第5話

 その日もまた、永原はラケットの柄を何度も握りなおした。

 前の日の晩に改めてフォームの確認もしたのだが、上手くいかなかった。そして今日、違和感を抱えたまま練習に臨んだのだが、当然そんなことでは上手くいくはずもない。

 振りさばいたラケットの最外縁のわずかに外側を、茅場の正確無比のコントロールで放たれたボールが通り過ぎて行った。

「・・・おいおい、永原君」

 ボールを拾い、戻ってきた永原に向けられた茅場の顔は険しい。

「どうしちゃったんだい?こんなミスをするなんて君らしくもないな。大安高校との練習試合は、もう来週末なんだよ?」

「いや・・・すまん」

 比較的穏やかな茅場が語尾を荒げている。だが、今のプレイは永原自身それは無理もないことだと思えるようなていたらくであった。

 茅場から放たれた下回転のサーブを、大きく打ち上げてしまったのだ。次はスマッシュか強烈なドライブが来るのは明らかだったのだが、足がもたついてしまいそれを受ける態勢に移るのが遅れてしまった。

「なんか、最近調子悪いんだよね」

「暑さのせいじゃないのか?」

「いんや、それは大丈夫」

「まぁあんまり気にするなよ。そのうち調子も戻るさ」

 台の長辺を隔てて向こう側の茅場は一転、優しい言葉を投げかけてきた。

「・・・ならいいんだがな」

「さ、どんどん行くぜ!次はツッツキの練習だ!」

 熱血部員・茅場が仕掛ける夏の特訓はより一層厳しさを増していく。

 ふと、姫沢と花岡の台が目に入った。いつものように姫沢は狙った球を狙ったところへ返しているし、花岡は小さなミスを挟みながらもぐんぐんと上達を続けているようだ。

 やはり、何一つ進歩がないのは自分だけ・・・

 永原の中は真っ黒な感情で覆われた。そのせいで、陽気な夏の太陽すら永原の中には入りこむ隙がなかった。

「みんなぁ、おはよう」

 練習開始から小一時間も経過した頃、緊張感のない緩慢な声が各部員の耳へぬるりと滑り込んできた。体育館の入り口には、森部高校男子卓球部顧問である米倉の姿があった。

 部員たちはプレイを中断し、米倉へ挨拶を返した。

「いやぁ、今日も暑いねぇ。こんな中ご苦労さん」

「いえ米倉先生。何といってももう少しで大安高校との練習試合ですからね。それに向け、休みなく研鑽を積むのは当然のことですよ」

 つま先から頭頂部まで、床に対してきっかり九十度で自分の体を立たせ、茅場ははきはきとした口調で答えた。高校部活部長の顧問への模範回答指南書があれば、間違いなくそこに今のセリフが載っていることだろう。それを受けて、米倉も満足げだ。

「みんな、ちょっと集まってくれないか?」

 いつも通り覇気の欠片もない声で、米倉は部員たちを自分の元へ呼び集めた。米倉は現代文の教師である。卓球の経験はない。なので普段卓球の練習についてあれこれと指示したりアドバイスを授けることは皆無なのだが、顧問として必要な連絡だけは伝えにやってくる。今回もそういう類の業務連絡なのだろう、永原は思った。

 自分の前に一列に並んだ部員たちを端から順に見てから、米倉は話し出した。

「君たちに集まってもらったのは、実は坂城先生のことなんだ。数年前までこの学校で教頭をされていて、今は鎌田南高校で校長をされている先生なんだが、覚えてるかな?」

 もちろん、永原には覚えがあった。花岡を除いて、全員が小さく頷いた。

「あの・・・俺はよくわからないです」

 一年生の花岡は、締まりのない表情を浮かべた。

「あーそうかそうか。ちょうど君が入学する前に坂城先生はこの学校を去られたからね」

「先生。その坂城先生がどうかされたんですか?」

「そう、それなんだけどね」

 米倉は咳ばらいをし、話を続ける。

「君たちは知らなかっただろうが、坂城先生は昔から卓球に熱心な方でね。学生時代はインターハイも経験され、現役を引退してからも県内の卓球部の指導を長年続けてきていたんだ。県下でもトップクラスの南部第一高校卓球部の顧問をされていたこともあるんだよ」

「へえ、それは初耳ですね。ですが、坂城先生がうちにいた時は一度も見に来られたことはなかったですけど」

「まぁ・・・先生も色々とお忙しいからね。昔のようにずっと生徒と向かって指導に当たるってことは難しかったんじゃないかな」

 米倉は少し言葉に詰まったようだった。卓球部には専門の顧問が存在しないため、茅場は顧問の割り当てを再三願い出ていたが、ことごとく却下されていた。それに対しての引け目もあったのだろう。

「その坂城先生と少し前にお話しする機会があってね。僕が卓球部を担当していると言ったら良ければ練習の様子を見させてほしいと言っていただいたんだ」

 米倉は嬉々として言葉を投げかけた。

「なるほど・・・そうですか」

 さしもの茅場も、米倉のいきなりの提案に言葉を選んでいるようであった。それも当然である。よその高校とはいえ現在は校長を務めるような人が、さもない弱小卓球部をわざわざ見に来るなどなかなかあることではない。同級生、上級生、下級生、教師、PTAと脳内の人物データをソートし、的確な返事の二つ三つは用意しているであろう茅場であってもこのようなイレギュラーな状況での最適解を見つけることは難しいらしい。

 茅場は左右に並ぶ卓球部員たちへちらりちらりと一瞥を配った。それが一巡するかしないかの前に他の面々もちろちろと他のメンツの顔の色合いを伺う。永原が見た姫沢は何色にも形容しがたい仏頂面であった。

 そんなことなど気にならないのか気にしないふりをしているのか、米倉は言を継いだ。

「ちょうど明日、県内の先生たちの会議があって坂城先生がうちの高校に来るみたいだから、その時にどうですか?ってさ。どうだろう茅場君」

「はぁ・・・僕はいいと思いますが・・・みんなはどうだろうか?」

 先ほどの茅場の一瞥が、諮問という意思を持って再び各員に向けられた。

「部長がいいと思うならいいと思います」

「俺は、先輩たちが決めたことならそれに従います・・・」

 姫沢、花岡の後、ややあって永原も答えた。

「・・・俺もいいと思います」

「そうかそうか!今思ったんだが、卓球の指導に明るい坂城先生に見ていただけるのであれば、大安高校との練習試合を控える君たちにとっても良い経験になるんじゃないか?それじゃあ決まりだ!」

 米倉はパンと両の手を叩いた。

「僕からは坂城先生に話しておくからね。明日は午後練だったよね?多分、一時くらいには来られると思うから、そのつもりで!僕からは以上。練習頑張って」

 連絡することだけ連絡して、米倉はさっさとその場を後にした。

 しがない現代文教師のひょろ長い背中が視界から消えるや否や、部員たちは解き放たれたように口を開いた。

「え、知ってた?あの坂城教頭が卓球上手いってこと」

「いやぁ知らん知らん。他の先生と間違えてるとかじゃない?」

「だけど米倉さんが嘘を言うとも思えないしな。多分本当のことなんだろう。信じられないけどな」

「あのー」

 やや低俗な笑い方を伴って盛り上がる二年生の面々に、一年生花岡の小さな声が遠慮がちに割って入った。

「坂城先生ってどんな方なんですか?」

「そうだよな。花岡は知らんよな」

「いや、別に怖い先生とかじゃないよ。僕ら生徒に対してもちゃんと向き合ってくれる穏やかな先生さ」

「だけどさぁ」

 姫沢は抑圧していた笑いを再度解放した。

「やっぱり信じられないよ。あのゴムまりみたいな坂城さんが卓球上手いなんてさ。あの人自体が卓球ボールじゃん。なんだったらラージボールじゃん」

「こらこら坂城君。おふざけが過ぎるぞ」

 部長という立場上、姫沢を窘める茅場だったが、生真面目な彼もまた珍しく笑いを堪えていた。

「いや、だけどさ。あぁいう先生こそ案外厳しいかもよ」

 永原がぽつりと言った。その顔には笑みがない。

 それを見た花岡が聞こえるか聞こえないかの小さな声で「ひいっ」と叫んだ。

「まぁね。そういうパターンは結構ある」

「いずれにしてもいい機会じゃないか。僕たち男子卓球部は恒常的な指導者不在に喘いでいたからね。米倉先生の言う通り大安高校への練習試合を控える僕らにとって、これはチャンスなんじゃないか?」

 そうだ。これはチャンスなんだ。不振という重苦しい闇のただなかを這いずり回る自分をどこかもっとましな場所へ移行させるための・・・。

 永原にとって、卓球の名伯楽である坂城前教頭が指導に来るという話はこれ以上ない好機であった。打ち合いを見てもらえば、多少の毀誉褒貶はあるだろう。しかし、それを聞いて長所を伸ばし、短所を重点的に練習すれば、こんな自分でもまだまだ伸びるだろう。永原はそう踏んでいた。

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