紫煙蝶(7)

 掘り出された生存者が運び込まれ、命を落とした者が運び出されていった。

 救護用に張られた簡単な天幕の中に、毛織物で床が敷かれ、苦しみ悶える人々が横たえられている。その間を、医師や術医たちが忙しく動き回っていた。

 大勢いる術医のうち、ほとんどは竜の涙を持たない、ごく普通の黒エルフだった。彼らは時間をかけて、ひとりひとりの負傷者を癒していたが、魔法のように、と言うには、彼らが促せる回復はゆっくりで、運ばれてくる負傷者の数は多かった。

「もたもたすんな! 死にそうなのから、こっちによこせ!」

 血の臭いに蒼白になっていたスィグルが、聞き慣れた声を耳にして、はっとした。

 白い幕一枚で区切られた奥から、その声は怒鳴っている。エル・ジェレフの声だった。

「ジェレフ」

 スィグルはずかずかと天幕を横切り、吊されていた白い幕を勢いよく払いのける。

 その向こう側にいた数人が、顔をあげた。

 彼らは皆、頭部にそれぞれの色をした石を生やしていた。竜の涙の治癒者だった。

 エル・ジェレフは、重傷者の間を渡り歩いて働く彼らを従えるように、その中央に座っていた。

「死にそうでないやつは帰ってくれ」

 彼らしい軽口で、ジェレフはスィグルを追い払おうとした。

 スィグルを無視して、ジェレフは膝の上に抱いていた子供の傷に触れた。押しつぶされて崩れていた子供の脚が、見る間に傷を塞ぎ、元通りの白い肌に戻っていく。これこそ、魔法のように、だ。

 入り口の明かりの中に立って、イルスはそれを遠目に見ていた。

 ジェレフはすでに回復させた子供を、脇で控えていた者に渡し、次のをよこせというように、手で差し招いた。

「エル・ジェレフ」

 スィグルが声を強めて、自分を無視している竜の涙の名を呼んだ。

 イルスは天幕の中に入り、立ちつくしているスィグルの背中に近づいた。

「青の殿下、ちょうどいいとこに来た。こいつをつまみ出してくれ。うるせえよ。俺は頭が痛いんだ」

 荒げた声で頼むジェレフの顔は憔悴しており、血で汚れた顔には、滴るほどの汗が浮いている。いつもなら涼やかに微笑んでいる顔の、疲れで落ちくぼんだ目は、白眼が赤く充血し、生彩がなかった。それがただの疲労ではないことは、見ればわかった。

 口元をおさえて、かすかに体を傾がせるエル・ジェレフのもとへ、先ほど運ばれていた母子が連れてこられた。子供は相変わらず泣き叫び、断末魔の痙攣にふるえている母親にすがりついている。

「やべえなこれ、生きてんのか」

 ふふふ、と笑い声をあげて、エル・ジェレフは女の頬を手で包み、血に濡れてからまった黒髪に覆われた、彼女の額に自分のそれを押し当てた。

「死ぬんじゃない、帰ってこい、お前の餓鬼がうるせえよ」

 女に囁きかけながら、ジェレフは彼女の体を抱いてやった。

 死の痙攣にふるえていた女の指が、しだいに穏やかになり、ぐったりと全身が弛緩する。イルスは彼女が、死んだのではないかと思った。しかし、その変化はやがて劇的に始まった。傷つき破れていた皮膚が、みるみる元の姿を取り戻し、女はゆっくりと大きな息をつく。安定した呼吸をはじめた女の顔を、ジェレフは身をかがめたまま、じっと見下ろしていた。

「ああ……まあまあ綺麗な女だ……」

「ジェレフ」

 スィグルが膝をつき、女を抱いたまま動かないエル・ジェレフの顔をのぞき込んだ。

 けだるく顔をあげ、虚ろな半眼で、ジェレフはスィグルの顔を見つめ顔した。彼の鼻から、ぽたぽたと大量の血が流れ出てきた。ジェレフはそれを袖でおさえ、なぜか肩をふるわせて笑った。

「もうおしまいだ」

「ジェレフ、薬は。いつもの、持ってるだろ」

 スィグルが震えた声で訊ね、いつもジェレフが煙管をおさめている煙草入れを彼の帯の中に探った。

「蝶々はもう見飽きたな……」

 荒い息でそう呟いて、エル・ジェレフはただ立ちつくしていたイルスのほうを見上げた。

「もっと強いのがいる」

 エル・ジェレフがなにかを堪えていることが、イルスには見て取れた。痛みだ。彼は苦痛をこらえている。石が脳を押しつぶす苦痛を。

 すでに回復している母親にすがりついて、子供はまだ泣き続けていた。

 億劫そうに、血に濡れた手をのばして、エル・ジェレフは子供の頭を撫でた。

「泣くな坊主、うるせえよ。お前の母親はもう死なないんだから、泣くことなんか、なにもないだろ」

 なだめるように話しかけて、ジェレフは子供の手をとった。子供の腕が切れて、血が流れていた。

「あぁ……なんだ、これか。ちょっと怪我しただけだろ。痛くない。ほら……」

 エル・ジェレフが握ったところから、子供の怪我は、魔法の布で拭き取るように消えてしまった。それで痛みも消えたのか、子供は少し泣きやんで、不思議そうに自分の腕を見た。

「もう……痛くないだろ」

 かすかな掠れ声で、そう言って、ジェレフは子供を押しのけた。そうして彼が自分の頭を抱えるのを、スィグルは身動きもせず、呆然と見ている。

 エル・ジェレフはうめいた。低い声だった。地の底から響いてくるような、深い苦痛の声だ。

 彼が頭をかきむしるので、結われていた長い黒髪がほどけて、血と土埃で汚れた長衣に乱れかかった。倒れるジェレフを、スィグルが抱えようとして、支えきれず、ともに天幕の床に座りこんだ。

 立ち働いていた竜の涙や術医たちは、はっとしたように横目にその姿を見やったが、彼らは仕事の手を休めはしなかった。ジェレフがそのように、指示していたのではないかと、イルスは思った。

 スィグルから、イルスは苦しむ竜の涙の体を引き取った。

 確かジェレフは、帯の中にあの薬箱を仕舞っていた。その場所を探ると、持ち主の体温で温められた、宝石で飾られた小さな箱があった。

「エル・ジェレフ」

 箱を開いて、イルスは半ば意識のないジェレフを抱え起こした。

「薬だ」

 耳元で呼びかけると、ジェレフは瞼を開いて淡い紫の瞳を見せた。一瞬、朦朧としたその目が、差し出された薬を見つめ、それからイルスの顔を見上げた。

「気が利くな、殿下」

 小声で言うジェレフが、かすかに笑ったような気がした。

「だめだ」

 鋭い勘で察しをつけたらしいスィグルが、イルスの手ごと、薬箱をつかんだ。スィグルは必死の目をしていた。

「ジェレフ、休めば治るかもしれない。諦めないでくれ」

「スィグル、手をはなせ、ジェレフが決めることだ」

 振りほどこうとしても、スィグルの手は恐ろしい強さで薬箱を押さえていた。

「勘弁してくれ……最期はあっさりいくつもりだったのに、俺のダージが喜劇になっちまう」

 引きつれた笑い声をたてるジェレフの頬に、白い女の手が触れた。驚いて、イルスはいつのまにかすぐ傍に立っていた、華奢な女の姿を見上げた。

「こんなことだろうと思ったの」

 エル・メッシナが、場に不似合いな無感動な口調で呟いた。

「エル・ジェレフ、私でよければ手伝うわ」

 頬に触れた手を、撫でるようにジェレフの額にすべらせて、メッシナが言った。

「メッシナ……お前はほんとに、いい女だな」

 ほっと深い息をもらして、ジェレフは彼女の小さな手に身をゆだねた。

「さよなら、兄弟」

「やめろ、メッシナ」

 彼女が囁くのと、スィグルが叫ぶのは、ほとんど同時だった。

 鈍く何かが弾ける音がして、抱きかかえていたエル・ジェレフの体が震えた。長い髪を伝って、おびただしい量の血が、ジェレフの体から流れ出た。その命とともに。

「……メッシナ」

 金色の目を見開いて、スィグルは目の前の女の名を呼んだ。

「ジェレフを殺したな」

「ええ。そうよ。本当は、あなたがやるべきだった」

 メッシナが白い手を退くと、エル・ジェレフの額は無傷だった。彼の顔は、疲れ果てて眠っているようだった。

「彼を王宮の墓所に連れて帰ってあげて。頭から石を取り出すの。それがあなたにできる、いちばんの弔いよ」

 諭すように、スィグルに言って、メッシナはジェレフの遺骸を抱いているイルスの肩に触れた。

「あとのことは、お願いね」

 茶色の瞳で瞬く女に、イルスはうなずいてみせた。彼女はどこか、よろめきながら出ていく。与えられた力を、ダージに捧げるために。

「ジェレフ」

 血のしたたる黒髪に触れて、スィグルは呼びかけた。

「ジェレフ、死なないで……」

 消え入る声で眠る英雄に囁きかけ、スィグルはすがりつくように遺骸を抱いた。その手から、奪い取った小さな薬箱が落ちて、床を転がり、中におさめられていた最後の薬が、天幕の慌ただしい喧噪のなかに失われていった。

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