紫煙蝶(8)

「ジェレフの石だよ」

 そう言って、スィグルは白絹にくるまれた、透明な紫色の石を見せた。その形の一部には、見覚えのある輪郭があった。エル・ジェレフの頭を飾っていたのと、同じものだ。

「お前がやったのか」

 イルスが訊ねると、スィグルは小さく何度か頷いた。彼の顔は、紙のように蒼白だった。

 竜の涙が死んだとき、その苦痛を癒すために、遺骸から石を取り出すのが、この部族での習わしだという。遺骸は葬られ、石は王宮のさらに地下にある墓所で保存される。

 墓所には無数の竜の涙が眠っているという。

 エル・ジェレフも、その石のひとつになって、この街の奥深くで永遠に眠るのだろう。

 この石は、彼を苦しめてきた病魔なのに、イルスにはこの淡い紫をした結晶こそが、エル・ジェレフの生涯そのものであり、形見のように思えた。

「イルス。僕らは同盟によって戦いを止めたけど、それは本当に正しいことだったかな」

 スィグルの声は震えてはいなかったが、彼の心がゆらめくように傾いでいるのが、イルスには見えた。

「もしも戦いが続いていたら、ジェレフは竜の涙らしく、戦場で華々しく散っただろう。ジェレフは……悔しかったろうか」

 手の中の紫の石をじっと見つめながら、スィグルはそれに問いかけるように話していた。

 石は答えはしない。

「戦いを止めることが、お前のダージだっただろう」

 イルスが答えると、スィグルは顔を上げ、じっと目を見つめてきた。

 黒い卵も、白い卵もない、はじめは全ての部族が、ひとつの船に乗っていたんだ。傷つけられれば痛い、そんな簡単なことが、どうして誰にも分からなくなってしまったんだろう。

 まだほんの子供だったころ、そう言っていた時のスィグルの目を、イルスは思い出した。彼の黄金の目には、今もまだ、その時に見た光が残っているはずだ。

「後悔するな、スィグル」

 ジェレフの遺言を、イルスは伝えた。

 スィグルはなにも答えなかった。

 彼はただ労るように、手の中にある石を、大切に白絹でくるみ直した。

「宮廷は喪に服す。今夜、ジェレフの英雄譚(ダージ)が詠まれる。イルスも聴いてやってくれるだろ。公用語じゃないけど……」

「気にしないよ」

 イルスは答え、スィグルをもう、黙らせてやった。

 彼が子供のころのようには泣かないことに、イルスは確かに流れた歳月を思った。

 これから墓所に石を納めに行くのだと、スィグルは言っていた。生まれ落ちて宮廷に引き取られた時から、エル・ジェレフのための場所は墓所に用意されている。

 死後の自分の落ち着き場所が決まっているというのは、どういう気分だったろう。

 彼が大勢の仲間と眠る場所がどんなか、イルスは見てみたい気もしたが、そこは黒エルフの王族と、竜の涙にしか立ち入ることが許されない聖域なのだと、スィグルは済まなそうに言った。

 イルスは、黙然と立ち去るスィグルを見送った。

 宮廷の広間では、服喪のための黒い布が、そこかしこに掲げられていた。鈍色を加えても、宮廷の絢爛さに変わりはなかった。この、きらびやかな広間で、笑って軽口をたたくエル・ジェレフに迎えられたのは、ほんの昨日のことなのに。

 あの、口の端に煙管をくわえて、いつも涼しげな笑みをたたえていた男が、この宮廷のどこにもいないというのが、なにかひどく間違ったことのように思える。

 今にもふと、その柱の陰からでも、ふらりと現れそうだ。やあ殿下、と、紫煙を燻らせながら。

 そう思った矢先、不意に甘ったるい煙の臭いを嗅いで、イルスは振り返った。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)、いつもジェレフが身に纏っていた、あの薄煙。

 その出所を探して歩くと、回廊にしつらえられた石造りの椅子に、女が腰掛け、象牙の煙管で紫煙を燻らせているのを見つけた。早足に現れたこちらに気付いて、女はけだるげに目をあげた。

「エル・メッシナ」

 呼びかけると、女はにこりともせずに、ふうっと長い息に乗せて、甘い香りのする煙を吐き出した。

「墓所へは行かなかったの?」

 どこか親しげに、メッシナは言った。

「俺にはそこへ入る権利がないから」

「そう?」

 さらりと聞き返すメッシナの言葉には、どこかしら毒が効いていた。お前も同じ竜の涙じゃないかと、彼女は言っているのだろう。答えを求める問いではない。イルスは黙ったまま、数歩の距離をはさんで、女戦士と向き合った。

「吸う?」

 自分の白い煙管を持ち上げて示し、メッシナが誘った。イルスは首を横に振った。

 メッシナは淡く微笑み、自分のとなりの席へ、やんわりと首をめぐらせ、そこへ座るよう促した。

 イルスはそれを断る気にはなれず、彼女の隣へ腰をおろした。

「これ、あげるわ」

 懐から取り出した銀色の短い煙管を、メッシナはイルスに差し出した。それには見覚えがあった。

「ジェレフのよ。形見に」

 受け取るように、メッシナは促したが、イルスは手を出せなかった。それはもっと、彼を身近に見知っていた仲間が持っておくべきものではないかという気がしたからだ。

「どうせなら、スィグルにやってくれ」

「だめよ。こういうのは、持っていると悲しいから」

 メッシナは半ば押しつけるように、銀の煙管をイルスの手に渡した。

 これを指でくるくると回していたエル・ジェレフの仕草が、ふと思い出された。

「あの子がジェレフを止めてくれて、私は嬉しかった」

 メッシナがスィグルのことを言っているのだと気付いて、イルスは意外に思った。メッシナは、ジェレフの死を引き留めようとしたスィグルを、良くは思っていないだろうと信じていたからだ。

「私たちには言えないわ、諦めるな、なんて。潔く諦めるのが私たちの誇り……そうでしょ」

 長い睫毛のかげを頬に落として、メッシナはイルスの手の中の銀の煙管をじっと見つめていた。

「でも私も、自分が死ぬときには、あんなふうに誰かに惜しまれてみたい」

 メッシナはまた自分の煙管をくわえ、くつろいで深い息を吸い込んだ。彼女の赤い唇から吐き出される、細い煙の帯が、ゆっくりとたなびいて消えるのを、イルスは目で追った。

「蝶が見えるか」

「見えるわ、たくさん飛んでる」

 メッシナは蝶を追わず、ただ伏し目になって、うっすらと汗のにじむ額を指でぬぐった。

「ジェレフは勇敢だったわ」

 どこでもない宙を見つめて、静かに話しているメッシナの横顔は、白く整っており、まるで人形のようだった。額の赤い石さえ、華やかな冠のようだ。

「だいたいの人は、もっと早くにけりを付ける。石に殺される瀬戸際まで生きているなんて、エル・ジェレフは怖くなかったのかしら」

 不思議そうに言って、メッシナは懐を探り、花の象眼がされた小さな薬箱を取り出して、イルスに見せた。

「私も持ってる。毎晩思うの、もう今夜これを使ってしまおうか、って」

「……でも生きてる」

 イルスが言うと、メッシナは大きな茶色の目を瞬かせた。

「そうね」

 小さな手の中の薬箱を、メッシナはしばらく見下ろし、それから大切そうに懐に仕舞った。

「私も欲しいの、自分のダージが。なんでもいい、英雄らしい物語じゃなくても。自分が生まれてきたことに、意味があったと思えるような何か」

 自分の膝にほおづえをついて、メッシナは細く、紫煙を吐き出した。ぼんやりとどこかを見ている彼女の目は、ひらひらと舞い飛ぶ蝶を眺めているようだった。

「……ジェレフはもう、船に乗ったかしら」

 そういう女の目から、大粒の涙がつぎつぎとこぼれ落ちた。彼女はまるで自分が泣いていることに気付かないように、ゆっくりと甘い煙を吐いた。

 ダージが支える。

 最期に。

 竜の涙を支えるのは、ダージだ。

 手の中の、銀色の煙管を見下ろし、イルスは彼の言葉を思い出した。そのために死んでも構わないと思えるものが、自分にはあるだろうか。短く燃え尽きる命を捧げるダージが。

 広間から、弦をかき鳴らす絢爛とした楽の音が響き、詩人たちが詠いはじめるのが聞こえた。

 それは異国の言葉で語っていた。

 多くの痛みを癒した、ある英雄の物語(ダージ)を。


 《完》

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