パスハの南(2008年)

パスハの南(1)

 ここは狭間の時空。物語と物語の間にある場所。

 今日も神の視点から、いろいろ語っていくよ。

 彼の名はエル・ジェレフ。族長の命令でタンジールを出発して、同盟国、海エルフ族の首都サウザスまで旅をすることになった。イルスの竜の涙を初めて診察しに行くんだよ。

 南行の随員は、ジェレフの他に一般の治癒者が数人と、透視者がふたり。頭の中にある石を透視して、どれくらいのサイズがどの位置にあるかを確かめる仕事をしてもらう。

 その他、竜の涙からの志願者も連れていく。彼等は全くの遊びの旅。族長が、平和になって暇にしている連中に、慰安旅行をさせている。税金を使って行くんだから、もちろん何らかの役目は与えられるけど、戦時には兵器として使われていた彼等の労苦をねぎらうのが族長の目的だ。

 さすがは名君、だろ。

「だから、ぶうぶう言うのはやめて、心から深く感謝して行け、エル・ギリス」

 乗船を待つ港で、未だにタンジールを振り返るギリスに、ジェレフは説教をした。幾夜を継いで砂漠を横断し、大陸西端に到達した。タンジールはすでに、はるか東だった。

「暑くてたまんない。魔法で氷作りたい……」

 泣き言めいたことを呟き、ギリスは初めて見る海を無視して、港の背後にある砂漠を見つめている。

 冷暖房完備の王宮に慣れすぎて、部族領の本来の風土が身に堪えるらしい。

「お前が外に出るのは、ヤンファールでの戦闘以来か」

 従軍する以外の理由でタンジールを出たことがないのは、竜の涙であれば普通のことだった。しかし暑いのには、そろそろ慣れねばならない。これから行く先は、もっと熱帯なのだから。

 ジェレフがそう言うと、ギリスは心底うんざりという顔をした。

「船旅に移ったら、お前にも仕事をやるよ」

 ジェレフは二冊の本をギリスに渡した。ひとつは古いもので、ひとつは新しく、まだ中身が書かれていない帳面だ。

「今回の旅の記録をつけろ。将来、同じ経路で旅をする後任者が参考にできるように」

「こっちは何」

 古い方の頁をめくって、ギリスは興味薄げに尋ねてくる。

「資料室にあったから借りてきた。昔、エル・イェズラムが南行したときの直筆の記録だよ」

 驚いた顔で、ギリスは紙面を埋める文字を見た。

「イェズって字が書けたのか。いつも他人に代筆させるから、書けないのかと思った」

「そんなわけないだろ。普通に考えてありえないだろう」

 ジェレフはギリスの発想にうなだれた。宮廷で養育される竜の涙の中に文盲の者がいるはずがない。エル・イェズラムは隻眼になってから、視力に難があったこともあるが、とにかく何もかもが億劫な人になったのだ。

「イェズはいったい何のために南へ行ったんだ」

「族長が即位直後に海エルフ族の旧都バルハイに行ったんだ。援軍を求めに。自分の仕える王朝の歴史を知らないのかお前は」

 そのころ窮地に陥っていた戦線を持ち直させるため、族長リューズ・スィノニムは海エルフ領へ行き、援軍をつれて戻った。その第一報をタンジールに知らせたのが、族長が飼っている銀の矢(シェラジール)という名の鷹の祖だし、このときの共同戦線で共に戦ったのが、のちに即位することになった海エルフ族の現族長であるヘンリック・ウェルン・マルドゥークだ。援軍の借りを返すため、リューズはヘンリックの即位を支援した。

 エル・イェズラムは族長の警護のために同行し、一部始終を知っている。

 言行録があるはずだから持って行ってやれと言ったのは、他ならぬ族長リューズだった。ギリスがイェズラムの秘蔵っ子だったことは族長にも知られているので、養い親を失って消沈しているだろうギリスを慰めようと、特別の計らいとして、気晴らしになればと南行への志願も取り立てたし、今や貴重な資料となった直筆の言行録も気前よく貸し出してくれたのだ。

 それがあの渋々の出立で、族長はどう思っただろう。

 ほんとうにもう、どの面さげて帰ればいいのか。

 ジェレフにはギリスがエル・イェズラムの死を悲しんでいるようには見えなかった。けろっとしていて、出立前にエル・イェズラムから直々に任された遺品の整理も、やっているんだか、いないんだか、遊び歩くほうにかまけて放ったらかしているような気配だ。

 つくづく情けない。

「その言行録は死んでも無くすなよ。もらったんじゃないからな、戻ったら返却するんだから。汚したり、書き込んだり、破いたりするなよ。部族の宝だからな」

 知っていて当然だとは思ったが、ジェレフは一応説明しておいた。ギリスと付き合うときに、それは常識だろうとか、分かっていると思っていたなんていう言い訳が、失敗したあとで通用することはまずない。何があろうと向こうは知らん顔で、こちらだけが責任を感じることになる。

 ほかに何かやりそうな事はないかと考えながら説教したが、ギリスは頁をめくっていて、聞いてもいないようだった。

「昔は陸路だったんだ」

「行きはな。帰りに使った海路を族長が気に入って、航路を開いたんだ。そのお陰で俺たちも、昔よりかなり早くに大陸南端まで行ける」

「あの人、玉座でにこにこしてるだけに見えて、案外いろんな事やってんだなあ」

 ぼけたような事を言っているのが、族長のことを評しているのだとしか思えなかったので、ジェレフは呆然となった。

「ギリス、お前、族長が滅亡しかけた部族を救ったことは知っているんだよな」

「ああ、なんかそんな話は聞いたことある」

 感激に泣き咽(むせ)べとは言わないが、日頃、玉座にいるのを自分の目で見たり、出立のときに直々に言葉をかけてもらった相手が、いったいどういう人だったか、まったく認識できていないのは、あまりにもひどい。

 この旅で経験を積んで、ギリスもちょっとは大人になればいいのだが。

「向こうの族長にも謁見しなきゃならないのに、大丈夫なのかお前は」

「大丈夫だって。心配すんなジェレフ」

 ギリスに保証されればされるだけ不安だった。

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