第9話

 午前中最後の授業が終わると、校内のすべてを平和な鐘の音の連なりが包み込んだ。生徒たちは慌ただしく昼食の準備を始めた。

 永原も教科書やノートをごそごそと片付けていた。最後の授業があまり得意でない化学だったせいか、永原の頭はぼんやりとしていた。近くで弁当箱を広げる女子生徒の賑わいや日直が腕を目一杯伸ばして黒板を消していく風景が、どこか夢の中のように感じた。

「慶介」

 気付かないうちに、机の横には姫沢の姿があった。彼の手にはコンビニのロゴが入ったビニール袋がぶら下がっている。

「あ?ああ、尊か」

「どうした?鳩が豆鉄砲に食ったみたいな顔して」

「いや、少しボーッとしてただけだよ」

 ぼそぼそとはっきりとしない口ぶりでそう言って、永原は教材やペンケースを机の中へ慌てた様子で突っ込んだ。それを見て、姫沢は怪訝そうな表情を浮かべている。その姫沢の視線と同様に、永原自身も何だか自分の調子がおかしいことを感じていた。

「なぁ、一緒に飯食おうぜ」

 姫沢はコンビニ袋に手を突っ込んで中身をがさがさといじっている。半透明の袋を透過して、「ガッツリ!ビッグソースカツサンド」の袋が見える。

「・・・そうだな。その前に自販機で飲み物買ってきたい」

「ああ。俺も行くよー」


 二人は自販機でペットボトルのジュースを買い、また教室に戻った。その単純かつ日常的なストロークの中ですら、永原の意識はゆらゆらと揺動していた。

 自分でも何だかおかしいということは分かっていた。そこまで生活に害を成すものであるようにも思えなかったので、永原はあえてそれを言わないでいた。今日は今日とて、気温が高い。それだけではなく、窓の外に見える木々の葉も微動だにせずただただ静止しており、そよ風らしいものは何もないという事実に対して無言の説明をしている。まさしく夏の嫌らしい部分を凝縮して詰め込んだような気候だ。きっとそれにやられているのだろう。永原は自身の不調に対してそういう診断を下し、自分自身で適正だと思える措置を取った。

 しかし、そんな体の不調はまた違うところから姫沢に発露することになった。

「え?昼飯そんだけ?」

 自分の席に座る姫沢は、姫沢の後ろの席(本当は小柏という男の席なのだが、大抵昼時はいない)に座る永原の昼飯をまじまじと見つめ、目を丸くした。

 姫沢の昼飯は、大きめのおにぎりが二つ、先程ビニール越しに見えた特大ソースカツサンド一つ、菓子パン一つという、男子高校生としては特に驚くべきこともない量である。

 対する永原はと言えば、100円のさけおにぎりとこんにゃくゼリー、そして先程自販機で買ったお茶だけだ。これではまるでダイエット中の制限食だが、誰がどう見ても永原にダイエットが必要だとは思えない。むしろ、見る人が見ればもっと食えと説教が入るところだ。

「これじゃあ足りなくない?」

「うーん、何っていうか・・・」

 永原はおにぎりの包装をちまちまと破きながら、小さく唸った。

「最近、あんま食欲無くてさ」

「おいおい、まさか、土曜日の坂城さんのダメ出しがよっぽど堪えてるのか?」

「そうじゃないよ。その前からずっとこんな感じでね」

 確かに、坂城先生の諦観を帯びた言葉は永原の心に浅からぬ傷をつけた。しかし、一晩寝たら鉛のような重苦しい感情は多少薄れたので、そちらについては問題ない。

 永原の食欲減退はそれ以前からずっと続くものだった。それまでも大喰らいではなかったが、このところさらに食欲が下降を続けているという状況だった。なんだったら、姫沢の机の上に置かれたソースカツサンドが視界に入っただけで、永原は軽い吐き気を催すほどだった。

「食欲無くても、そりゃあ少なすぎるよ。もっと食わないとそのうちぶっ倒れるぞ。あ、俺のソースカツサンド半分やるか?」

 姫沢は包装ビニールから半分飛び出たソースカツサンドを永原の方に押しやった。何故よりによってそれをこっちに勧めてくるかね・・・永原は理不尽な怒りを覚えた。同時に更なる吐き気も覚えた。

 まるで地区の何かのイベントで料理を振る舞うおばちゃんみたいだ、と永原は思った。あぁいうおばちゃんは、それを食べる側に食欲があろうと無かろうと、善意や親心のようなものに突き動かされて胃袋の収納可能容量を大幅に超えた量の食事を強いてくる。今の姫沢はそういうおばさんと同じだ。

「そう言ってくれるのはありがたいけど・・・本当に大丈夫だから」

 永原は顔の前でばたばたと雑に手を振り、姫沢の申し出を断った。

「それならいいんだけど・・・」

 姫沢は心配そうな顔で永原を見ながら、ソースカツサンドを頬張った。

 申し出を断るのは忍びないが、やはり永原は自身の食欲を優先したかった。これ以上食べたら、トイレで中身を戻してしまいそうだった。

 永原がおにぎりを一口齧った時、教室の反対側の方で騒々しい笑いが爆ぜた。

 その笑い声の主は、宮田たち男子バスケ部員だった。奴が優等生で先生たちからの覚えもめでたいことを知らないで見たら、ただのヤンキーにしか見えぬほどの折り目正しくなさである。宮田などは机の上にどっかり尻を置いて談笑にふけっている。

 姫沢はそちらを一瞥した後、彼らから見えない方向に顔を背けて舌打ちをした。奴らの話声を聞いていたらなど耳どころか脳みそまで腐ってきそうだったので聞きたくはなかったのだが、この教室にいる限りは彼らの声を聞かずに済むということはあり得ない。

 それゆえに、自然に彼らの会話も二人の耳に侵入してきた。

「そうそう!あいつさぁ、練習終わった後に一人で練習してて、足捻ったらしいよ」

「マジで馬鹿だよなぁ。遠征控えているこの時期にあり得ねぇよ」

「使えないなら使えないなりに、せめて足は引っ張らないでもらいたいんだけどなあ」

 宮田たちは再度大きく笑った。

 話の内容から察するに、部員内で誰かが自主練している時に足を痛めたことをコケにしている、といったところだろう。永原は少しムッとした。いくら自分らが優秀な選手だからといって、他の誰かの努力を馬鹿にする権利があるとでも思っているのだろうか。

「ほんと、安積はとことん使えねぇなマジで。入った当初はできるやつだと思ってたんだがなぁ・・・とんだ見当違いだったみたいだな」

 安積・・・永原と姫沢は瞬時に反応し、互いの顔を見合わせた。

 安積という名字の男子バスケ部員は、安積順平以外いない。安積が足を捻ったというのだろうか。だが、朝に彼が登校してきてから今まで、永原には足を引きずっている雰囲気を一時たりとも感じなかった。遅ればせながら様子を確認しようと教室中をキョロキョロと視線を飛ばすものの、安積の姿はどこにもない。

「宮田、いつ安積を補欠にして平田をレギュラーにすんだよ?」

「そうだよ。お前だって、タメの安積より秘蔵っ子の平田との方が何かと連携取りやすいだろ?今やうちのバスケ部はお前の言うことは絶対なんだし、さっさと安積を切ったほうがいいと思うけどな」

 いつも宮田に帯同してふんぞり返っている輩のうちの二人が、やおら声高に安積不要論を唱えた。それを聞き、宮田はこのまえ卓球部にやったような、下品さのある笑みを浮かべる。

「まぁお前らの言うことはわかるけどな。だけど、ここで簡単にレギュラーに外して雑用やらせてもつまんないじゃん?あいつにはこのままレギュラーでもう少しやってもらって、ここぞという試合で平田に挿げ替える。その時、安積がやってた努力は全て水泡に帰す。いくら安積でも流石に絶望を隠せないだろう。その時にどんな表情をするか・・・こりゃあ、ちょっとした見世物になるぜ」

「うわぁ、性格悪いねぇ」

「おいおい、人聞きの悪い言い方をしないでくれる?俺は君らにエンターテイメントを提供しようとしてるんだよ?人が苦しむのを見るのは楽しいからな」

 宮田たちのやかましい会話はなおも続いた。それはほぼ全てが安積の悪口だった。そして、当の本人の安積は結局昼休み中は一度も教室に戻ってこなかった。


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