サウザス習作集(2008年)

海老祭り

「ただいま」

 ヘンリックはがらんとして誰もいない離宮の居室に、そう呼ばわった。

 戻ってきたらそう言えと、ヘレンと約束されられているので、言わなかったら半殺しにされる。

 やがてその声を聞きつけたらしい足音が、どたどたと走ってきた。

 木剣を振り回した絶好調の長男だった。

 数歩前から勢いよく跳躍し、斬りかかってきたジンを、ヘンリックは扉の前で、仕方なく避けた。避けないと本当に力一杯殴られることは実験済みだったからだ。

「おかえりヘンリック、遊ぼうぜ」

 木剣を見せて、ジンは満面の笑みだった。

「お前のところに帰ってきたんじゃねえから。ヘレンはどこだ」

 愛しい男が帰ってきてやったというのに、お帰りなさいとか、抱擁とか、熱い口付けとか、そういうのないのか。

「母上はめしを作っているよ」

 ジンは首をめぐらして奥を指した。

 遅れて離宮の奥から走ってきたイルスが、ぜえぜえ言いながら辿り着いて、ジンのシャツの裾を掴んだ。

「じゃあまた厨房か、あいつは」

 うんざりしてヘンリックが言うと、なんとか口を挟めたというような気合いを感じる声で、イルスが言った。

「きょうは、エビだから」

 海老?

 木剣を帯にはさんで、にこにこしているジンを、ヘンリックはしかめた顔で見下ろした。すると息子は、弟の言うとおりだというように頷いて見せた。



「さあ今日は海老祭りよ! どんどん食べなさい、みんな」

 歌うようにそう言って、ヘレンは紙を敷いた食卓のうえに、バケツからざらーっと、真っ赤にゆであがった小エビをぶちまけた。食卓全体に小山のように流れおちてきた海老からは、猛烈に海老の匂いがした。

 海老だ、と、腹ぺこだったらしい餓鬼どもは嬉しげに騒いでいる。

「なんでこんなに海老ばっかりあるんだ」

 あぜんとして、ヘンリックは、鼻歌を歌いながらイルスの隣に腰掛けるヘレンに問いかけた。

 昔は並んで座っていたのに、ジンがヘレンの膝に座っていられなくなり、そのあとイルスが生まれたので、いつのまにかヘンリックは追い出され、彼女の向かいの席にジンと並んで座らされた。ヘレンはイルスの食事の面倒をみてやらないといけないらしい。

 ほっときゃ勝手に食うだろと思うが、ヘレンが何くれと世話を焼くせいで、イルスは甘ったれていて、やたらと不器用だった。

 幼児なんだから普通だ、ジンもそうだっただろうとヘレンは言うが、ヘンリックには記憶がなかった。上のは放置でなんとでもなった。

「ヘレン、なんでこんなに海老ばっかりあるんだよって訊いてんだろうが」

 ヘレンがイルスににこにこしていて返事をしないので、腹が立って、ヘンリックは食卓の下にある彼女の足を蹴った。痛いわねとヘレンは器用に、イルスににこやかな顔を向けたまま、凄みのある声だけこちらに向けた。

「あんた海老好きでしょ」

 ヘレンにそう言われると、そんなような気がヘンリックはした。

 だいたい、食うときはぼけっとしているので、何が好きかなんざ食いながら考えたことがねえ。

 食事のときは、俺はぼけっとしていたいんだ。それが好きなんだ。だけど最近なぜか、ここに来ると、ぼけっとして飯を食った気がしない。

「そろそろ海老の美味しい季節だからと思って、守衛に来てるメレドンの子たちに市場に買いに行ってもらったの。そしたらこんなに山ほど届いちゃって」

「なんでメレドンの連中がお前の買い物部隊をやってんだ」

 当たり前のように言い、イルスに海老をむいてやった指を舐めているヘレンに、ヘンリックは問いただした。

「なんでって……なんでだったかな。ああ、そうよ、ヘレン様、何かご用はありませんか、なんつって、みんな暇そうに尻尾パタパタだったから、海老買ってきてって頼んだの」

 あいつらヘレンに粉かけやがって。死刑。

 そう思ったが、ヘンリックは渋面になるだけで我慢した。うっかりヘレンの前でそんなこと言おうもんなら、まず俺が死刑だから。

 尽くしてくれる部下は家族だから。大事にしなきゃ罰があたるんだから。

「ほんと、慣れればけっこう可愛い子たちなのよねえ」

 うっふっふと含みのある笑い方をして、ヘレンはそう言った。

 それは誰だと、思わずブチッときて、ヘンリックは脳裏の隊員名簿を繰った。あいつか、それともあいつか、俺の半殺しリストに載る野郎は。

「ぼけっとしてないで海老食えよ、ヘンリック」

 横からジンが、海老を食いながらそう言った。

 小器用な長男はヘレンに放置されていたが、上手くは殻がむけないようで、まだらに剥けた海老を、どうもせっかちな性分らしく、気にせずそのまま食っていた。

 それでいいんだ、男なんてもんは。腹がふくれれば何でもいいんだ。餓鬼なんざ、ほっときゃ勝手に育つんだ。腹が減ればそこらへんにあるもんを、手前で勝手に食えばいいんだ。いちいち世話を焼いてたら、弱い男になっちまうだろ。

 そう思ってヘンリックは長男のがさつな食いっぷりに満足したが、ふと見ると、食卓の向かいで、イルスがあーんと口をあけ、ヘレンに海老を入れてもらっているのが見えた。その有様に、ヘンリックはやや呆然とした。

「なにやってんだ、それは。ヘレン、いいかげんにしろ。そいつは何歳なんだ」

「三歳でしょう。あんた自分の息子の歳も、あたしに訊かなきゃわかんないの?」

「そういう話じゃねえんだよ。イルス、てめえ自分で食え。できんだろ。男が三つにもなって、赤ん坊みたいにヘレンとべたべたしやがって、情けねえと思わねえのか」

 思わずヘンリックがそう詰ると、横にいたジンが海老の殻をあさってのほうに吹っ飛ばしながら、そうだイルスは情けねえからと合いの手を入れてきた。

 何かっちゃすぐぴいぴい泣くし、走るの遅えし、俺がちょっと殴ったぐらいで、すぐ母上抱っこでタレこむし、ほんと情けねえ弟だよ。そんなんで本当に一人前の剣士になれんのかと、ジンはこの時とばかりに滔々とイルスを批判した。よっぽど恨みがたまっているらしかった。

 兄貴に文句を言われて、イルスは脳天をがつんとやられたような顔をして、椅子のうえであわあわしていたが、やがて意を決したように、目の前の山から海老を一匹ひっつかんで言った。

「俺、じぶんで食うから」

 イルスはなぜか、ジンにではなく、ヘンリックにそう言い訳をした。

 ああそうしやがれと思って、ヘンリックは頷いておいた。ジンは小悪魔的に、けっけと笑っていた。

 しかしイルスは不器用で、もたもた海老をすり潰すだけで、一向に食事が進まなかった。

 しかしヘンリックは気にせず自分の晩飯にとりかかった。ほっときゃいいんだ餓鬼なんか。

 ヘレンは少しの間、イルスが下手くそに食う様を眺めていたが、自分も腹が減っているせいか、子供の好きに任せて、放っておくことにしたらしい。黙々と海老を剥き、食べ始める女の食欲は、なかなか旺盛だった。

 ヘレンは昔からとにかく、慎みのかけらもなく食う女だった。

 普通、女なんてもんは、いかに自分の胃袋が小さいかを誇示するほうに傾き、一緒に飯を食っていても、ついばむ程度に食うのが精々だ。ちょっと摘んでから、ああ私もう食べられないわなんて言って、恥ずかしげに微笑むのが、男にうけると思ってるような連中なのだ。

 ヘレンのように、いきなりどんぶり飯をがつがつ食ったりしない。

 今も変わらず、何ら遠慮無く海老を貪り食っている女の姿を見ていると、ヘンリックは内心で、お前は実は完膚無きまでに俺に気がないんじゃないかという、不吉な気分になってきた。

 そういやこいつ、一回でも俺のことを好きだと言ったことがあったっけ。

 いや、そりゃあ、あっただろう。一回くらいあるはずだ。

 それがいつだったか、全然思い出せないけど。

 まさか何にも無しのまま、餓鬼をふたりも産むわけないだろ。

 頭の中の記憶をさかのぼり、ヘンリックは考えたが、いくら時を戻しても、思い当たるものがなかった。他の女から聞いた歯の浮くような愛の言葉は、辞書がつくれるくらいあったが、とにかくヘレンがそれっぽいことを言ったような記憶が、ちらっとも出てこない。

 ええ、と思って、ヘンリックは愕然とし、自分の皿を見た。

 まとめて剥いてから食うはずの海老が、そこには一尾もなかった。

 えええ、と思って隣を見ると、ジンが盗んだ剥き海老を、満足げに食っているところだった。

「てめえ、なんで俺の皿から食ってんだよ」

 びっくりしてそう訊くと、ジンはぽかんとした顔をした。

「取っても怒んなかったじゃん。剥いてくれてんのかと思った」

「んなわけねえだろ。今まで俺がいっぺんでもお前にそんなことしたか」

「えー。昔はしてたじゃん」

 ジンは口をとがらせ、もっともらしく答えた。

 その減らず口な態度に、ヘンリックはなんだとこのやろうと思ったが、考えてみればジンの言うことは正しかった。

 こいつがまだ舌っ足らずだったころには、ぼけっと飯を食っていると、自分にも食わせろとねだりに来たので、どうしたもんか分からず、皿から分けてやっていた。

 思い出したからには、知るかとも言いづらい。

 そういう顔で睨むと、ジンはにやっとした。自分と瓜二つな、しかし人を拒むところのない、悪童のツラで。

 ジンが銀の匙でヘンリックの皿を叩いた。

「はやく剥けよ」

 自分の取り分のつもりらしい、まだ殻のついた海老をつかみ取って、ジンはヘンリックの皿に入れさえした。

 それを見ていたヘレンが、にやりとして、何をするのかと思えば、自分も海老をつかんで、ヘンリックの皿にざらっと足した。

「あたしのも剥いて、面倒くさいから」

「ヘレン」

 何となくぎょっとして、ヘンリックはそれを見た。なんだか彼女がちょっと甘えたようだったからだ。

 にこにこと待つ顔で、ヘレンは急に言った。

「あたし、海老を剥いてくれる男が、世界一好き」

 その言葉が心臓にぐさっと来たので、ヘンリックは死にそうになって、脱力して椅子の背に仰け反った。

「くっそ、海老ぐらいで、そんな奥の手を……」

 お前いま初めて俺のことを好きって言ったんだぞ。いや、厳密には違うか、ヘレンは海老を剥く男が好きだと言っただけで、俺はまだ海老を剥いてやってないから。

 負けるもんかとヘンリックは身を起こし、ヘレンに向き直った。

 アルマの潮が満ちてきて、本当にこの女に抵抗できなくなった時ならいざ知らず、今は幸い引き潮だ。こういう時に勝たなくて、いつ勝てるっていうんだ。

 自分でやれと皿の中身を投げ返しかけたとき、隣の席からジンの手が伸びてきて、代わりにそれを鷲掴んでいった。

「じゃあ母上のは俺が剥いてやるよ。待ってて」

 にこにこと機嫌よく、息子はそう言った。それは絶妙の間合いだった。

 ヘレンが優しい息子に、にっこりと笑いかけるのを、ヘンリックは眺め、それから、楽しげに仕事にかかる長男を見た。

 こいつ。

 俺からあの跳躍を盗んだだけじゃ飽きたらず。

 女ったらしまで似やがって。

 むかつくような、末恐ろしいようなだ。

「いいよ、てめえは引っ込んでろジン。俺がやるから」

 腹が立ったので、ヘンリックは息子が途中まで剥いた海老をひったくって、食ってやった。それにジンが衝撃を受けた顔をした。

「ずるいよ」

「俺の前に割って入ろうなんざ十年早いさ」

 まあ、それがヘレンのこととなれば、何十年たとうが、実の息子のお前が勝てるわけないが。ざまあみろという目で見てやると、ジンはかっときたらしかった。

 息子はものすごい意気込みで海老を剥き始めた。

 笑いながら対抗してやると、ジンは見るからに焦って、やがて殆ど剥けてきたヘンリックの手の中の海老に、がぶりと食らいついてきた。

 そうやってお互いの海老を食い合うせいで、ちっともヘレンの皿には海老が行かない。

 楽しげに焦れたふうで、ヘレンが皿を叩いた。

「早くしてよ、あたし飢え死にしそう」

 笑ってそう言うヘレンの隣で、イルスが突然、できたと叫んだ。

 なにが出来たかと驚いて皆が見ると、イルスはたぶん海老だろうという、ひょろひょろになった、みみっちい肉を振りかざしていた。その顔は真剣そのものだった。

「あら、できたじゃない、イルス。あんたもやるわね」

 にっこりとしてやって、ヘレンは海老の汁のついた指で、すでに海老まみれのイルスの小さい頬を、気にせずくすぐるように撫でてやった。

「これ、母上にやるから。あーんして」

 そう言いながら、イルスはなぜか自分も口をあけていた。ヘレンはくすぐったそうに笑って、言われるまま口を開け、イルスの指から海老を食べさせられていた。

「ありがと、イルス。海老むいてくれて。世の中の男の中で、あんたが一番好きよ」

 冗談なのか、ヘレンは本気に聞こえる声でイルスを誉め、息子の体をぎゅうっと強く抱きしめてやった。イルスはその胸で、ひどく得意げだった。

 隣の席で、ジンがうめいて、持っていた海老を投げるのが見えた。

「俺、だめ、もうやる気なし」

 椅子で悶えるジンの気持ちに、ヘンリックは賛成だった。

 これが他のやつだったら半殺しというか、もう死刑。

 だがイルスだとそうもいかない。

 こんな餓鬼相手に、必死になれるもんか。男の沽券に関わる。

「むかつく」

 ジンが端的にそう言って、目の前にあった海老を、椅子に戻ったイルスに投げた。殻のついたままの海老が顔にあたって、イルスはぎゃあと喚いたが、向こうも面子があるのか、すぐにジンに投げつけ返しはじめた。

 ヘレンは食べ物を粗末にするなと兄弟たちを叱ったが、ヘンリックは心のすみで、長男のほうを応援した。

 もっとやれジン。あいつを泣かせてやれ。

 期待通り、イルスはすぐに兄の剣幕に負けて、ぴいぴい泣き出した。いい気味だった。うるさい餓鬼だとヘンリックは微笑んだ。

 それに気付いたらしいイルスは、ぴょんと椅子から飛び降りると、兄の攻撃をかいくぐり、ヘンリックの椅子の下にやってきた。足を掴んでくる小さい手を、ヘンリックは感じた。

 イルスは母親に躾けられて、日頃めったに人の体に触れないようにしているらしかった。触れると未来視が始まることがあるらしい。それから守るように、ヘレンはどこか偏執的にイルスをかばい、他人には許さないくせに、自分はイルスを閉じこめる繭のように抱いてばかりいる。

 ジンが弟とじゃれるのも、ヘレンには心配なようだった。人の死を視る力を持ったイルスが、兄の死を未来視するのではないかと。

 しかし、そんなことは実際には未だかつて無い。ヘレンはたぶん、恐れすぎているのだ。芯の強い性分に似合わず、子供のこととなると、足が震えるらしかった。

 そんなヘレンの内心を汲んでか、イルスはいつも物欲しげだが、それでもおとなしく手を引っ込める。

 あるいは決然として、すがりつく。

 そういう手に、どういうふうに応えるべきか、ヘンリックには皆目見当がつかない。

 普通の餓鬼にするようにじゃ、まずいのか。たとえばジンを蹴散らして、これまで付き合ってきたように。

「父上。兄上が、俺をいじめるよ」

 それが途方もない悪だというように、イルスは椅子の下から訴えてきた。

「それがどうした、俺が知るかよ。兄弟ゲンカに俺を巻き込むな」

 イルスを引き剥がそうと、足を振ってやると、弟のほうは、頑固にすがりついていた。

 ヘレンは今にもイルスがはっとして、父上の死を視たと口走るのではという顔を、曖昧な笑みの下に隠していた。

 別にいいじゃねえか、それでも。ろくな死に方しないだろうという覚悟はできてる。できればただ、息子たちがお前を守れるくらいに育つまで、命があればと願いはするが。

 ヘンリックは不安げな女の顔に、見つめる目でそう語りかけたが、ヘレンは気付かないようだった。

 つくづく鈍い女だからさ。

 それとも、案外なにもかも分かった上で、黙っていられる女なのか。

「父上」

 食卓の下の薄暗がりから、イルスが呼びかけてきた。

「俺も膝にのっていい?」

 薄闇の中でイルスの目はかすかに光るかのようだった。

「いいわけねえだろ、鬱陶しいんだよ」

 ヘンリックが答えると、イルスはたじろいだ顔をした。

 昔、ジンがこれぐらいだったころには、同じことを答えても、やつは全く気にしなかった。自分が乗りたきゃ、膝だろうが肩だろうが、猿みたいに飛びついてきて、納得するまで居座っていた。

「なんでだめなの。兄上はいいの」

 どうやらジンが自慢を垂れたらしかった。弟をやっつけたつもりで、意気揚々と海老を食っているジンを、ヘンリックは横目に眺めた。

 お前はほんとに、大した奴だよ。自分の欲に正直で。

 苦笑とともにそう思い、ヘンリックは食卓の下のイルスをのぞき込んだ。

「イルス、お前なあ。欲しいもんがあるときは、ぼけっと待ってないで、自分の手で掴め。そうしないとな、手に入らないもののほうが、世の中には多いんだ」

 ジンが生まれつき知っていたらしい教訓を、ヘンリックはイルスに教えてやった。

 こいつは、つくづくヘレンに似たんだなと、ヘンリックは息子を眺めた。ヘレンは、頑固で気丈なようでいて、なぜかいつも、黙って待っている女だ。運命を受け入れて。

 俺にはそういうお前が、いつも、もどかしいんだよ。

 たまには運命に、逆らってみろよ。俺ほどじゃなくても、ちょっとはゴネてみたって、罰はあたんないだろ。

 そう思って待っていると、イルスが膝を掴んで、這いのぼってきた。

 隣に現れた弟の頭に、ジンがぎょっとたようだった。

 その顔を見るイルスは、どことなく勝ち誇っていた。

「えびを食おうっと」

 イルスはどこかとぼけたような声でそう言い、ヘンリックの脚の上に座って、黙々と海老の殻を剥きだした。

 それがあまりに遅かったので、ヘンリックは焦れて、しかたなく新しい海老をむいて、皿に置いてやった。しかしイルスはすぐにはそれに手をつけず、自分が剥き終えたほうを、満足げに口に入れ、それから与えられたほうを、いかにも美味そうに食った。

 ジンが情けない顔をしたので、ヘンリックは隣の皿にも海老をくれてやった。

 そうやって、ふたりのチビに満腹するまで食わせていると、自分は全く腹が満ちたような気がしないまま、食べる気力もなくなってきた。

 その様子を、微笑んで見ていたヘレンが、立ち上がってやってきて、手に持っていた皿から、剥いた海老をぶらぶらとヘンリックの眼前に振って見せた。

「あーんして、父上」

 からかう口調で、ヘレンは言った。

 頭を殴られたような気がして、ヘンリックは愕然とヘレンの顔を見た。

「誰がお前の父上だ。俺のことは、ヘンリックと呼べ」

 思わず強い口調になると、ヘレンは笑った。

「ありゃまあ、すぐ怒るから。それじゃあヘンリック、あんたには、あたしが食べさせてあげるから。そしたら、みんなでお腹一杯になれるわよ」

「俺はひとりでぼけっとして飯を食いてえよ」

 ぼやく口に、ヘレンが海老を押し込んできた。

 唇についた潮っぽい味を舐めるついでに、ヘンリックはヘレンの指も舐めた。それを女は微笑む目で許した。

「海老祭りは、もう勘弁してくれ」

「大丈夫。明日は別のだから。もう用意してあるの」

 頷きながら答えるヘレンの言葉を、イルスが膝の上でそわそわと聞いていた。

 母親が言い終えるやいなや、自分に言わせろという早口で、イルスが教えてきた。

「父上、明日は、カニだから」

 ヘンリックは倒れそうだった。

「メレドンの子たちに、買い物を頼んだら、ぎゃって思うくらい、沢山買って来られちゃって。厨房が蟹だらけ。もうね、真っ赤っか」

 上機嫌に、ヘレンはイルスの話を継いでいた。

 椅子の背に仰け反って、ヘンリックは顔をしかめたまま目を閉じた。

 そうか。明日は、カニ祭りか。

 海老祭りと、痛さにかけては大差ねえだろ。

 俺、明日はよそで晩飯を食おうかなと、そんな考えがよぎったが、たぶんそれは無理な話だった。

 きっと明日も、ここに戻ってくる。そして、ただいまと言う。

 この女に。この餓鬼どもに。

 言わなかったら、ヘレンに半殺しにされるからだが。

 もしそれを言う相手がいなかったら、たぶんとっくの昔に自分は死んでいた。

 そんなような気がする。

「早く帰ってこいよ、ヘンリック。俺、カニ好きだから」

 隣の席から、ジンが言った。

 ヘンリックはそれに、曖昧に頷いておいた。


《おしまい》

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