深淵(3)
「やはり行くのですか、エル・ジェレフ」
長い巻物に書かれた装飾文字を眺めるジェレフに、くたびれた藍色の長衣(ジュラバ)をだらしなく着ている宮廷詩人が呼びかけた。
彼のところに、ジェレフは自分のダージを読みに来た。
要約されたそれには、自分の長くもない生涯のことが、美々しい言葉を極めて書き連ねられていた。
「今朝まで徹夜で仕上げましたけど、まだ納得いかないな。特に出だしがです」
顔をしかめて唸っている詩人を、ジェレフは巻物から視線をあげて眺めた。
ジェレフには芸術は理解できなかった。竜の涙の中には、自分のダージをああしろこうしろと、うるさく口を出す輩もいるらしいが、ジェレフはいつも黙って聴くだけだ。
「せめてあと一日ほど、生きていてくれませんか。最期のダージを今夜までに仕上げろなんて、惨いです」
彼が惨いといっているのは、死のことではなく、寝不足のことだった。ジェレフは面白くなり、あくびをする詩人を笑った。
「もっと修辞をこらしましょうか。僕はすっきりしたのが好きだけど。あなたのダージなんだから、あなたの好みで」
ジェレフは肩をすくめ、巻物をもとどおり巻き直した。中に書かれているのは、確かに英雄の生涯だった。ジェレフはこの詩人の、あっさりと嫌みのない筆が好きで、彼に自分の最期のダージを任せることにしたのだ。
「このままでいいよ。俺も最後まで聴きたかったな」
冗談めかせて言うと、詩人は笑った。冗談のわかる男だった。
「ひとつだけ注文を聞いてくれるか?」
ジェレフが頼むと、詩人は何なりとと言うように大きく頷いた。
「出だしのところに、こう書いてくれ。俺が生きたのは、族長リューズ・スィノニムの御代だったと」
詩人はどこか、ぽかんとした顔で、ジェレフの注文を聞いていた。
「そんなこと誰でも知ってますよ。ダージは年代順に管理されるし、あえて書かなくても」
「書くとまずいのか」
どこか渋っているふうな詩人に、ジェレフは訊ねた。
「まずくはないですが。普通は書きません。竜の涙は族長にではなく、部族に仕えているからです。書けば僕も非常識だって思われますね」
「そうか」
それは済まない気がして、ジェレフは困った。ダージは竜の涙の生涯を語るものだが、それを詠む詩人にとっても、彼らの生涯をかける仕事であるからだ。
「理由を聞いてもいいですか」
次第によっては、書いてやってもいいという表情を、詩人の隈の浮いた顔が浮かべていた。
ジェレフは理由を考えたが、とっさに明解な答えは浮かんでこなかった。
朝になって、突然そう思い立ったのだ。そうでなければ、葬儀のために編纂される自分のダージを読みに来ようなどとは思わなかった。
ジェレフと顔を合わせて、詩人が仰天したふうだったことからも、死を前にした竜の涙が自分の詩を見に来るのが稀なことはうかがい知れた。
よほど自己愛の強い、自惚れたやつだと思われただろう。
しかし、昨夜、墓所を立ち去るリューズ・スィノニムの後ろ姿を見て、ふと心配になったのだ。民は自分が英雄だったことを忘れないでいてくれるかもしれないが、それが名君の時代の出来事であったことは、忘れるかもしれない。
「自分でも良く分からないんだが。いずれお前の詩が世に残って、皆の前で詠まれることがあったとしてだ。これは族長リューズ・スィノニムの御代のことだったという一節があれば、民は喜ぶような気がする。皆そこで喝采してくれるような気が」
ジェレフが説明すると、詩人はかすかに唇をとがらせ、脳裏にその情景を思い描くような顔をした。何度か深い呼吸をし、手に握っていた筆をこつこつと指で弾いてから、詩人はまたこちらに目を戻した。
「それはいいですね」
詩人はどこか興奮したような目をした。
「それはいい。きっとそうなるでしょう。あの人は名君だから」
言いながら、そばにあった紙片に、詩人は部族の文字でさらさらとなにかを書き付けた。そしてその書き付けをジェレフの眼前に見せたが、なにが書いてあるのか、ジェレフには判読できなかった。字の汚い男だった。
「あなたのダージは部族の戦史だけでなく、文学史にも残るかもしれませんよ」
「それは大変な名誉だな」
意気揚々として作業をしはじめた詩人の背を見守って、ジェレフは苦笑した。
彼らはどこか浮世離れしており、自分が詩に詠む相手が生きようが死のうが、どうでもいいのかもしれなかった。竜の涙が紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)に酔うように、詩人たちは己の紡ぎ出す言葉に酔っている。
詩作の邪魔をせず、立ち去ろうと決めて、ジェレフは出ていこうとした。
「英雄(エル)・ジェレフ」
片腕に琴を抱いたまま、詩人は呼び止めた。
扉までびっしりと書き付けの貼られた詩作部屋の出口で、ジェレフは立ち止まった。
「あなたのダージを名作にします」
詩人はそう約束した。
微笑んで、ジェレフは扉をくぐって出ていった。
部屋からは琴の音が流れ、詩人が詠っていた。
それは族長リューズ・スィノニムの御代のことだった。族長リューズ・スィノニムの……。
いくつもの旋律を試す声が王宮の通路に響いている。
その美しい声を聴きながら、英雄は宮廷を去った。
《完》
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