流星群(3)
子供はすぐに部屋に馴染んだ。
いつも自分が入り浸っている派閥の部屋(サロン)に伴えばよかったのかもしれないが、なぜか恥ずかしい気がして、エレンディラは彼を自分の居室に連れて行った。
女官に甘い砂糖菓子を沢山用意させ、飲み物にと果実水を注文した。
子供とはいえ王族なのだからと、客用の円座を上座にしつらえさせたが、子供はそこには座らず、エレンディラの膝に座った。
それはおかしいと思いはしたが、止め立てする気が不思議と起きない。
他人のふところに、するりと入る技を、この子は持っているらしかった。
そうして行儀よくちんまり座っていると、まるで子猫かなにかのようで、エレンディラは子供の可愛さに心を癒やされた。
「殿下、お菓子をお召し上がりください。ですが晩餐に障りますので、ほどほどになさってくださいね」
美しく菓子を盛りつけた盆を、膝の上にいる童子にさしだしてやると、彼は少し迷ってから、ひとつ選んで口に入れた。菓子を噛み砕く音が聞こえた。
「俺は晩餐にはいかないよ」
通路で見た時と同じように、笑っているのだろうと思えるにこやかな気配の声で、子供は言った。
「まあ、なぜでございますか」
「兄上が行ってはならぬと仰せだから、行ったことがない」
どこか舌足らずな声で、子供は宮廷人らしい敬語で喋った。
エレンディラは顔をしかめた。そう言われれば、この子を晩餐の広間(ダロワージ)で見たことがない。
でも、そんなおかしな事があるだろうか。王族はみな、あの席に自分のための場所を与えられていて、そこで食事をとるものだ。朝も昼も夜も。
あるいは、この子は病気なのだろうか。公の席に出られないような。
お菓子をあげて平気だったかしらと、エレンディラは心配になった。
「お菓子は包んでさしあげますから、殿下の兄上様に、召し上がっても平気かどうか、お尋ねになってからになさってはいかがでしょうか」
子供の手から、菓子の盆を遠ざけて、やんわりとエレンディラは止めた。
子供は首をかしげて、こちらを振り返った。その顔はにこにこしていた。
「訊けば兄上は、食べてはならぬと仰るだろう。今はそういう時期なのだ」
「そういう時期とはなんでございますか」
「俺が何日絶食できるか、試しておいでだ」
にこやかに語られた子供の話に、エレンディラは唖然とした。
膝の上にある子供の脚が、痩せていた。
「それは、また、……なぜですか」
エレンディラは思わず訊ねた。すると子供は、笑って答えた。
「俺が飢えるのが、おもしろいからだろう」
子供はにこにこと、こちらの様子をうかがっているような顔をしていた。
「食べてもよいか、エレンディラ」
許しを待っている口調で、従順そうに子供は訊ねてきた。だめだと言えば、諦めるというふうに。
「どうぞお召しか上がりください」
逡巡する自分を感じながら、エレンディラはほとんど無意識にそう答えてやっていた。
子供は機嫌良く、盆に向き直り、ふたつめの菓子を噛み砕いた。
「殿下の兄上様は、どなたでしょうか」
肩の下までで切りそろえる幼髪をした、黒々とした子供の髪を、エレンディラは見下ろした。
「お前たちの新星だ」
そう答える声は、深く斬り込んでくるようだった。
アズレル様。
自分が掴み損ねた星の名を、エレンディラは反芻した。
この子はアズレル様の同腹の弟なのか。いや、アズレル様には弟はいないはず。
ではなぜこの子は、アズレル様を兄上と呼ぶのか。単に王族で、自分より年上だからか。
エレンディラはアズレルを擁する派閥に属している建前だったが、女の身であるため、なんとなく男ばかりが群れ集うアズレルの派閥の部屋(サロン)には近寄りがたかった。連中はいつも強い麻薬(アスラ)か、心酔しているアズレルの論説に酔っていて、どことなく妙なのだ。
だから余程の事がない限り、エレンディラは、自分の面倒を見てくれる兄(デン)のいる、女ばかりの部屋にこもっているほうが、安心していられた。
そんなことだからイェズラムに出し抜かれ、アズレル殿下のおぼえ目出度からずで、あっさりと敗北したのかもしれないが。
だけどあそこは怖いのだ。アズレルが支配する、赤い扉の向こう側は。
だが、もしもいずれ、アズレル殿下が新星として昇る日には、あの扉の向こう側の世界が、その外へと漏れ出てきて、この宮廷を包み込む。
そうなったら、どこへ逃げればいいかしら。
エレンディラは、ふと真面目にそう思った。
そんな場所があるはずはない。宮廷と、玉座の間(ダロワージ)は、竜の涙である自分にとって、世界の全てだ。戦場で戦う時を別にすれば。
その考えに至った時、ふと、意気揚々と出陣していくイェズラムの姿が思い出された。タンジールに戻るとき、彼は命を失うかもしれぬ戦地に赴く時より、暗い目をしていた。
武功を上げられる戦が好きで、宮廷での気の向かない権謀術数が、嫌いだからだと思っていたわ。
膝の上の子供は、機嫌よく、こりこりと音を立てて菓子を食べていた。
その仕草は行儀がよく、とても飢えているようには見えなかった。
きっとこの子は嘘をついているのだろうと、エレンディラは自分をなだめた。
子供のころには、よくあることですもの。
そうでないと、お気の毒。
内心に独りごちて、エレンディラが子供の髪を撫でてみようとした時、不意にこつこつと、扉を叩く音がした。
女官が入ってきて、来客を告げた。
許可を待つ気もなさげな図々しさで、来客は踏み込んできた。
エル・イェズラムだった。
いつも無表情でいる少年の顔が、怒ったように眉間に皺を寄せていた。
ぽかんとして、エレンディラは自分たちの前に立つ彼を見上げた。
挨拶くらい、したらどう。
「なぜリューズを連れていったのだ、エル・エレンディラ。長老会のそばで待たせてあったはずだ」
「お腹が空いたとお困りだったので、間食などさしあげようと思っただけです」
半ば嘘だったが、結果的にはそういうことだった。
エレンディラは、不機嫌らしい好敵手の顔をまっすぐ睨んだ。
「殿下はあなたがお嫌いだそうです、エル・イェズラム」
「連れて帰る」
話に乗らず、イェズラムは静かに断言した。
膝の上にいる子供は、じっと顔をあげて、イェズラムを見ているらしかった。
その顔が、まったく微笑んでいないような気がして、エレンディラは薄ら寒くなった。
「ご自由になさって。ただ、わたくしは今夜、あなたに敗北したのがあまりに屈辱的で、つらいので、晩餐には出向かないつもりです。この部屋で食事をとります」
淡々と切り出すと、イェズラムは、この女はなにを言うのかという目で、こちらを見下ろしてきた。
「もしも殿下が晩餐の明けるまでここにいらして、私の膳から召し上がっても、たぶんわたくしは気付かないでしょう。なにしろ、今夜はぼんやりしておりますから」
そう提案すると、イェズラムは顔をしかめた。
彼が悩んでいるらしいことは、エレンディラには読み取れた。
なにを迷うことがあるのだろうかと、エレンディラには不思議だった。
やがて、ひとつため息をもらしてから、イェズラムは懐にあった紙と筆を取り出した。
先程、長老会の部屋(サロン)で、暗号文を書かされていたものだった。
すでに書き付けられた裏を使って、イェズラムはなにかをさらさらと書き、エレンディラに示した。
それは暗号文だった。
しかしエレンディラはそれを読むことに精通していた。
たぶん、あんな場でなければ、イェズラムよりも早く、解読も翻訳もできたのだ。
そこにはこう書かれてあった。
アズレル様は本当に新星か。お前はどう思う。
それを読んで、エレンディラは思わずにやりとした。
あなたでも迷うことってあるのですね。
「わたくしの知ったことではありません。新星を玉座に導くのは、あなたの仕事でしょう、エル・イェズラム。意見を聞いてどうするのですか」
皮肉たっぷりに突き放してやると、相手はますます難しい顔をした。
「お前はいやな女だな、エレンディラ」
それが負け惜しみのようだったので、気味がよくなり、エレンディラは小さく高笑いした。
「そんなことはない、イェズ。この人は、優しい人だよ」
口を挟んできた王族の言葉に、イェズラムがまた、さらにむっとした顔をする。
「お前は黙っていろ、リューズ」
頭ごなしに、イェズラムは子供を叱りつけた。膝の上で、子供が肩をすくめるのが分かった。しかしそれは怯えているわけではなく、どうも呆れたらしかった。
「晩餐の、終わる時刻より前に、こいつを帰らせてくれ、エレンディラ。食うのは程々にしておけよ、リューズ。アズレル様に、ばれるから」
早口に指示するイェズラムの言葉に、子供はなんども小さく頷いてみせている。うるさいなと言わんばかりの仕草だった。
「さっさと行けよ、イェズ。大丈夫だから」
そう請け合う子供の生意気な口調に、イェズラムはうんざりしたような顔をしたが、書き付けた紙を乱暴に懐にしまうと、そのままさっさと立ち去っていってしまった。
まあ、とエレンディラは思わず言った。
「戻るときも挨拶なしでしたわ。なんて失礼な男でしょうか」
憤慨を隠さずそう文句を言うと、膝の上の子供は、気味がよさそうに、ふふふと喉で含み笑いした。どうもそれが、この子が本当に可笑しいと感じた時の笑い方らしかった。
「ああいう奴なのだ。でも根はいいやつだよ」
「そうでしょうか殿下。わたくしには、これっぽっちもそうは思えません」
エレンディラは正直にそう答えた。
ついさっき、自分を打ち負かしたばかりだというのに、挨拶のひとつもない。
幼い頃から長年かけて、熾烈に争ってきた間柄だというのに、勝ち誇る言葉も、あるいは労いの言葉のひとつもないとは。
「お前はイェズに新星をとられたから、それが悔しいのだろう」
エレンディラは子供の大人びた口調にたしなめられた。
「だけど玉座のもとに力を合わせないといけないよ、英雄たちは」
「さようでございますね、殿下。ですが、わたくしは自分の星が欲しかったのです。そのために学び、戦ってまいりました。それが全て無駄だったとは、思いたくないのです」
不満をのべると、子供は考え込むように首をかしげた。その痩せた背を、エレンディラは伏し目に見下ろした。
「それはしかたないよ。星はひとつしかないから、イェズと半分こするわけにいかないだろう」
真面目に答えているらしい小さな王族の言葉が、エレンディラには面白く、可愛かった。
「殿下がわたくしの星になってくだされば、それで心が安まりますが」
こちらを見ていない背に微笑みかけながら、エレンディラは求めてみた。すると子供はさらに考え込むように、反対側に首をかしげる。
「それで一飯の恩に報いてもよいが。俺はどうせ燃え尽きる星なのだ。それでもよいか、エレンディラ」
そう言って、こちらを見上げた子供の顔は、張り付いたような笑みだった。
ああ、そうだと、エレンディラは思い出した。
この子は流れ星。
一瞬輝いて、墜ちる星だ。
新星に玉座をとられて。
でも、それをわたくしは、どう思うのかしら。
それをイェズラムはどう思うのかしら。
アズレル様は本当に新星か。
エレンディラは、幼い星の痩せた体を、やんわりと抱きしめてやった。
「それでも結構です。星が燃え尽きるまで」
エレンディラが請け合うと、子供はどこか安心したように、膝に甘えてきた。
にっこりと顔を見上げて、リューズは感想を述べた。
「そうか、あなたは、妙な人だなあ、エル・エレンディラ」
そう言う瞳は、黄金で、あたかも闇夜に駆け上る星のごとく、まばゆく鋭い輝きを放って見えた。
《おわり》
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