パスハの南(2)
「ジェレフ。エル・サフナールがゲロ吐いてんだけど」
揺れる通路にふらつきながらやってきて、ギリスが臆面もなくそう言った。
お前には他人の名誉への気遣いってものはないのか。ジェレフはそう思ったが、何も言えなかった。あまりの吐き気で。
船酔いだった。
出航後、数日したころに海が荒れ始め、船室は暴れ馬の背のようになった。
皆、多かれ少なかれ顔面蒼白の体で、平気そうにしているのは、ギリスくらいのものだった。
「ジェレフを呼んできてくれって、泣きつかれたんだけど」
船室の扉にとりつき、よろめく体を支えながら、ギリスはのんびりと言う。
なんとかできるものなら行ってやりたかった。エル・サフナールは女性で、あまり頑健なほうではないからだ。線の細い美人で、苦しんでいると思うと気の毒だ。
「行っても役に立てない。俺には船酔いは治せないから」
そう答えると、ギリスは深く納得した顔をした。
「そうだよな。治せたら自分を真っ先に治すもんな」
頷きながら、ギリスはこちらを眺めている。
「じゃあ、サフナには、ジェレフもゲロ吐いてるから来られないって言っておくし」
「もっとぼかせ」
微かな掠れ声で、ジェレフは頼んだ。頷き返しながら、ギリスは懐から帳面とペンを取り出した。仕事として与えた言行録だった。
「全員船酔い、と……」
揺れの中で器用に書き付けて、ギリスは去っていった。
まじめに書いているらしかった。嬉しいような、悲しいような気が、ジェレフはした。
いくつかの港を経由して、ボルゲン港に入港した。
さんざん揉まれた割に、あっけなく晴れ渡った青空のもと、船は船着き場に係留された。
「下船する際には、石のある者は頭布(ターバン)を着用して隠すように」
なんとか元気を取り戻した面々を集めて、ジェレフは注意事項を説明した。
これまで下船を避けさせていたが、あの船酔いの後では、皆が一時でもいいから船から出たいと思っているのが感じられたし、ボルゲンには族長に命じられた用件があった。自分だけ下船するのでは仲間に悪い。
「なんで隠すの」
随員のなかで最年少のギリスを、皆が見た。
「海エルフたちは竜の涙を不吉なものとして恐れているのよ」
優しげに響く美声で、エル・サフナールが説明してやっている。彼女の瞳は灰色がかった緑で、右側頭にだけ現れた竜の涙は、青い色をしていた。彼女も治癒者で、ジェレフとはほぼ同世代だった。
「だからって隠す必要なんかあるの。そんなの不名誉だろ」
珍しくまともなことをギリスが答えたが、この際迷惑だった。
「いやなら船から出なくていいぞ」
ジェレフが冷たく言うと、ギリスはげっという顔をした。船酔いには苦しまなかったが、退屈に苛まれているらしい。
優しいエル・サフナールに説得されて、ギリスは渋々納得したようだった。
「ジェレフ、どこ行くの」
サフナールに頭布(ターバン)を巻いてもらいながら、ギリスが尋ねてきた。
ジェレフは随行の侍従たちが運んできた鳥籠を受け取った。中には鷹通信(タヒル)に用いる鷹が入っている。
「イシュテムという呉服商にこの鷹を届けに行く」
「それは。シェラジール85号」
「良く分かるな……」
鷹の名前を当てたギリスを、ジェレフは誉めた。
族長の鷹はとにかくシェラジールだった。その名をよほど気に入っているのか、名前を考えるのが嫌なのか、それともどの鷹がどの名前なのかを憶えるのが面倒なのか、族長は初代シェラジールから発した全ての鷹をシェラジールと名付けていた。仕方がないので、個々のシェラジールには通し番号がつけられている。
「スィグルが絵に描いていたよ。こいつは族長のお気に入りだろ。鷹通信(タヒル)の駅に置いてきちゃうのか」
随行してきた鷹と仲良くなっていたのか、ギリスは惜しそうに85号の翼に触れている。
「イシュテムが元々のシェラジールの持ち主らしい。鷹の血筋を持ち主に戻して、褒美もとらせるとかで。こいつは繁殖用にするようだ」
「そうか……がんばれよ85号。体に気をつけて、精々やりまくれ」
「そこまで直接的に励ますな」
エル・サフナールが恥じらったふうだったので、ジェレフは慌ててギリスを叱った。
「なんで?」
理由はいろいろあるが、とにかく女性の前でそこまで言うな。そう言いたかったが、竜の涙の女戦士は、男性として遇するのが礼儀だったので、ジェレフの話は遠回しになった。
しばらく諭していると、ギリスはやっと納得した顔をした。
「ああ、分かった。ジェレフはサフナに気があるわけ?」
ギリスの結論に、唖然としていると、悪童はなおも言った。
「ゲロ仲間だから?」
サフナが衝撃を受けている。
ギリスをこのまま海に捨てていっても罪にならない方法はないか、ジェレフは考えてみた。しかしギリスは貴重な部族の戦力だった。
でも本人が迂闊にも船に乗り遅れるのに誰も気付かないくらいなら罪にならないのじゃないか。本気でそう検討したい気分だった。
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