流星群(2)
エレンディラは、そのまま、まっすぐ自室に戻ろうと思っていた。
誰とも顔を合わせたくない。
自分とイェズラムが長老会の部屋(サロン)で養育される面子の最後の二人だということは、誰でも知っていたし、今後はそれが、イェズラムだけになることは、誰の目にも明らかに分かることだろう。
だけど今はまだ、部屋の外にいる者で、それを知っているのは自分だけだった。たった今、自分がそこから追い出されたことを知っている者は、他にはいない。
だから、せめて今くらいは、平気な顔をして歩いていってやろう。
そう決心して、長衣(ジュラバ)の裾を翻す勢いの早足で、王宮の通路を行こうとした矢先、エレンディラは壁のくぼみに誰かが座っているのを見つけた。
そこには蛇の文様を銀糸で織り込んだ、古い織物が飾られており、 床から一段高くなっているくぼみの底部に、赤みがかった鈍色の長衣(ジュラバ)を着た子供が、ちんまりと腰掛けていた。
幼髪をしており、額には額冠をしていた。王族の子だった。
あれはたしか、イェズラムの弟分(ジョット)だと思い当たって、エレンディラはなんとなく険しい顔になり、その傍に行くにつれ、歩調をゆるめた。
通りすがり様に視線が合った。
向こうはこちらを凝視してたし、こちらは向こうを凝視していたからだった。
子供はまだ十にもなっていないように見えた。
黄金の目をしていて、壁のくぼみで膝を抱えたまま、エレンディラが立ち止まると、その、どことなくぎらりとした目を、ぱちぱちさせた。
たぶんイェズラムが出てくるのを、ここで待っているのだろう。
そう思うと、なんとなくその子供が憎たらしくなり、エレンディラは冷たく見つめた。
その目をしばらく見返してから、子供は唐突ににっこりと微笑んだ。可愛い子だった。エレンディラは思わずつられて、気まずく微笑み返した。
「イェズを待ってるんだよ」
顔によくあう可愛げのある声で、王族の子供は言った。
「しばらく出てこないと思いますわ、殿下」
王族がたくさんいるせいで、エレンディラには、その子の名はすぐにはぴんと来なかった。しかし王族というのは便利なもので、殿下と呼べば、それで済む。
しかし子供は名前をごまかされたことに、気がついたらしかった。
「俺はリューズ・スィノニムだよ、エル・エレンディラ」
気を悪くしたようでもなく、子供は気さくに教えてきた。自分の名を知られていたことに、エレンディラは意外な気がした。この子と、どこかで縁があっただろうか。
真面目に見つめてみると、リューズと名乗ったその幼い男の子の顔を、どこかで見たことがあるような気がする。
そういえば、この子は、誰かに似ている。
ああ、そう。
たぶん、アズレル様だ。
新星と良く似た面差しで、男の子は、本物の星のほうには無い、屈託のない笑みを惜しげもなく浮かべている。
その表情は明るかったが、なんだか、痩せた子だった。宮廷着の袖から出ている手首が、やけに細いのが、エレンディラには気になった。どことなく飢えている印象のする子だ。
それが可哀想に思えて、エレンディラは胸が寂しくなった。
「わたくしの名を知っているのね」
「俺はみんなの名前を知っているよ」
得意げに微笑んで答える子供の顔は、人懐こかった。
エレンディラは微笑んだ。
「どうして泣いてたの」
満面の笑みのまま、子供は唐突にそう訊ねてきた。
エレンディラは真顔になった。
泣いてなどいなかったはずだ。敗北した悔し涙なんか、死んでも流すものか。
「泣いていません」
「イェズはいつ出てくるんだろう。おやつをくれる約束なのに」
凄んでみせても、子供は相変わらず満面の笑みだった。そして、するりと掴み所無く、話を変えた。
この子は少し、おかしいのではないかしらと、エレンディラは気味悪くなった。
どうしてずっと、笑っているの。
「エレンディラ」
不意に手をのばしてきて、子供がエレンディラの長衣(ジュラバ)の裾を握った。
「イェズが来るまで、いっしょにいてよ」
猫が喉を鳴らすような甘さのある口調で、子供は言った。
強い力で、子供は裾を掴んでいた。なんだかこのまま、壁の中に引っ張り込まれそう。
子供の顔を覆っているのは、そんな怪異じみた笑みだった。
「わたくしはイェズラムの代わりはいたしません」
思わず叱りつけるような口調になってしまった。
無関係のこの子に八つ当たりした気がして、エレンディラはすぐに気が咎めたが、子供はそんなことは気づきもしないように、相変わらずにこやかだった。
「イェズが嫌いなのか」
「嫌いです」
問われるまま、エレンディラは小声で吐き捨てた。
すると子供はきゅうに、にやりと笑った。もともとの笑みが偽物だったみたいに。
「俺もだよ」
その声がなんとなく大人びて響き、エレンディラは驚いた。
「イェズは意地悪だよ。いつも偉そうで。だから嫌いだ」
じっとこちらの目を見つめて、笑いながら言う子供の声は、まるで自分の気持ちを代弁しているかのように、エレンディラには聞こえた。
共感する気分が、しだいに胸に湧いてきて、エレンディラは裾を掴んで待っている子供の顔を、まじまじと見つめてみた。
王族は、新星が昇れば、死ぬ運命にある。だから、この子ももう、そう永くないのだ。
アズレル殿下はほぼ成人に達しており、何より、気弱な族長が病がちだった。継承の時は近い。
並み居る王族たちは華麗であっても、結局は流れて燃え尽きる流星群のようなもの。
継承者が指名されれは、他の者は縊(くび)り殺される。大抵は親しい者が、それをやる。せめてもの情けだ。
だからこの子を始末するのは、イェズラムかもしれない。乳兄弟だったはずだから。
そんな予感があって、イェズラムが嫌いだというのなら、もっともな話だわ。
いい気味だわ、イェズラムと、エレンディラは思った。世話してやっている弟(ジョット)から嫌われるとは。
そう思うと、目の前の子供はずいぶん可愛く感じられてきた。
「わたくしもお腹が空きました。晩餐まで間があるし、ごいっしょに甘いものでも召し上がりますか、殿下」
視線を合わせようと、エレンディラは子供の前に片膝をついた。
すると子供は握っていた裾をぱっと手放し、座っていたくぼみから跳びはねるような勢いで立ち上がった。その顔は嬉しそうだった。
痩せた両腕を拡げて、子供は突然、エレンディラに抱きついてきた。
予想していなかった出来事に動揺し、エレンディラは目を白黒させた。
「ありがとう、エレンディラ。一緒に行くよ」
にこにこ笑っている子供の仕草は、明らかに、抱き上げろと促していた。
抱いて運ぶような年頃の子とは思えない。
それでも逆らえない気がして、エレンディラは、てらいなく首に抱きついてくる男の子の体を抱き上げた。
拍子抜けするほど軽かった。
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