三話目

 家に着き俺は鍵をカバンから漁った。俺が玄関の前に立ったため灯りが点灯し、妻が俺に気が付いて玄関のカギを開ける音がした。


「おかえり」


 妻は声を潜めて言った。


「ただいま」


 俺の背後に加藤がいた。それに気が付いた妻は俺の後ろを見ようとした。


「どなたか一緒なの?」


 妻がそう言うと、加藤は俺の背中からひょっこり顔を出した。


「こんばんは奥さん。夜分遅くにすみません」


 ニヤニヤと薄気味悪い笑顔を浮かべて、加藤は俺の妻の顔を見ようと妻に近づいた。妻はあからさまに不快な顔をした。妻が人に対してこんな顔を浮かべることはそうそうないので、俺は少し驚いた。


「いや~綺麗な奥さんですねぇ。庄司さんが羨ましい」


 妻は加藤から目をそらして俺をギッと睨んだ。具合が悪い子供がいるのに同僚を連れてくるなんて、確かにいけないことだ。俺は妻にすまん、と表情を返した。妻は冷たい態度で加藤を無視した。


「加藤、すまんがもう帰ってくれないか? 子供の具合が悪いし、もうこんな時間だ。」


 この騒ぎで起きてしまったらしく、雪人と琴が寝室から歩いてきた。


「パパ?」


 雪人が目を擦って近づいて来る。


「すまんな、起こしちゃったか」


 俺は雪人と琴の頭を撫でた。


「二人ともお前に似てなくて可愛いなぁ。」


 加藤はいまだに帰らず、俺の子供たちを見ていた。そして琴に触れようと手を出した。


「可愛いな、名前なんていうんだ?」


 琴はぼーっとして加藤を見ていた。


「琴」


 琴はそう答えた。


「へぇ~。俺がもう1人のお父さんだよ」

「馬鹿なこと言うな」


 俺は加藤の品のない冗談に、思わず加藤の肩を叩いた。


「お小遣い上げようと思ったのにな」


 そう言って加藤は琴のそばから離れた。


「じゃあすみません。お邪魔しました」


 加藤は琴に手を振った。琴は可愛らしく手を振り返す。妻はいまだに不機嫌で冷たい態度をとっていた。普段妻が俺の知り合いにこんな態度をとることはなかったため、少しだけ違和感を覚えた。しかし誰でもこんな夜遅くにずけずけと他人に押しかけられたら腹も立つだろう。


「じゃあな庄司。また会社で」


 加藤はその言葉を残すと、ちらっと妻を見てから出て行った。


「パパ、あの人誰?」


 雪人が俺に聞いた。


「パパの会社の人だよ」


 俺は二人に寝室に戻るよう促し、二人が寝室に入ったのを見計らって、妻に話しかけた。


「すまないな。こんな夜中に押しかけちゃって」

「いいわよ」


 妻はただそう言ってリビングの方へ歩いていく。


「琴の具合は?」


 俺は妻を追いかけながら聞いた。


「熱は一応下がったの。多分大丈夫」

「そうか」


 ネクタイを緩めて俺はソファーに座った。


「愛子、こっち来て少し話さないか?」


 台所に立ち何かをしている妻に俺は言った。


「ちょっと待って。水は要る?」

「ああ、水と愛子が欲しい」


 いつもなら、こんなことを言えば少し顔を赤らませて笑顔でこっちにやって来る妻だが、今日は違った。妻はただ無表情で水を持ってきた。


「ごめん、やっぱり怒っているかい?」


 隣に座るよう俺は妻に言ってから、水を受け取り謝罪をした。


「別に怒ってないけど」

 

 妻はソファーに腰かけ、静かに言った。どうやらそれは本当らしく、怒ってはいないようだった。ただ妻の心境に変化はあったようで、やけに俺と距離を取りたがっていた。


「ならいいんだ」


 俺は水を一気に飲んだ。


「加藤は独り身で、あまり話が合わなかったよ」


 コップをソファーの前の机に置いて俺はネクタイを取り、Yシャツのボタンを外した。妻は脱いだそれらを受け取った。


「今日は琴と寝るから。桔平は雪人と寝て」


 妻はただそう言ってリビングを後にした。


 いつもと違う妻の様子に俺は動揺した。いつもの妻ならば、俺の少しのユーモアで何事もチャラにしてくれるはずだ。けれど今日は笑顔を見せるどころか、視線すら合わせてはくれなかった。加藤のことをそんなにも気に入らなかったのだろうか?


 確かに加藤は妻に少し馴れ馴れしくしていた気がする。それでもやはり、そこまで気を悪くするほどの態度だっただろうか? 女性の心というのは分からないものだな。俺はため息を一つついてから、コップを台所で洗い寝室に向かった。


 いつも寝るときは妻と俺、子供たちで部屋を分けている。今日は妻がいつも寝ているところに雪人が寝ていた。俺は雪人を起こさないよう静かに寝室に入った。


「パパ?」


 しかし雪人は起きてしまったようでベッドから体を起こした。


「すまんな、起こしてしまって」


 俺は風呂に入ることを面倒くさがって、下着だけ取り換えてパジャマを着た。

 雪人を見ると、青色の瞳がきらりと光りこちらを見ていた。その瞳はいつも俺をドキッとさせる。それはその瞳の美しさへの称賛などではなく、妻への浮気の疑念の思いが浮かべる自分を実感してしまった悲しみであった。


「パパ、さっきの人はパパの上司?」


 10歳というのは、やけにこ憎たらしい年ごろだ。幼いくせに上司、なんて言葉を口にする。


「同僚だよ」

 

 俺は布団に入って言った。


「あの人僕会ったことあるよ」

「そんなわけないさ。連れてきたのは今日が最初で最後だよ」


 俺はもう雪人に寝て欲しくて、雪人の頭を撫でた。


「もう寝かせてくれないか」

「パパ、明日はお休み?」

「ああ休みだよ」

「じゃあ僕公園に行きたい」

「琴が元気になったらな」

「僕とパパで行こうよ」

「だめだ。琴が可哀そうだ」

「なんで? この間僕が風邪をひいたとき、琴を水族館に連れて行ったじゃん」


 俺はまたため息をついた。知恵をつけてくると子供というのは、どうも面倒くさい。


「ごめんな、パパは疲れているんだ」


 俺は雪人に背を向けて目を閉じた。まだなにか雪人は言っているようだったが、俺は無視して寝た。ませ餓鬼というのは少しも可愛くない。ましてや自分の子供じゃないかもしれないと思えば、今すぐにでもこのベッドから突き落としたいぐらいだ。


 こんな陰気臭い感情も妻には決して知られたくなかった。例え雪人が俺と妻との子でなくても、俺には妻との間に生まれた愛おしい琴がいる。妻を何としてでも失いたくない俺は、この家庭を何が何でも守り抜きたいのだ。


 もし妻に俺が捨てられるということがあったのならば、俺はきっと生きてはいけない。だから俺は妻に自立した経済力を持たせないために妻に専業主婦をさせ、俺なしでは生きていけないよう経済的に束縛をした。


 外で性欲を解消することを悪いことだと捉える人間もいる。果たしてそうだろうか、と俺は思う。人には必ずだれにも言えない秘密があるだろうし、俺はその秘密が少しばかり一般受けが良くないものであっただけだ。懺悔のために相手に金を多く払っているし、深夜出歩き求められるのは体だけだと分かっていながら俺の誘いについて来たのは自己責任だ、俺はそう自分に言い聞かせて罪悪感から逃げ回っていた。


 そのおかげか最近罪悪感と警戒心が薄れ始め、今回加藤に目撃されてしまったのだ。社会的地位を守りたい俺は、加藤を仲間にしてこれ以上自分の秘密を知っている人間を増やさないようにしようと、俺は心に決めた。

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