深淵(2)

「明かりをお持ちにならなかったのですか」

 軽い驚きを隠さずに訊ねると、リューズは薄い笑みを見せた。

 部族の蛇眼は暗闇でもものの形を見る力を持っているが、それによる視界はごくわずかだった。曲がりくねる迷宮を歩くには、明かりがなければ心許ないはず。

「墓所は俺には庭のようなものだ」

 この場所は、聖域だった。

 王族と、竜の涙のほかに立ち入ることを許される者はいない。

 誰の許可も必要なかったが、ここには何かしら神聖な結界が張られてあるように、日頃好きこのんで入り込む者はいなかった。

 ジェレフも、ここに族長がいることを知らされたのでなければ、わざわざ足を踏み入れたくはなかった。

「話があるとか、エル・ジェレフ」

 首をめぐらし、リューズは壁画を眺めているようだった。

 それを真似て彼の視線をたどると、壁には数知れない敵兵の首を切り落とし、流れ出た血を砂牛に飲ませている光景が描かれている。族長リューズ・スィノニムの戦歴の中で、敵にはその残酷さを、部族の者にはその英断をもって知られる逸話だ。

 水を絶たれ、騎獣に飲ませてやる飲み水がなくなったので、リューズは捕虜の首を切らせて、その血を飲ませ、砂牛をタンジールまで連れてもどった。

 この人はなぜ、そんなことをしたのだろう。

 砂牛は屠ってしまえばよい。捕虜は捨ててゆけばよい。騎獣を失っても、兵は歩くこともできる。

「エゼキエラ様のことで」

 話さずに済ますわけにはいかないだろう。ジェレフはこの二日、後ろめたく隠してきたことを、族長に知らせてゆくつもりだった。

 族長の側室エゼキエラは長年の療養も甲斐無く、衰弱のため息を引き取った。母を失ったスィグルは随分取り乱したようで、その事実を族長に知らせないようにジェレフに口止めをしたのだった。

 自分が伝えるからと、スィグルは言っていた。

 しかし宮廷に服喪の気配もない所を見ると、スィグルはまだなにも伝えていないに違いない。族長にとって、政略のために娶った亡霊のような妻だとはいえ、死ねばそれなりの形はとるはずだ。

「俺も話がある、エル・ジェレフ。そなたには礼を言わねばならない」

 こちらに向き直って、リューズは古代の壁画に描かれていたのと、ひどく似た面差しに、微笑を浮かべた。

「妻の死を看取ってくれたそうだな」

 小さく頭を垂れる族長に、ジェレフは言葉を失って、やむなく自分も答礼をした。

 知っていたのか。

 かすかに肝(きも)が冷えた。

 族長には竜の涙に服従を求める権利はない。だがジェレフは、目の前にいる優しげな姿をした男が、見かけによらず残虐なのだということを、身にしみて知っていた。

 彼とともに戦ったことがある者なら、誰しもそれを知っている。

 側室の死を隠したことを、反逆と受け取ったとしても、もっともな話だ。

「ご存じだったのですか」

「俺は自分の宮廷のことなら何でも知っている。そなたが明日、最期の英雄譚(ダージ)を詠まれることも」

 ごくり、と自分の喉が鳴るのを、ジェレフは聞いた。

 その事実を突きつける族長の顔は、哀れむようでも、讃えるようでもなかった。

「そなたには詫びねばならない」

 墓所の空漠に眼をやって、リューズはそう言った。なんのことを言われているのか、ジェレフには見当がつくようでいて、分からず、ただ戸惑うばかりだった。

「この玄室に眠っているのは、我が治世のうちに死んだ者たちだ」

 リューズが示す先には、多くの竜の涙が安置されていた。

 台座の白い石には、その持ち主の名が、英雄(エル)の敬称を添えて、黄金で象眼されてある。

 どれもこれも知った名だった。即位したての族長とともに、侵略者と戦った勇猛な彼らの英雄譚(ダージ)は、今でもタンジールで折々に詠われ、敬意を払われている。

 歴史の中の、あるいは華やかな物語の中の人物として見聞きし、尊敬してきた名前が、この玄室の中では、生々しい骸を晒して眠りについている。彼らは確かに生き、戦い、そして死んだのだ。

「皆、俺の戦友だった。部族のために戦い、ひとりまたひとりと死んでいった。俺が与えたダージに満足して逝ったものもいるが、皆がそうとは限るまい。勝ち戦で散った者もいるが、敗走する軍を救うため身を捧げた者もいれば、未熟な俺の失敗から浪費された者もいる」

 族長は並ぶ墓碑に歩み寄り、親しい友の肩を抱くように、並んだ石に触れ、それを覆っている薄い埃を、静かに指で拭い落とした。

 族長がなにをしに、時折この場へ来ているのか、ジェレフには分かったような気がした。

「そなたのための場所はあれだ、エル・ジェレフ」

 リューズが指さした先を、ジェレフは見てしまった。

 からっぽの台座には、やはり黄金の文字で、こう書かれていた。英雄(エル)・ジェレフ、と。

 その墓碑には、没年がまだ刻まれていない。台座の上の空白を見つめて、ジェレフは自分の身が縮みあがるような感覚をおぼえた。

 明日、あの場所を、自分の骨と石が埋めているのかもしれない。

 それはおそらく恐怖なのだろう。

 すでに感覚が麻痺して、なにも分からない。だが、微かに震え始めた指を、ジェレフは拳を握って隠さねばならなかった。

「俺になにか、言いたいことはないか」

 亡き戦友たちの傍らに立ったまま、族長はじっとこちらを見つめていた。

 言いたいことなど、なにもなかった。

 自分は名君に恵まれた。

 先代は罪深い凡庸さで、部族を窮地に追いやり、多くの版図と命が失われていったが、この人が即位してからの歳月は、苦しくとも、ひたすら続く華々しい反撃の日々だった。その中で英雄らしい戦いの場を与えられた自分は、そうでなかった者たちよりも、幸いだったのだ。

「感謝しています、族長」

「そうか」

 通り一遍の言葉に、リューズ・スィノニムは、実にあっさりとした相づちを打った。ジェレフはそれに、自分が衝撃を受けるのを感じた。

 竜の涙は部族に仕えているのであって、族長の支配を受けない。いわば自分たちは、同じく部族に仕える者どうしとして、対等の立場だった。それでも族長に対して生意気な口をきく気にはなれないが、限られた命を惜しみなく捧げて戦ってきた者には、族長も、もう少し深い敬意を示してくれるものと思っていた。

「この石の持ち主は、エル・シャロームだ。えらそうで鼻持ちならんやつだった」

 灰緑がかった美しい造形の石に手を触れて、リューズは人の顔をのぞき込むように、その竜の涙の透明な結晶を透かし見た。

「死ぬ間際に、俺のことを寝小便垂れと言った。とんだ言いがかりだ」

 英雄シャロームは敗走する軍を救った魔法戦士だった。味方を逃がして敵陣にひとり消える彼のダージは、詠む詩人すら涙ながらに弦を掻き鳴らす名作だ。その詩の中では、シャロームはリューズに鮮やかな一礼をして、フラ・タンジールと言い残し去ったことになっている。

「本当にそう言った。この寝小便垂れめ、お前のようなひよっこが族長冠をかぶっているから、軍が敗走するのだ、と言った。皆の前で大声でそう言った。一万五千の兵がそれを聞いていた。あいつは皆に聞こえるように、できるかぎりの大声で言ったのだ。そういう嫌みな性格だった」

 おそらく一語一句憶えているのだろう、族長はどこか恨みがましい口調で話していた。

「俺はすっかり頭にきて、……悲しかった。あいつは死ぬ覚悟を決めたのだ。シャロームはいつも悪態ばかりついていたが、それもあれで聞き納めだった。シャロームは戻ったが、もう口がきける状態ではなかったからだ。なにか言いたそうだった。俺に、さらになにか悪態をつきたかっただけかもしれないが、それでもいいから俺は聞きたかった」

 エル・シャロームの石の傍らに立つリューズは、まるで死者の声に耳を澄ましているように、少しの間、目を伏せていた。

 やがて目を開いた族長は、またじっと、何かを促すように、ジェレフを見つめた。

「エル・ジェレフ。そなたも何か俺に、言いたいことがあるのではないか。何でも言ってかまわないのだ。どうせここには詩人もいない、聞いている者もいない。たとえいたとしても、ダージが語るのは美しい話だけだ。そなたたちがシャロームの最期の言葉を知らないように」

 一万五千の兵は、なぜ口をつぐんでいたのだろう。竜の涙が族長を罵倒した、そんなものを目の当たりにした、一万五千もの口が、タンジールでは沈黙していた?

「感謝の言葉のほかに、言い残すことは、ありませんが……ひとつだけ、お聞きしたいことがあります。些細なことかもしれませんが」

 ジェレフが告げると、族長は小さく頷いた。

「予知者のことです」

 まだどこかに体の震えが残っていて、ジェレフは拳を握りしめたままでいた。その手に持った灯火が、小刻みに震えながら、玄室を照らしている。

「落盤が起きるのが明日だというのは、突き止められました。でも、どうしても場所がわかりません。タンジールのどこかです。それではあまりに広すぎます。漠然としすぎていて、民を逃がすこともできない」

 リューズはジェレフを喋らせ、自分は微かに頷くばかりだった。

 竜の涙には様々な能力を持った者がいるが、その中でも予知者は稀だった。当代には未来視を専門にする者がおらず、石を持たない予知者に頼るほかない。彼らはタンジールを近々襲う災害を予知したことはしたが、その内容はあまりにも不完全で、もどかしかった。

 それについては族長も、よく知っているはずだ。

「落盤の起きる場所と規模を、予知することができれば、多くの市民が救われます」

「そなたの言うとおりだ」

「可能性は低いですが、王宮で落盤が起きることだってありえるのです」

 他人事のように頷くリューズに焦れて、ジェレフは族長に、彼のすぐ頭上で起きるかもしれない厄災について言及してやった。

「そなたの焦りは分かるが、予知者がいないものは、どうしようもない」

「います」

 性急に言いつのるジェレフを、リューズは微笑みながら見ている。

「俺の宮廷には竜の涙を持った予知者はいない、残念なことだが」

「イルス・フォルデス殿下が」

 その名を挙げてから、ジェレフは一時言葉に詰まった。

 スィグルの友人だという、あの少年のところへ、治療を頼まれて出向いて行き、彼が基本的な竜の涙のふるまい方も知らないことに驚かされた。魔法を知らない部族に生まれた哀れさというべきか。自分を襲う恐怖のことは知らされていても、自分が振るうことのできる力のことは、あの少年は何も知らなかった。

 彼が予知者だと聞いて、ジェレフは動揺した。タンジール宮廷の竜の涙たちの誰もが、その話に動揺しただろう。自分たちがいかに望んでも得られない力が、他国で無為のまま放置されている。

「なぜ、族長から、殿下に申し入れていただけないのでしょうか。明日の落盤の場所を未来視するように」

 ジェレフは族長の返答を待って、沈黙した。

 リューズは何か考え込むように、かすかに視線を泳がせた。

「訓練されていない者が、ねらった物事を予知できるのか」

「難しいかもしれませんが、できないとは断言できません。話を聞く限り、殿下は意図したものを予知している事が多いようです。訓練されていないだけで、高い精度を持っているかもしれません。未来視のできる者に、力の使い方を教えさせれば……」

「それで、死んだらどうするのだ」

 ジェレフの言葉をさえぎって、族長がぽつりと口をはさんだ。

 率直にすぎる族長の言葉に、ジェレフは口にしかけていた言葉を詰まらせた。だが、回りくどい言葉でとりつくろったところで、誰にでも明らかな、問題点はそこだった。

「ヘンリックの息子に未来視させて、それがもとで死んだとしたら、お前はどう責任をとる? 同盟部族の、族長の子息だぞ」

 反論すべき言葉を求めて、ジェレフはかすかに喉を喘がせた。

 もしも落盤を正確に予知できたら、救われる。

「閣下は、ご自分の民が救われるかもしれない可能性に、賭けようとは思われないのですか」

「賭けている」

 真顔でリューズが答えたことの意味が分からず、ジェレフは顔をしかめた。

「そなたに賭けている、エル・ジェレフ。そなたは我が治世において比類のない治癒者だ」

 族長が自分を褒め称えるのを、ジェレフは震えながら聞いた。

 待望していたはずの言葉が、今は自分の喉頸を静かに締め上げていた。

 救われる。タンジールの民が?

 そうではない。救われたいのは自分だ。残り少ない命と頭では理解していても、体は明日一日を生き延びたがっている。

「民を救えば、そなたの命は明日尽きるだろう。恐ろしければ行かなくてもいい。治癒者はほかにもいる。別の者にお前のダージを譲って、王宮で震えていればいい」

 族長はどこか、労るように言った。だがそれは、明らかな死の宣告だった。

 目眩がして、ジェレフは自分の視界から、いつのまにか舞飛ぶ紫の蝶が消えていることに気付いた。薬を継がなければ、じきに耐え難い痛みが襲いかかってくるだろう。それを思っただけで、にわかに額に汗が浮いた。

「ジェレフ。これは政治的な問題だ。そして誇りの問題でもある。このような危機は何度となく起きるだろう。そのたびにあの子を呼びつけて、未来視しろと頼むつもりか。ダージもなく、この墓所に名前の記されていない者に、俺の民のために命をかけてくれと?」

 リューズが静かに歩みより、すでに明らかに震えているジェレフの手から、ゆらめく灯火を引き取った。明かりに浮かぶ族長の顔は、壁画に描かれていた太祖アンフィバロウの顔そのものだった。

 父祖たちは奴隷の身から逃れて、命からがらこの都市へたどりついた。生き延びるには、魔法の力が頼りだった。火に薪をくべるように、竜の涙たちは消費されてきた。民のための生け贄だからこそ、竜の涙は英雄になれたのだ。

 明日には屠られる羊のように、哀れに震えている自分が、英雄だったことが一度でもあったとは、ジェレフにはもう信じられなかった。自分は死を恐れなかったのではなく、死ぬとは信じたくなかっただけだ。

「恥じることはない。シャロームも死ぬときには震えていた」

 族長はジェレフの帯の隠しから煙草入れをとり、煙管に火を入れると、一息ふかして、甘い臭いのする煙を吐いた。袖で吸い口を拭ってから、銀の煙管を自分に差し出す彼の仕草を、ジェレフはどこか朦朧としながら眺めた。

 頭痛が襲い、脂汗が額を濡らしていた。しかし麻薬(アスラ)の使用を民に厳禁している族長の前では、喫煙を申し出にくく、ジェレフは族長は察しの良い人だと思った。遠慮している余裕もなかった。痛みと恐怖が紫の蝶を求めている。

「紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)か……」

 石を眺めながら、リューズは回想するように言った。

 ジェレフは銀の煙管から深く吸い込んだ。甘い煙が肺を満たす。

「世には、それよりさらに強い効用を持った麻薬(アスラ)もある。だが、それらは、そなたたちの尊厳を蝕む。かつては石でなく麻薬(アスラ)に殺される竜の涙もいた。醜い死だった。父の治世のころだ」

 族長はジェレフの知らない時代のことを話していた。そのころには自分もすでに宮廷で育てられていただろうが、記憶している宮廷の玉座には、もう目の前にいるこの男が座っていた。

「俺はそなたたちに堕落を禁じた。英雄として生きることを強要したのだ。民は希望を求めていたし、お前たちの華々しい物語は、敗戦に疲れた民の戦意を高揚させるために都合がよかった。胸の沸き立つ勝利の物語、血をたぎらせる残酷な復讐の物語、そして、英雄たちの献身的な死の物語だ」

 見慣れた紫の蝶が、墓所の暗闇のなかから、ひらひらと舞うように現れ始めていた。

「それは民にとっても、そなたたちにとっても、麻薬(アスラ)以上に深く酔えるものだった」

 紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)は強い薬で、一息でも吸い込めば、その効果を示すはずのものだ。しかしジェレフには族長が酔っているようには見えなかった。微かに揺らめいている視線を見れば、彼の視界にも蝶がいることは確かだったが、初めてそれを吸い込んだ者が感じるはずの深い酩酊を、族長は顕さない。

 慣れがある。煙を吸い込む仕草にも。

 かつてこの宮廷には、麻薬(アスラ)が蔓延した。侵略者が与える恐怖を癒すために、貴賤の別なく酔い痴れて過ごした時代があった。この人が少年の頃を過ごし、やがて打ち砕いたのは、そういう時代だ。

「そなたたちを強い薬で酔わせた俺が、かつての宿敵と同盟を組んで戦をやめるという。民は結局のところ平和を喜んでいる。俺はそれでよかったと思う。だが、我が英雄たちは違うだろう」

 墓所の暗闇の中には、音ならぬ英雄譚(ダージ)が満ちあふれている。栄光に彩られた死。語り継がれる名。名君の時代。

 敵の首を落とせと命じる残酷なこの人に、兵は酔い痴れただろう。

 なぜこの人はそんなことをしたのだろう。自分には参戦のかなわない過去の戦いで。

 今、この目の前で、そのような戦いをしてくれたら、いつでも惜しまず命を投げ出したのに。

「戦で死にたいか、エル・ジェレフ」

 静かに問いかける族長の言葉に、ジェレフは素直に頷いた。ここで震えて死ぬよりは、その高揚の中で、酔っていたかった。

「そなたには詫びねばならない。俺はもう、シャンタル・メイヨウとも、ハルペグ・オルロイとも戦わぬ。そなたたちのための戦は、もうないのだ」

 穏やかに断言して、リューズは燃え尽きた煙管を宙に浮かしているジェレフの手から、それを取り上げた。

「明日、俺の民を救って死んでくれ。それが今、俺が与えてやれる唯一のダージだ」

 見つめ合った族長の姿に群がるように、紫の蝶の幻が飛び交っていた。彼の背後には数知れない英雄たちが眠っていた。死に場所に彼の戦を選んだ。それはどんな人々だったのだろう。幸せな連中だ。

「……どうすれば勇気を、持てるのでしょうか」

 ジェレフはやっと、それだけ訊ねた。声は掠れていた。

 リューズ・スィノニムは、かすかに首をかしげ、不思議そうにこちらを見た。

「勇敢にふるまうのに、勇気などいらぬ。それが必要とされる場所に、ただ立っていればいい。そなたは戦うだろう」

 にっこりと 、人懐こく族長は微笑んだ。そして彼は銀の煙管をジェレフの煙草入れに仕舞い、帯の上からぽんとそれを叩いた。

「もう行くがいい、我が英雄よ。明日まではまだ間がある。やり残したことはないのか」

 ジェレフは小さく首を横に振った。

「なにもかも片付けてきてしまいました。何か残しておけばよかった」

 別れを告げるべき相手には、すでに挨拶をした。居室にあった物も全て始末をつけ、手紙や手記の類もみんな燃やした。明日そこへ戻るときには自分はもう骸になってる、そういう覚悟をつけたつもりで。

「それでは広間(ダロワージ)で新しい恋でもしたらどうだ」

 族長が本気らしい口調で言うので、ジェレフは堪えられずに笑った。

 それは良い考えだった。残された夜が尽きるまでの時を、夢中になって生きるには。

「もう、そんな気には。抱いた女に、なぜ震えているのか聞かれるのも不名誉です」

「そんな無粋な美姫しか我が宮廷には侍っておらぬのか」

 ふん、と皮肉な笑い声をもらして、族長は首を巡らし玄室を振り返った。

 天井まで覆い尽くす鮮やかな絵画が、彼を包んでいた。

 かつては生きていただろう人々の肖像、波打つ金の麦、タンジールの夕景。族長が絵師に描かせた彼の治世は、凄惨な戦いと、そこから帰る者を待つ人々の顔だった。血を流す男たち、待ちわびる女たち。ここに眠る竜の涙たちは、それを見上げて悟るだろう。自分たちが何のために死んだか。

 麗しのタンジール。麗しのタンジールだ。

「夜明けまで、ここにいてもいいでしょうか。絵を見ていたいのです」

 縋る目で頼むと、族長は許すように薄く微笑んだ。

「ジェレフ。そなたは戦場の奇蹟だった。我が民はそなたのことを、永遠に忘れないだろう」

 ジェレフは無理に微笑み返した。

 我が英雄よと呼びかけるこの人の目に映る、最後の自分の姿が、無様に見えないように。

「俺も忘れはしない」

 励ますように、握ったジェレフの肩を小さく揺さぶって、族長は玄室を去る気配を見せた。

 無灯火の墓所を、族長はゆっくりと行った。

 彼の後ろ姿は薄闇の中へ、やがて無彩色の闇へとけこむ輪郭線となり、ついに見えなくなった。

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