第7話

 土曜日の練習日。初夏らしい透き通るような快晴が広がっていた。

 学校としては休みだったが、ほとんどすべての部は活動しており、校内には様々なユニフォームを着こんだ生徒たちが汗を流していた。彼らが上げる明朗な掛け声やボールを打つ音が真っ白な校舎に反射し、夏の空へと飛んでいく。

 その部活動の中に、森部高校男子卓球部もあった。現在は午後一時を少し過ぎた辺りで、ストレッチを終えた部員たちが軽いラリーをしながら調子を整えていた。蒸し暑さを強く感じる木造体育館の中での練習ながら、各員は大安高校との練習試合に向けてそれぞれの目標を持って練習に取り組んでいた。

 永原にしてももちろん目標、課題といった類は練習前にしっかりと把握していたはずだった。しかし、いざ練習が始まると永原の頭の中は整然とタスクが並んでいるという状態ではなく、むしろあちこちの地べたに物が散乱しているかのようだった。とにかく頭がすっきりしない。昨夜は少し素振りをしてすぐに寝たはずなのだが、何となく頭の中が疲弊しているような感覚を覚えていた。

 ラケットの違和感・・・解決する方法は・・・

 疑問を解消する明確な答えの当てはない。

 その疑問が一時消えて我に返ったのは、対面する花岡が思いがけず会心のリサーブを打ち、永原が振ったラケットの鼻先がわずかにボールの外郭を掠めた時だった。

「すいません永原さん。フォアの練習で今のコースはきつすぎましたよね・・・?」

 花岡はぺこぺこと頭を下げている。

 茫然自失で立ち尽くす永原の後ろ側で、地面に落ちたボールが小さくバウンドしながら壁にぶつかった。

「俺、取ってきますね」

「あぁ、いや、いいよ」

永原はばたばたと左右に手を振った。

「こっちこそちゃんと取れなくてすまんな。俺が取ってくるよ」

 すみません、と花岡が細々と謝ったのを背中で受けながら、永原は床に落ちたボールを拾い上げる。

 そこで永原は、自分の手が小さく震えていることに気が付いた。

 練習や試合の際にフォアの打ち合いでウォーミングアップする場合、相手にとって打ちやすいコースに打つのが普通だし、礼儀だ。この場合は相手を打ち負かすのが目的の打ち合いではなく、互いにボールに慣れたベストの状態で練習や試合を始められるようにすることが目的だからだ。だから、今の花岡の厳しいコースでの返球は堅苦しく言えばマナー違反であるのだ。

 だが、見方を変えれば、一年生の春から卓球を始めた花岡は既にそれだけ厳しいコースへ打ち込めるだけのスキルがあるということでもある。もちろん、それを常時できるか否かという問題はあるだろうが、花岡には潜在的にその能力があるということであるのだ。

 花岡は進化している。それもかなりのスピードで。

 永原は改めて打ち合いをして初めて目の前の手元不案内な様子の一年生が猛烈な勢いで進歩していることを感じ取ったのだ。

 このままでは・・・

 震えが大きくなる。それと連動して、永原の胸中はみるみるうちに陰っていった。そして、昨日姫沢がバス車内で言った最悪な未来が、思った以上にすぐそばまで忍び寄っているのを嫌でも感じた。

 永原はぶるぶると頭を振った。

「永原さん、大丈夫ですか?少し具合が悪そうですけど・・・」

 心配そうな顔で永原の様子を伺う花岡が視界に入った。永原は無理やり作ったつくり笑いを顔面に張り付けた。

「え?そうかな?大丈夫大丈夫!何たって、今日は坂城先生に指導してもらう日だからな。バテテなんかいられないよ!あっはっは!」

「そう・・・ですか。それならばいいんですけど」

 永原は自分で自分の所作を恥じた。強引に作り出した空元気を他人に示す時ほど、こっぱずかしいことはない。だが、何とか対面する一年生を騙すことには成功したらしい。花岡の心配そうな顔はわずかながら和らいだ。

「そういえば、もうそろそろ来るんですかね、坂城先生」

「あぁ・・・一時過ぎ頃に来るって言ってたし、そろそろだと思うんだけどねぇ」

 花岡と永原がそんな話をしていた時、それを聞いていたかのように例のひょろ長い現代文教師が第二体育館入り口に姿を現した。

「みんなぁ!お疲れ様!いやぁ待たせちゃってごめんね」

 米倉はいつも通り呑気な声で卓球部員たちを呼び掛けた。だがいつもと違い、米倉は上下カーキ色のジャージに時代遅れ甚だしいデザインのスポーツシューズを見に纏っていた。いつもは上はYシャツ下はスラックスでまったく運動する気が感じられないファッションで卓球部の元へやってくるので、部員たちはほんのりとした新鮮味を感じた。

 その米倉の横には、見覚えのある姿があった。

「おぉおぉ、流石は森部高校男子卓球部。こんな暑い中練習とは感心だなぁ!」

 陽気な語り口で部員たちを労ったのは、前森部高校教頭で現鎌田南高校校長の坂城先生である。ヴィジュアルは永原たち二年生の記憶通り、まさしくゴムまりの如き小太り体系であった。パッと見ただけで、かなり腹が出っ張っているのがわかる。白髪交じりの薄い頭頂部や顔に刻まれた深い皺は年相応の風格を醸し出していたが、ぱんぱんに張った顔とまん丸に開かれた両目のせいかどこか愛嬌のようなものさえ感じさせた。坂城は米倉とは正反対に、半袖のYシャツに紺色のスラックスを履いている。恐らく先生たちの会議が終わり、着の身着のままでやってきたのだろう。

「それじゃあみんな、集合」

 ねっとりと後を引く声で米倉が部員たちを招集すると、昨日と同様部員たちは二人の教師の前に横一列で並んだ。

「昨日言った通り、今日は坂城校長のご厚意により、君たちの練習を見てアドバイスをいただけることになりました。残念ながら校長はすぐに鎌田市へお帰りにならないといけないので二時半頃までしかいられないそうなんですが、皆さん失礼のないように練習に励み、積極的に坂城校長に質問して自身のスキルアップに役立ててください!それでは、坂城校長からも一言・・・」

 米倉が恭しくコメントを求めると、坂城は一歩進み出た。既に額には球粒のような汗が滲み出ている。

「えーっとみなさん、こんにちは。坂城です。二年生の人たちは私の事覚えてるかな?去年までここで教頭を務めておりました。今日は会合があってたまたま古巣である森部高校に来ることになったんですが、今回の会合の司会役である米倉先生が卓球部の顧問を務めていらっしゃるというお話を聞いて、少し見てみたいと思いこのような会を設けていただきました。そもそも私は―――」

 

 その後、坂城は自身の卓球人生や出来事をかいつまんで話した。かいつまんだと言ってもその量が半端じゃなく多いので、結果として坂城のスピーチは十分弱にまで膨れ上がった。その間、やはり永原の神経は右手の違和感に向いていた。

 本当は一番いい状態で坂城先生に見てもらいたかったのに、と永原は唇を噛む。だが、最近の頭痛のタネであるラケットを握った時の違和感について、明確な回答と言えずともヒントめいたものは得られるかもしれない。実際目の前にある希望はそれだけだったし、迷走を続ける永原にはそれに縋る以外にやれることがない。

 今日は気張るぞ・・・永原は小さな闘志を心の中で燃やした。


 その後、坂城指導の下、練習が開始された。

 今日の練習では、台の片方は坂城がおり、もう片方は部員たちが交互に入れ替わって打ち合いをする、という方式が取られた。部員たちは坂城から指定されたパターンで球を打ち、プレイが途切れたら次の部員に交代する、という形式だ。

 昔ながらのペンハンドを手に対峙する坂城は、部員達にはこんもりと土が盛られた一里塚のように見えた。

「よし!じゃあ始めようか!」

「お願いします!」

 練習はフォアの打ち合いから始まり、ツッツキ、ブロック、スマッシュ等の基本的なところから始まり、その後実践的な練習へと移行した。

 初めに部員がサーブを繰り出す。それを坂城がツッツキで返すので、機会を見計らってドライブあるいはスマッシュで攻撃を行うというものだ。実際、このような形で得点奪取の道をこじ開けるのは試合での常套手段である。だから、比較的練習でも取り入れられることが多いメニューである。普段の練習でもやっている。

 しかし、いつもの部員同士の練習とは違い、名指導者と言われる坂城の厳しい返球と的確なアドバイスが部員たちに襲い掛かってきた。

「うーん、最後のそれはスマッシュというよりフォアだよねぇ?最高打点を意識して、思い切り振りぬいてみて」

「サーブが高すぎるなぁ!こんなんじゃあすぐ打たれてしまうぞ。いいかい?相手が返しづらいサーブというのはね・・・」

「えーと、君は・・・確かドライブ型だったよね?その場合、コースはこっちから・・・こっちへやった方がいいな」

 当初花岡が危惧していた厳しい指導というのは、近からず遠からずといったところだ。

 坂城はメニューごとのサーブやリサーブを寸分違わず部員たちへ繰り出していく。そして、甘い球は容赦ないスマッシュで返り討ちにしていった。そのスマッシュは見るからに鈍重な坂城から放たれたとは思えぬほど鋭く直線的な速球であった。それには部員の誰もが目を瞠った。

 一方、語り口調については幾分かきつい時もあったものの、森部高校で教頭先生を務めていた時のような温和さが残るものであった。時には一旦練習を中断し、気になった部員の肘や手首に手を添えながらラケットの振り方や改善策を丁寧に指導していった。

 

 悩み多き高校生・永原のプレイにも坂城の指導が入った。

「君・・・えーと名前は何君だっけ?」

「永原です」

「あぁそうだそうだ、永原君」

 それは右手の違和感を感じながらも、三球目でコート右端へスマッシュを決めた時のことだった。坂城は一旦練習を止めた。

「君は卓球を始めて何年くらいかな?」

「はい、中学からなので大体五年になります」

「ふむ・・・そうか」

 坂城はまん丸の顎を右手で擦りながら小さく唸った。少し間が差し挟まれた後、坂城は再度口を開いた。

「今のスマッシュ、球筋は悪くないが少し弱いかな。もう少し、相手の使ってるラバーとか、リサーブの仕方とか、そういうのを見極めて打ち方を変えてみてはどうかな?それによっては、ドライブかスマッシュか、あるいはブロックやツッツキで相手の出方を見るか、今後の行動も変わってくるだろうしね」

「え・・・そうですか、わかりました」

「じゃあ、次の人」

 何とも言えない気持ちで、永原は台から離れて後ろにいる姫沢へ場所を譲った。

 失礼極まりないとは頭では分かりつつも、肩すかしを食らった気分、というのが永原の率直な印象だった。

 調子が最悪の状態で見てもらっているわけなので、第三者から見ればひどくへたくそに見えるかもしれない。だからぎゅうぎゅうにしごかれるのではないだろうか、と永原は思っていた。でも、それならそれで自分自身の悪い部分もあるだろうし、克己心を醸造するきっかけになるだろう。だが、先程から坂城はごくごく基本的なことしか永原に言ってこなかった。

 例えば先程のアドバイスにしてみても、相手の使っているラケットの種類を判別するのは戦い方を構築する上では必要不可欠なことだし、相手のサーブやリサーブを見極めることなどはそれこそ卓球を始めたての人間がまず言われるような類のことだ。そしてそれは実際に永原もプレイ中に常に心掛けていることだ。

 列の最後尾に行ってから、永原は現在プレイしている姫沢を見た。

 姫沢はドライブ主戦型である。あらゆる立ち位置からドライブショットを左右に打ち分けて攻め続ける攻撃的なスタイルである。元々ヨーロッパで多用されてきたプレイスタイルだったが、最近は日本でも主流になりつつある戦い方である。

 永原も姫沢の卓球については理解していたつもりだったが、改めて見ると姫沢のプレイには磨きがかかっていた。

 坂城が様々な型で返してきたリサーブに対し、左右前後のコースを自在に変えて的確な場所へと打ち込んでいる。姫沢のラケットから放たれたボールはその時々によって緩い曲線や山なりの軌跡を描いて相手コートへ侵入し、敵陣に墜落するや否や急激な加速感を伴ってコートの上を駆け抜けていった。

 それを見て坂城の声は弾んだ。

「おお、今のドライブなかなかいいねぇ。私の打ってきたリサーブと立ち位置に対して的確なラインで打ってきてる。判断いいよ!」

「ありがとうございます」

「そうだな・・・もう少しネット際の対応を丁寧にやれば、県大会でも十分通用するレベルになるかもしれないなぁ・・・いやぁ素晴らしい」

 坂城が姫沢に対してあまりにも賛嘆の声を漏らすので、茅場や花岡は「おー!」「すげぇ!」と小さく呟き、互いの顔を見合わせた。坂城の説明に要領を得ないながらも、米倉もまた目を輝かせて小さく拍手した。

 しかし、列の後ろにいる永原にはそれを純な心で喜べなかった。

 幼い頃からの友人で、しかし卓球においては長らくライバル関係にあった姫沢。

 凛とした表情で坂城のアドバイスに耳を傾ける姫沢が、とても遠くにいるように見えた。


 その後も数時間練習は続いた。

 練習の風景は相変わらずであった。茅場はカットマンとしての相手の返球に対応する立ち位置について指示を受け、花岡は初心者ながら筋がいいことを褒められ、姫沢は何をやらせても坂城を唸りせしめた。

 そして永原は、何をやってもごくごく基本的なアドバイスを淡々と語られるだけだ。

 一体この差はなんなんだ?

 渦を巻いて勢いを増した疑念に飲み込まれそうになりながら、永原は必死に練習に食らいついた。

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