れゆく意識の中、永原は入浴や歯磨きのことを考えたが、今はもう何もしたくない気分だった。ただただ、眠りに任せて全てを忘れ去ってしまいたい。そういう思いだけだった
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