プロローグ2〝狭の図書館〟


 まず意識したのは、鼻孔をくすぐる香り。


 嗅いだことがないはずなのに、なぜだか懐かしく感じる優しい匂い。その匂いに包まれ、リヒトはポツリと、好きだなこれ、と思った。


 そうして、匂いに誘われるように自然と瞼を待ちあげると――思わず息を呑んだ。


 果てがない。視界に納まりきらないほどにおびただしい量の本棚と本は、まるで果てなき荒野のようにどこまでもどこまでも整然と続いており、終わりを伺うことが叶わない。それも一段だけではなく、リヒトの背の丈以上もある本棚が何段にも連なっており、天井もまた然り。


 上と左右。床以外はどこまでも本棚と本で埋め尽くされた終わりの見えないこの場所を、リヒトは書庫や図書館などと呼んでいいのか判らない。少なくとも、リヒトが知る限り最大規模である王立図書館ですら、此処と比べるのはおこがましいほどに霞んで見える。


 一体、どれだけの時間呆然と立ち尽くしていたのだろうか。

 ようやくリヒトの口から紡がれたのは、掠れた疑問だった。


「…………ここは、どこだ……?」


 あまりに現実離れした光景。

 当然ながら、リヒトにはこんな場所に訪れるのはおろか見た記憶すらない。

 完全に未知なる世界。


 そもそも、自分は此処に来るまで一体なにをしていたのか。

 靄がかかったように朧気な記憶をどうにか探っていくと、一人の少女の声が脳裏をよぎった。


 ――大丈夫っ! 私たちならいけるって!


 それは、朗らかに人々を照らす、太陽のような少女の声。

 そう、たしかあの時も、その声を聞いて本当に大丈夫かもしれないと思ったのだ。明らかに無茶無謀で、本来ならば命がけで止めるべき提案を、その一声で皆がのんでしまった。


 その結果が――――。


「キミ」


 不意に、声がした。

 柔らかく、しかし氷のように冷たい声。

 まるで逆らうことのできない不可視のナニカによって吸い寄せられるように、気づけばそちらを向いていた。


「……いつまでそこで突っ立ってるつもりだ? すまないが、そこでおろおろされると気が散って仕方がなくてね……ほら、そこに座るといい」


 一体いつからそこにいたというのか。

 リヒトの真横で木製の椅子に座するその女性は、左手に携えた本から僅かに視線を外し、リヒトを、次いで質素な机を挟んで対面にある一つの椅子を見やった。


「あ……は、はい…………」


 半ば無意識のうちに、彼女に勧められるまま椅子に腰かけたリヒトは、その間一瞬たりとも彼女から視線を外すことはできなかった。


 床を擦るほどに長く波打つ深紫色の髪。 

 不健康そうな青白い肌と目元のクマ。それとは対照的に健康そうな胸部は質素だが清潔感のあるローブによって包まれている。

 髪と同じく深紫色の瞳は一心に手元の本へと落とされており、まったくリヒトを意に介していないように見えるが、本当に彼女の言うように気が散っていたのだろうか。


 無遠慮に、しかしそれを考える余裕もなく彼女を見つめるリヒトと、彼女の視線が不意に交差した。


「…………そうやって見つめられると、それはそれで気が散るものだね」

「あっ、すみません……」

「いや、構わない。せめてこれを読み終わってからにしようと思っていたが、後回しにしよう。どうせ時間はいくらでもある」


 そう言うと、彼女はパタンと本を閉じる。


「……さて、キミの心中は察する。たくさん聞きたいことはあるだろうが、そのまえに、自己紹介だけさせてもらおうか。私はトゥワイス。此処、プレリュード全知収納所…………通称狭の図書館の司書をしている」

「は、はざまの、図書館……?」


 聞いたこともない単語に、リヒトは思わずオウム返しで応じてしまう。

 一方トゥワイスは、いつのまにか閉じた本の代わりに左手に携えたカップに、ふぅーふぅーと息を吹きかけ、その中に入った液体を口内にゆっくり流し込んでいた。


「…………ふぅ。まぁ、聞いても分からないだろうね。なら、簡単に説明しようか。此処、《狭の図書館》は下界と上界……俗に言う冥界の狭に存在している。小さな異空間さ」

「冥界……って、死んだ人間が行く場所……ですよね?」

「そう。まぁ人間に限ったことではないが。下界で暮らすすべての生命体は、死すればその魂が冥界へと召される。だが極稀に、冥界へと向かう道中で魂が道に迷うことがあるのさ。そしてさらに稀なことだが、ふらふらと彷徨う魂はあらぬ方向、空間へと向かってしまう。元々魂とは二つの空間を行き来するもの故、魂に空間の壁は関係ないからね」

「そのあらぬ空間っていうのが……」

「そう、此処狭の図書館さ」


 あまりに壮大すぎるスケールに、理解が及ばないながらも思わず生唾を飲む。

 普段ならなにを馬鹿なと一蹴するような言葉。

 しかし、リヒトの眼前で優雅に謎の飲料をすする彼女には、無条件で信じさせられる不思議な雰囲気があった。


 それにしても――。


「……やっぱり、死んだんだな、俺」


 そう零し、静かに瞼を瞑目すると……朧気ながら、一人の青年の姿が瞼の裏に映る。


 漆黒の炎をまき散らす、まだ年若い青年。

 彼とのあっけない勝負の中、ユリスたちが死んでいくのは微かに思い出せた。あいつらの死も、魔王の圧倒的な強さも、その時に感じた謎の感情も。しかし、その後自分がどうなったのかまでは、まったく思い出せない。


 だが、今の話を聞くに自分は死んだのだろう。

 死し、冥界へと至る道中、この異空間へと迷い込んだ魂。それが、リヒトの現状であることは想像に難くない。この場所の説明をすると同時に、リヒトの現状を暗に伝えるとは……この女――トゥワイスは、少しばかり食わせ者なのかもしれない。


「……さて、ではキミからの質問を受け付けよう。私に答えられることならば、答えるが?」

「……じゃあ、俺はこれからどうなるんですか? この異空間に迷い込んだ魂は死んだ者の魂。なら、この図書館を出たら本来の道筋通り冥界へ向かう……?」


 トゥワイスの話通りならば、本来リヒトの魂は冥界へ向かうはずだったもの。ならば、此処を出れば再び冥界へ向かうのが自然だ。


 仮説を立てるリヒトを見て、トゥワイスは元より眠たげに細められた瞳を更に少しばかり細め、小さく声を漏らした。


「ほぅ……いや、ふむ。そうだね……本来ならばそうだ。キミの言う通り、今後キミの魂は冥界へと向かっていくだろう。今は此処へ訪れたことにより、私の力でその体や脳を再現しているが、此処を出れば意思など持たないただの魂塊になるからね」


 そう言われ、リヒトは自身の体を見つめる。

 そう……自分の体がある。それは至極当たり前のことで、それ故に気づかなかったが、本来魂だけとなった存在ならば肉体や思考などあるほうがおかしいのだ。


 そう考えた途端、肉体も思考もない、ただの魂塊になってしまうことに対してぞわりと悪寒を感じる。いや、この場所へ来るまでは実際ただの魂塊になっていたわけで――そもそも、こうやって考える思考そのものも仮初の……?


 考えれば考えるほどドツボにはまっていくリヒトを見て、トゥワイスはくすりと笑った。


「……いや、すまない。此処へ来て、キミの人間らしいところを初めて見たものだからね。なにせ、自分が死んだと理解しても動じないうえ、冷静に仮説などたてるものだから……。まぁ、安心したまえ。肉体は仮初だが、思考はキミ自身のもので間違いないよ。脳がないため考える力はないが、その能力そのものは魂に刻まれているものだからね」

「……そうか……」


 未だ、肉体が仮初であることやただの魂塊になったしまうことへの言い知れぬ悪寒がなくなったわけではない。それでも、ひとまずこの思考そのものは自分自身の者だと知り、リヒトは小さく安堵の息を吐いた。


 しかし……リヒトは小さく笑みを浮かべるトゥワイスを見て、この人も笑うんだな、と益体もない思考を浮かべた。


「さて、それをふまえて、キミには私から三つの選択肢を提示することができる」

「三つの選択肢……? 俺は冥界に行くんじゃないんですか?」

「言ったろう。それは此処を出たら、と」

「え……じゃあ」

「そう。一つは、此処を出て魂だけの存在となり、冥界へ召されること。次に、此処にい続けること」


 ゆっくりと、言い聞かせるようにしてその細く白い指を二本立てるトゥワイス。

 その提案に、リヒトは机に身を乗り出して問うた。


「此処にい続ける……って、そんなことができるのんですか……?」

「別に構わないさ。幸い、ここはすべての知識が集まる図書館。退屈はしないと思うが」


 こともなげに、さらっと途轍もないことを言うトゥワイスに、リヒトは押し黙るしかなかった。


 薄っすらとしか覚えていないが、リヒトは自分があの魔王に殺される時、恐怖は抱かなかった確信がある。そもそも死にかけたことは一度や二度じゃないし、死の恐怖にさらされることにはもう慣れた自負がある。

 それでも……さきほど、肉体も意思もないただの魂塊になると考えた時、悪寒のようなものを感じた。それは、恐らく恐怖。


 死ぬときですら恐怖を感じなかった自分が、ただの魂塊になることには恐怖を抱く。自分のことであるにもかかわらず、その違いが理解できず、リヒトは内心不快感に見舞われていた。

 が、それでも魂塊になることに恐怖を感じていることは事実。


 幸いとリヒトは読書が嫌いではないし、トゥワイスの提示した二つ目の選択肢は魅力的だ。

 リヒトは是非もなく、二つ目の選択肢を呑もうとするが――その瞬間、三つ目の選択肢に目を見開いた。


「そして、三つ目……記憶だけを保持した状態で、過去へ行く」

「――――」


 そんなことが、可能なのか……そう問おうとするが、口が開かない。


 ドクン、ドクン。


 仮初であるはずの心臓が、いやに煩く鳴り響く。

 同時に、ユリスたちが死に、魔王の圧倒的な強さを見たときに感じた、謎の感情が姿をのぞかせる。

 そんなリヒトの内心を知ってか知らずか、トゥワイスはその詳細についてを続けていく。


「これは一種の魔術なんだが……生憎と仮初の体では魔力がないため魔術は使えない。代わりに私が行使することになる。それに、あくまでも過去へ向かうのは記憶だけ。今のキミの魂は冥界へ向かうし、過去に行ったところで魂に刻まれている魔法やスキルは使えない……まぁこれに関しては同じ才能を持っているわけだから成長如何で使えるようになるだろうけど」

「……なんで」


 掠れた声で紡がれたのは、そんな言葉だった。


「……なんで、過去に行かなくちゃならないんだ……?」

「…………」

「……どうして……ようやくあのどうしようもない人生から解放されたのに、同じ道筋をまた辿らなくちゃならないんだ……また、あの苦しみを味わうために過去に戻らなくちゃいけないんだ……」


 静かに、しかしこれまでにないほど強く紡がれたリヒトの言葉に、トゥワイスはただただ黙って耳を傾ける。


「もう、嫌なんだよ……裏切られて、利用されて、弄ばれて……今まで必死に耐えてきた。耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて……ようやく、あの人生から解放されて……」


 言っているうちに、リヒトは気づいた。


 何故、死ぬことに対し恐怖を抱かなかった自分が、ただの魂塊になることには恐怖を抱いたのか。

 望んでいたからだ。

 死ぬことを。解放されることを。

 あの時のリヒトにとって、死とは救済。どうしようもない人生から解放される、唯一の方法……だからこそ、リヒトは死に対し恐怖しなかった。なにせ、それを望んでいたのだから。


 だからといって、リヒトに恐怖心がないわけじゃない。むしろ、恐怖することへの恐怖を知っているからこそ、人生からの解放を望んだのだ。そうして、やっとの思いで解放された先で、なおも死と同義……否、それ以上の状態を示唆され、想像すれば、リヒトとて恐怖を抱く。


 もう、嫌なのだ。

 苦しむのは、悲しむのは、痛みを味わうのは、恥をかくのは、惨めな思いをするのは……もう――


「それなのに――」

「――なら、一つ訊いてもいいかな」


 ただ静かにリヒトへとその深紫の瞳を向けていたトゥワイスが、被せるように言う。





「――――ならなんで、キミは嗤っているのかな」





 ビクリ、と。リヒトの肩が小さく震える。


 そう……俯き、長い前髪に隠されていたリヒトの口元は、狂気的なほどに歪み、吊り上がっていた。


「…………」

「キミは、感じたはずだね? 灼炎の少女たちが殺された時。不死鳥の青年の強さを見た時。彼女たちの弱さを知った時。ある感情を感じたはずだ。それが、今キミが嗤っている理由でもある」

「…………」

「キミが自分自身解っていないのなら、代わりに私が教えてあげよう。その、その感情の名前は――――復讐心」

「っ……」

「心当たりがあるだろう? 憎かったんだろう? 恨んでいたんだろう?」

「……そんなことは」

「だったら、キミは何故……自ら命を絶たなかった?」


 トゥワイスの、酷く底冷えするその言葉に、リヒトは大きく息を呑んだ。

 そう……リヒトは、どうしようもない人生を終わらせたかった。解放されたかった。そのために死を、誰より望んでいた――はずなのに。ただの一度として、自殺を考えたことはなかった。人生を終わらせたいのであれば、それが一番てっとりばやかったはずなのに。


「その理由も、復讐心さ。いつか、絶対、必ず、復讐してやる。その感情がキミにあったからこそ、今までキミは自ら命を絶とうとはしなかった。違うかい?」

 

 復讐しようなんて思ったことは、なかった。

 少なくとも、リヒトの覚えている限りでは、なかったはずだ。

 なにせ、住む世界が違う。仕方のないことなのだと、諦めてきた。


 では――俺は一度も憎しみを感じなかったのか?

 こたえは……否。

 裏切られ、利用され、暴力を振るわれ、顔を思い出すだけで溢れ出す憎しみや恨み。そういった感情と同時に、小さく決して伺えないように、しかし確実に生まれていた感情がある。


「……………………そうか。そうだったのか」


 得心した。納得した。

 ようやく。ずっと長い間、胸の奥で燻っていた靄のようなものが晴れた。


「俺は……復讐したかったのか」


 自分を裏切った幼馴染に。

 自分を利用してきた国王に。

 自分を嘲ってきた国民に。

 自分を虐げてきた勇者たちに。


「奴らに……いや、奴らを育てた国に……いや、生み出したこの世界に。復讐だ。俺は、復讐する」


 久しく感じたことのなかった爽快感。

 リヒトの心は、今までにないくらいクリアに透き通っていた。……その中心に、真っ黒い感情を内包して。


「さて、トゥワイス。復讐だ。そのために必要な話を聞かせろ」


 いつの間にか立ち上がっていたリヒトは、ドスンと簡素な椅子に腰を落とすと、対面で冷ややかに光る深紫の瞳をじっと見据え言った。


 気づけばその言葉はもう、敬語ではなかった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






 リヒトが初めてこの場所に来てから、一体どれだけの時間が経っただろうか。

 少なくとも、百年は経ったが、それ以上は数えていない。


「ふぅ……」


 小さく息を吐きながら、相も変わらず簡素な椅子に腰を下ろすと、なんとなく辺りを見回してみる。といっても、あるのはどこまでもどこまでも本棚と本だけ。この景色も、はじめ見たときは圧倒されたものだが、今となっては見慣れたものだ。


「ここともお別れだと思うと、少しばかり思うところがある……ような気がしなくもなくもない……やはりないな」


 どうやら、リヒトの胸には感傷などなかったらしい。


 視線を本棚から戻すと、自然と対面の椅子が映る。リヒトの椅子と何一つ変わらない、簡素な木製の椅子。普段ならばそこに一人の女性が座っているはずだが……。


「キミ」


 不意に後方から声をかけられる。

 後方へ視線をやると、たった今幻想で描いていた女性が立っていた。


「……相変わらずどこにいるかわからんな」

「そうかい? 私は普通にしているだけだけれど……」


 そう言って小首をかしげる彼女の姿は、初めて会った時と寸分違わない。相も変わらず眠そうに閉じられた瞼の奥には深紫の瞳が収まっており、長い髪は地面を擦っている。


「で、準備はできたんだな?」

「……あぁ。本当に行くんだね?」

「はじめに過去に行くよう選択肢を提示したのはあんただろ」

「そうだが……もう、本は読まなくていいのかい? まだ半分も読んでいないだろう?」

「必要ない」

「だったら……」

「くどい」


 なおも食い下がらんとするトゥワイスに、リヒトはぴしゃりと言ってのける。

 初対面ではあれだけ淡々としていたのに……まぁあれだけ長い間同じ空間で生活してれば愛着は沸くか。リヒトとて、この場所を離れることに思うことなど微塵もないが、トゥワイスと別れることには……わずかばかりの感傷がある。


「……俺にはやることがある。今まで此処にいたのも、復讐のためだ」


 そう言って、リヒトは数多ある本の中から適当に一冊手に取る。その表紙をコンコンとたたいて見せるリヒトに、トゥワイスは小さく苦笑を浮かべた。


 そう、リヒトが云万年という膨大な時間をこの図書館にいた理由……それは読書だ。

 この図書館には、この世界のありとあらゆる事柄がおさまっている。それこそ、禁忌とされる魔術や太古の神話、個人情報までなんでもだ。


 リヒトはこの世で最も頼りになる力は知識だと考えている。

 武力も、魔力も、すべては知識あってのもの。ましてや、前者二つを持っていないリヒトにとって、唯一得られる力であり、前者二つを手に入れるためにも必要不可欠な力だ。

 事実、もしもリヒトが何の準備もせずに過去へ行ったところで、力も金も地位もない身では、前回と全く同じ道筋を辿ることになる。故に、まず必要なのは知識。幸い、此処はその知識が無限にある場所だ。復讐のため、此処に来てから今まで、必要度の高い本をかき集めては、そのほとんどの時間を読書に費やしてきた。


「……わかった。ならば、とっととやってしまおう。長びかせても未練が残るだけだ」


 どうやら納得してくれたらしいトゥワイスが、その細い五指をリヒトに向けてくる。


 時間遡行の魔術。より詳しく言うのであれば、リヒトの記憶のみを過去の自身の肉体へ飛ばす大魔術。トゥワイス曰く魔力消費が半端じゃないうえ、準備もかかるらしく、そう簡単にできるものではないらしい。……ちなみに、膨大な量の本を読んできたが、その魔術のことが書かれた本は結局なかった。


 一応、此処の図書館にある本はそれぞれランク分けされており、最低がE~最高がSの六段階だ。そして、個人に与えられる閲覧権限より上のランクの本は読めないらしい。リヒトは閲覧権限B。よって、B,C,D,Eのランクの本が読める。なんの基準でランク分けされているのか、閲覧権限を上げる方法は、などトゥワイスに幾度となく訊いてきたが、結局最後の最後まで教えてくれなかった。曰く、いずれ解る、かもしれない。らしい。


「では、いくぞ」

「あぁ」


 いつも眠たげなトゥワイスの眼が一瞬、わずかに開かれる。


 同時、トゥワイスの五指にそれぞれ、黒い光が二、白い光が三現れる。それらは一瞬発光すると、交じり合い、一つの拳大の玉になった。


 不意にトゥワイスの目元がいつも以上に細められ、薄く微笑んだ。

 それは、ここ最近何度か目にしたトゥワイスの笑み。昔なら特別なことがないと笑わなかった彼女だが、最近は不意に笑みを見せることが多かったのだ。


 ……しかし、今の彼女の笑みは、いつもとは違う。少しばかり、寂寥感を滲ませた笑み。


「……キミとの時間は、まぁ悪くなかった。復讐が達成されることを祈ってるよ」

「……あぁ」


 黒白の光玉が、リヒトに向かってゆっくりと進む。

 それを、リヒトはただただ見つめていた。


 これで、最後だ。

 誰かと本心から笑みを交わすことも。

 誰かの魔術を信じ、甘んじて受け入れようとするのも。

 誰かとの別れに、一抹の寂しさを感じるのも。


 これから出会う奴らは、全員敵。

 誰も信じない。信じるのは、己のみ。


「じゃあ」


 トゥワイスの笑みに、リヒトもまた、わずかに口許を綻ばせた。


 次の瞬間、視界が黒と白に染まる。

 相反する二つのモノが混ざり合うような、自分という存在が不確かなものになるような、ぐちゃぐちゃな感覚。

 そして――――――。



 リヒトの耳に入ってきたのは、自分の泣き叫ぶ声だった。






◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆






「行ったか……」


 私は、つい数秒前まで彼がいた場所をしばし見つめる。

 そこには既になにもない。この場において唯一伺える果て……真っ白な床が伸びているだけだ。


 彼がここに来てから、云万年という時を同じ空間で過ごした。

 彼も私も本を読んでいるだけ。たまにある会話も、復讐に必要な確認だったり私がたまに入れる紅茶の種類を訊くだけだったが、それでも、悪くない時間だったように思う。少なくとも、一人になった途端一抹の寂しさを感じる程度には。


 余談だが、私はこの云万年という表現が好きだった。もちろん、私ならば彼が此処に来てからの正確な時間を把握できる。それでもなお、まるで淡く永遠に続くような、この曖昧な表現が好きだった。


「ふぅ……これで私の仕事も無事完了だ。あとは……見守るだけか」


 椅子に座る際、小さく息を吐くのが私の癖なのだが、今回ばかりは純粋な疲労から息を吐いた。


 長い時間生きてきた私でも、今まで数回しか使ったことのない大魔術の行使。そもそも、〝特定の条件下〟でしか使用が許されていないのに、その条件下すら滅多に訪れないレアケース。

 ただでさえ面倒なうえ、慣れないことをしたからか疲労感が波のように押し寄せてくる。


「しかし……結局聞いてこなかったな」


 長い時間ともに過ごしたが、ついぞ彼は訊いてこなかったことがある。

 それは、〝なぜ私がそこまでするのか〟だ。


 彼も疑問に思ったはずだ。私が時間遡行の魔術について説明した時、そんな面倒な魔術を使ってまで自分を過去に飛ばす理由はなんなのか。説明をしたあの時、既に彼は私の怠け性を知っていたはずなので、疑問は強かったはずだ。

 それでも、結局彼が訊いてこなかったのは自分が復讐できればそれでよかったのか、訊いても正直には教えないと分かっていたからか……はたまた、私のことを信じていたからか。


「彼の性格的に二番目だとは思うが……どうだろう。まぁ、仮に二番目だったとして、大正解だね。その時、私はこう言っただろう『いずれ分かる時が来る』ってね。思わせぶりなセリフを言ってみたかった気はするけど……残念だ」


 ふるふると首を振りながら、肩をすくめる。こんなリアクションも、彼と会って身に着けたものだ。

 私は質素なローブの中に手を入れると、一冊の本を取り出した。

 彼が此処に来た時に読んでいた本。結局、彼がいる間は読むことはなかったから、何年ぶりに手に取ったことになるのだろうか。


 私は眼を細めると、その本の表紙を優しく撫でた。


「次会うと時……きっとキミは、私の正体を知っているのだろうね。…………そうなれば、これまでの距離感ではいられない。割と好きな距離感だったんだけどね」


 白く細い指で撫でるその表紙には質素な書体でタイトルが書かれていた。


『リヒト・クレール』


 この《狭の図書館》において、最高ランクであるSに位置する、個人についての本。

 私はその本をゆっくり開き、小さく笑った。




「…………キミは……いや、貴方様は。まだ死んではならないお方。また、会おう。その時は――――」

 

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