第二次安倍政権下における世論形成の解釈 ー検察庁法改正案と新型コロナウイルスからみえたものー

久島 未認

第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

言い訳



 五月中旬,いわゆるコロナ禍というものが国内においてはやや終息傾向にあるが,その一方で検察庁法改正が行われようとしていた.これまで新型コロナウイルスの影響によりこのコロナへの対策をまず行うべしという論調が形成されていた.例えば,森友学園問題や加計学園問題そして桜をみる会問題である(もっとも今回これについてその真偽はあえて言及しない).これらの追及を行うくらいならまずコロナに対する対策を行うべきであって,追及している人々というものは“国難”を理解しておらず政争をいたずらに引き起こしているに過ぎないという考えがあった.


 まあそんなこんなでコロナ対策をせざるを得ない,なかば挙国一致しなければいけないという情勢下で検察庁法改正案が進められてしまっている.興味深いことにこの動きに対しては“普通の日本人”というのは「そんなことをやっている場合ではない.」という論理展開をしなかったのである.まったくもってコロナに関係しないためそんなことをするのはスピード感のへったくれもないし,先手先手の対応でもないはずである.いわんや「興味ありません」という姿勢をわざわざ大々的に発してしまったことは一笑に付すべきかもしれない.この時点で,この期間に醸成された信条とすべきもの,思想の軸もしくは思考の軸として存在する「コロナへの対策を行うべき」という発想とは矛盾してしまっている.


 今回ここに示す内容というのは,新型コロナウイルスによって再認識したことから書き始め,かの長期政権がいかにして「世論」によって保持されてきたかを「世論」というものがどのようにして立脚しているものであるのかを踏まえたうえで考察していくものである.しかしながらこれを書いている筆者というのは,あいにく人文科学・社会科学について精通していなければそれに準じた学位ももっていない.

 

 さらに,徒然なるままに書いていることから引用や参考図書を明確に示すことができないため,いわばまさにエッセイとしての性質を強めた文章であることは間違いない.おそらく,専門として研究してきている人々の界隈なら既に筆者の示す考えは普及していて,車輪の再発明になってしまっていることだろう.そのうえで今回の文が構成されていることは念頭に置いてもらいたい.



新型コロナウイルスがもたらしたもの



 新型コロナウイルスが世間にもたらしたものというのは自粛活動,つまり半強制的な引きこもり活動である.これにより有史以来の規模である,大量の人間に対して莫大な余暇が与えられた.


 そもそも人間が知的活動(物思いにふけることもこれに含む)というのを行うにはそれ相応の時間的余裕が必要である.この時間的余裕を古代ギリシアの人々は,スコレー(scholē)と名付けた.厳密な話をすると単純な時間的余裕のことを単にそう呼称するわけではなく自己充実のためのことを指すらしい.


 古代ギリシアの人々は,奴隷に雑務をさせてまで時間的な余裕を創出し,知的活動を行ってきたのである.知的活動といえば難しく聞こえ,哲学と言えば物々しい雰囲気が漂う.けれども結局のところ,それを確立するために人間がとる動作というのは物思いにふけることである.また,政治というものも哲学の実践であるため,時間的な余裕と知的活動さらには政治に目を向けることは非常に密接な関係にあるといえる.


 ところが,コロナが訪れる以前の現代日本の人々はどうだっただろう.産業革命から200年ほど経過し,工業化が進み,通信網が整備された.私たちは,クリック一つで言語化された情報を検索でき,タッチ一つで自分の一部を言語化したものを発信できるようになった.機械化によってもたらされた時間的な余裕は産業革命以前の人々からすれば想像できないものだろう.


 然れども皮肉なことに,私たちは奴隷を用意せずとも有り余るようになった時間的な余裕を流行り物の消費に用いるようになってしまったのである.流行り物の消費とは,生活必需品や最低限必要になってくるサービスの購入とは大きく異なる.苛烈なことを表現するならば,人間が健康で文化的な最低限度の生活を営むためには,消費者はそれを消費する必要はなく,一方でそれらを生産する生産者は生活を営むために必要不可欠な非対称的な状態でこれらの消費は成り立ってきたのである.


 生産者も消費者もひとえに労働者にすぎない.私たち労働者は,労働によって発生したストレスを流行り物の消費をすることにより解消してきたがそれによって消費する時間も多くあったわけである.このような長時間の労働とストレス発散のための流行り物の消費の二交代制,政治的な盲目状態になってしまう生活サイクルが恒常化されていたのだった.


 このような流行り物の消費というのは,さながらパンとサーカスと形容され,批判されてきたモノと同じだろう.もちろんパンとサーカスという文言が現れたローマ帝国では,娯楽や流行り物は権力側が提供してきたものであるためそのまま一致させることはできない.しかし,多くの人間を政治的盲目に至らしめている点は,類似していることだろう.


 新型コロナウイルスによって流行り物の消費は,活動自粛や渡航制限などにより難しくなった.これに伴い,流行り物の生産者たちは補償を求めるようになり,政治に目を向けざるを得なくなった.また,消費者側も欲望の対象とする流行り物を喪失してしまったからには物思いにふけることが多くなり,その実践たる政治に着目するようになったのである.


 つまり,新型コロナウイルスがもたらした活動自粛によって私たちは,政治的な盲目状態から解放されたといっても過言ではないのだ.



世論を構成する“普通の日本人”と“一般国民”



 なぜ今日に至るまで長期政権を握ることになったか.それを考えるには現代日本の世論形成において重要になる二種のキーワードが必要になる.一方は“普通の日本人”,他方は“一般国民”である.


 “普通の日本人”という呼称がSNS上で見受けられるようになったのはおおよそ東日本大震災以降だという印象がある.だいたい「普通」とはなんなのか.それの示すところは彼らの言動を踏まえるとおおよそ次のような傾向の日本人が“普通の日本人”となると思われる.


 1. 政治的な中道を主張する(場合によっては保守または現実主義を自称する)

 2. メディアに露出している人物の政治的な発言(政権を批判する発言)を嫌う

 3. 自国の歴史や利益を尊重していない(ように見える)人々に対立する

 4. 憲法改正について積極性を示す

 5. 東アジア諸国に対する反発

 6. エリートの意見を誤りとして本能に従って判断をしていることを自負する


さらに最近になると次の項目も追加される.


 7. 安倍総理大臣を過度に擁護する


1,2,3項については日本の現代史を踏まえても多くの国民がとっているだろう.“右翼”という単語で想起される戦時日本の姿,“左翼”という単語で思い浮かぶ新左翼の引き起こした事件,どちらの思想にもマイナスのイメージが出てきてしまう.だからこそ政治的中立を求め,害をもたらすだろう存在を排他し,政治的な無関心さを示すのである.


 けれども4,5項の条件を含むと政治的な無関心さというものとは真っ向に対立し始める.6項に至っては,反知性主義的性質を帯び始めるのだ.筆者自身,政治について先進教育を受けたわけではないためエリートに分類されるような人間ではない.だが筆者にもわかることとして,1,2,3項の性質を持つ理由に戦後日本の歴史的経緯があるというのに,肝心な思想についての歴史を軽視してしまっているのである.


 このような矛盾を秘めていて,政治的なスペクトルにおいては中道や保守主義に該当しないであろうにそのような思想に属していると自称するのが“普通の日本人”なのである.


 そうするとなぜ彼らは“普通の日本人”という名を名乗るのであろうか.これは,彼らの考えるストーリーを想像するとよいだろう.これも先ほどと同様インターネット上における主張を基に概形を映し出すことが出来る.


 『そもそも日本人は穏健である.しかし,近年日本に対して危害を加える勢力いわゆる反日分子が存在する.野党や左翼はそれが顕現した例であって,彼らの宣う言説というのは日本を破壊しかねない.安倍首相はそのような反日分子と日夜戦っている.私たちは古来より伝統を重んじるが,戦後教育によってそれらに墨を塗られつつある.幸いなことに,私たちはそのことにネットの真実によって気付くことが出来た.穏健な“普通の日本人”であるがこの危機に立ち向かう必要があるのだ.そして,国のトップとして戦い続けている安倍首相を応援してやらねばならない.』


 このようなストーリーを前提とすれば,「野党が敵であってそれに対して反対をする」,「野党が反対する政策は正しい」という思考回路や勢力内部の抗争でもないのに「左翼の内ゲバ」と認定できる論理が何となく把握できるだろう.しかし,これは政策論議とか政治思想とかいう次元ではなく,さながら野球の贔屓球団とそうでない球団への接し方に似通っている.たびたびネット上で観察できる「飽きた」,「興味ありません」など,考えあぐねてようやく出てきた主張を発信する姿勢もある.勧誘活動をされたわけでもあるまいし,わざわざ首を突っ込んでまでそれらの意思表示をする理由もそうした背景があるのかもしれない.


 “一般国民”という用語は,2015年に起きたオリンピックエンブレム問題の会見の際に発された言葉である. 誤った解釈をしているのかもしれないが,国が大々的に行う事業に参画していない多くの国民のことを指す言葉とみなせる.昨今ではその対立項として誕生した“上級国民”の方が有名になってきているが,今回はこの語句を用いることによって把握が容易にさせたい.


 “一般国民”というのは要するに政治の中枢に関与していないし,別段,政治に興味を持たなくても生活自体はできてしまう.確かに困窮している人間もその中にいるのは間違いない,しかし,国から自己責任論という魔法の理論を振りかざされればそれで終わりなのだ.よって,一般国民はその身や生活が政治の延長線上にあるものではないと考えるようになる.そしてその性質上,“一般国民”は世論を作り出すのである.


 “一般国民”と“普通の日本人”は,現時点では対立する存在ではない.というか,一般国民の中に普通の日本人が存在するという構造になっている.そして仮に一般国民の中に政治に関心を持ち始めた人が現れたときには,①“普通の日本人”になるか,②左翼認定され萎縮するか,③左翼認定されても政治的関心を持ち続けるか,の三択になっているのである.


 ちょっと待ってくれよ,と思った人もいるかもしれない.このネットスラングでしかない単語が意味する存在が実際の政治にそこまで影響を与えているのか疑問視する人々もいるだろう.よく考えてもらいたい.私たちの視聴するメディアというのは近年,SNSや匿名掲示板などの反応を取り上げることが多々ある.個人の発信能力の向上によって安易な発言が他者を毀損するニュースも見られるようになった.首相については,朝日新聞がマスクを販売していることを槍玉にあげて自身の布マスク配布による対策を是としたではないだろうか.こないだも検察庁法改正案について芸能人が意見を発することもできたが,その一方で“普通の日本人”が彼らに「政治的発言をするな」と直接発することができたわけで,メディア露出による影響力の強さをSNS上では無効化できるようになっているのである.


 このような状況下においては,多くの労働者と特権を持たない経営者から構成される“一般国民”も政治的な発言をすると,その中に存在する政治に熱心な“普通の日本人”に抑圧されてしまう.なぜなら“普通の日本人”を自称する彼らに反する発言や思想というのは,「普通じゃない」と思ってしまう(認定されてしまう)からだ.平時のポテンシャルだと私たちの多くは,“普通の日本人”の与圧によって安易に政治的姿勢もしくは社会に関する洞察を行うことが出来なかったのである.


 したがって,いかにして長期政権が維持されたかというまとめは次のようになる.労働や余暇に忙殺される“一般国民”はそもそも政治に関心を持つ機会や必要がなく,いざ政治に関心をもったときに“普通の日本人”による洗礼を受けることになってその積極性が奪われる.このプロセスをただひたすら繰り返すことによって世論形成がされることになり,反応を引き起こすためのポテンシャルエネルギーが得られなかったから維持されてきたということになる.



浮き彫りとなった無思想性



 ではなぜいわゆる“普通の日本人”が政治に熱心かつ政治に無関心であることを気取るのだろうか.そして,伝統に重きをおくような保守的姿勢を見せながら改革や法改正を行う安倍総理大臣を擁護するのだろうか.それは「無思想性」にあると考えられる.


 ハンナ・アーレントは,アドルフ・アイヒマンに対するエルサレムでの裁判いわゆるアイヒマン裁判で悪の凡庸さを見出した.アドルフ・アイヒマンは,ナチスドイツの親衛隊に所属し,ユダヤ人に対する絶滅政策「ユダヤ人問題の最終的解決」を敢行した人物である.このような肩書や背景を示すと,野望をもって敢行した異常者のように思えるが実際は公務員然とした一般人にアーレントには見えた.確かにその所業は異常極まりないだろうがそのようなことを行える存在だと思えなかったのである.このことからアーレントは,悪というものは,純然たる無思想性によって発揮されると考えたのだった.


 無思想というのは無関心を指す言葉ではない.無関心というのはそもそもそれを認知しないからである.また,無思想というのは無意識を指す言葉でもない.あくまでも意図をもって行動しているからである.無思想とは,行動を決定づける規範が存在しないことであると考えられる.事実,“普通の日本人”と呼ばれる人々は思想をもっておらず,自身を決定づける規範が存在しないように見える.唯一決める方法というのは,上の人間の言葉に従いながら,敵とみなした者の意見の逆張りを行う.政策や方針について自分自身でかみ砕くことはしない.本当にただそれだけなのだ.


 まるでそれは月や金星が自ら光を放たず,太陽の光によってはじめて存在を見せるのとおなじである.彼らの思想は,もはや愛国主義でも右翼的でも,保守主義でも,改革派でもなんでもないのだ.このような仮定を踏まえないと過去にあったケースというのを説明できないのである.



人間が人間足り得る根拠



 そもそも人間が今日まで,技術革新を迎え,世界観を刷新し続けることが出来たのか.それは,思想や思考を言語化することによって共有することが出来たからである.


 私たち人類は,目の前に降りかかる困難に対して,私たちがそのときこれまで獲得してきた叡智によって対処し,ときには困難の向こう側にある幸福や楽園や浄土に思いを馳せて覚悟してきたのである.いまでは存在しない非科学的な存在とされる妖怪や悪魔だって,その当時生きてきた人間にとってどれだけ思想や思考を持ち出して紡ぎ合わせたものなのだろうか,どれほど合理的な説明だっただろうか.これはおそらく「科学」「宗教」という言葉や概念が確立する前から行われてきたことだろう.


 思想とは,別に神秘主義的な意味を帯びたことではなく,人間であれば時間や場所を問わず発生させてきた(もしくは沸き起こってきた)ものなのである.まさに思想とは,人間が人間足りうるための必要条件なのだと考えられる.だからこそ,日本国憲法第十九条にこのように明記されているのだ.


  日本国憲法

  第十九条

   思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。


  GHQ草案

  Article XVIII.

    Freedom of thought and conscience shall be held inviolable.


 日本国憲法第十九条について追加で一つだけ述べておくことがある.自民党草案では,これを次のように変更するようである.


  日本国憲法改正草案(自民党草案)

  第十九条

   思想及び良心の自由は、保障する。


「侵してはならない」という現憲法では,不可侵性が示されている.つまるところ私たちの思想は,誰彼も干渉することはできないように示してくれているのが今の憲法である.そんなこと考えてみれば当たり前である.


 なぜかと言えばこの国は,個人の投票行動に基づいて議員を選出し立法を行い,議院内閣制によって組閣される内閣によって行政がなされるのである.私たちの思想抜きに成り立つはずがないのが民主主義国家であるため,一人ひとりの思想はその個人の力によってのみ決定していかなければならないのだ.


 「保障する」という言葉は,それ自体私たちの思想に踏み入れて,干渉することによって成立するものである.国家権力の努力によって思想及び良心の自由は成り立ってきたのではなく,国民の思想に対して権力側が踏み入れることが出来ないようにしてきたから思想及び良心の自由は成り立ってきたのである.この改正は,個人のみによって決定し,選ぶことのできる思想という概念を破壊しかねないのだ.



おそらく結びとなるもの



 この現代日本において,なぜ長期政権が維持されてきたかを世論の形成の観点から,新型コロナウイルスの影響や検察庁法改正案への反応により再確認することで考察してきた.これによると,まず世論を形成する日本国民の大部分は,労働に従事し,余暇を消費活動にあてることによって政治に目を向けることができなかった.そしてそのような“一般国民”というのは,政治に参与している意識を得られなかった.もしくは得ようとしなかった.なぜなら,仮にそのような政治的な意識を持ち始めたとしても“一般国民”の中から創出される“普通の日本人”によって洗礼を受け,抑圧を受けてしまうからである.


 しかし,“普通の日本人”というのはその自称を用いることによって他者を「普通じゃない存在」にしてきたわけだが,本人自体は無思想であって政治に熱心でありながら政治によって建設される次の社会に興味をもっていない.彼らの政治的な態度というのは思想に基づかず,首相に従い,野党に逆らうだけなのであった.そして多くの“一般国民”と同様に上が伝えるものを受け入れる存在なのである,───しかも絶賛しながら.


 そして幸運なことにこの国の憲法には,「思想・良心の自由」について規定されている.自粛活動によって私たちは国会の中継を見る余暇を得た.私たちは一時的にでも,一瞬でも政治的な盲目ではなくなったのである.これからは,“一般国民”であっても物怖じしないで次の社会,そして今の社会に対して意見していくべきだと考える.



最後に言及しておくべきこと



 私たち一人ひとりは本来違う.生まれ親,生まれ故郷や生まれた時代が違うなら形成される性格も異なって当然だ.もちろん画一化された教育によっていかに常識の範疇が他者によって決められたとしてもだ.カントの示した「そうでなくてはならない」と考える義務論と,ベンサムやミルが示した「こうしたほうが得になる」と考える功利主義では導き出される解が違うことが私たちの生活にも見受けられるからである.


 幸い私たちの多くは,対立を好まない.それは非常にいいことだ.いさかいや争いが不幸をもたらしてしまうのは,先人の経験からもわかっている.しかし,対立関係を成立させないためにそもそも自身を関係の範疇外においてしまうのはよくないのではなかろうか.冷笑主義はもってのほかである.あらゆる思想を尊重すべきだと思う.だが,無思想性はそもそも思想の自由の範疇にあるのだろうか.思想や思考を放棄してしまったなら,何によって人間だと示すのだろうか.私たちの一人ひとりが,個別のパーソナリティをもっていることの証明,機械や他の動物と区別することの根拠というのは一人ひとりが思想を保有しているからではなかろうか.


 勉強せずに政治的発言をしてはいけないのであろうか.間違えたならそれを糧にすればよく萎縮する必要はない.なぜなら私たちは,選挙権を持つ国民である.まぎれもなく意思を伝えるべき存在だろう.危害を加えることを第一としなければどのような政治思想でもかまわないし,いつ思想を切り替えたって誰も文句は言えない.ただ,絶えず自分のつかみとった規範を基に思考し続けることが肝要なのだ.


 目的を果たせず人生を終えてしまうことはむなしい.しかし,目的もなく人生を終えることはもっとむなしい.私たちはときに敗者を罵るが,敗北も勝負した者の称号であって勝負していない人間に言われる筋合いもないだろう.カール・マルクス曰く,「人間は自分自身の歴史を創るが,自分が選んだ状況の下で歴史を創るのではない.彼らのすぐ目の前にある,与えられた過去から受け渡された状況の下で創るのである.」


 人間の命の輝きを見よ.まさにその時である.

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