紫煙蝶(6)
王宮の門には、すでに物々しく兵士が集められていた。
スィグルは、資材の運搬を指揮していた若い将をつかまえて、無理矢理何かを問いただしている。迷惑さに首をすくめて答えた男を、スィグルはぽいと放り出して、こちらに戻ってきた。
「第二層」
ひらりと黒馬にまたがって、スィグルはそれだけ告げた。馬上で待っていたイルスは、何の説明もせずさっさと出ていくスィグルの後を、追いかけるべきか、一瞬迷ったが、ついていかなければ後で何と言われるかわかったものではなかった。
イルスは乗り慣れない馬に鞭をくれて、都市を登る螺旋貫道を駆け上がっていくスィグルの騎影を追った。スィグルの持ち物だという栗毛の馬は、気味の良い出足を誇る名馬だった。
「どこへ何しに行くんだ!」
スィグルの背後につけて、イルスは叫んだ。
束髪をなびかせて、スィグルがこちらをふりかえった。
「第二層で落盤が起きたんだ。予知されていたけど場所が特定できていなかった」
叫び返して答え、スィグルは向き直って、さらに馬に鞭をあてた。
「この都市の上層は、後から掘り進んだ増築部で、構造がもろい場所がある。老朽化して落盤するんだ」
イルスは思わず、流れ去っていく天井を見上げた。
王宮は第七層にあり、蒼天のかかる地上から、はるかに深い地下だった。このまま生き埋めになって、二度と空をおがめないというのは、ぞっとする話だった。
「農耕区が埋まった。竜の涙が救援に出ている。ジェレフも行ったはずだ」
スィグルは切迫した声で語り、馬を急かせた。乗馬の腕はイルスのほうが上で、慣れない道のりでも、それについていくのは難しくはなかった。
「行ってどうするんだ、スィグル。お前がいたって、何もできない」
迷ってからイルスが呼びかけると、スィグルが睨むようにこちらを振り向いた。落馬するのではないかと、イルスはぎょっとした。
「ジェレフは死ぬぞ。今日死ぬんだ。戦場じゃない、ただの落盤で。それがあいつの最後のダージだっていうのか! そんなもん……」
スィグルは、イルスには分からない、黒エルフの言葉で、煮えたぎるような悪態をついた。
彼が何に駆り立てられているのかは、イルスには想像がついた。その場にかけつけて、エル・ジェレフを止めようというのだろう。
だがイルスは、自分がジェレフにすでに別れを告げられていたことを思い出した。
もしかすると、今日がその日と、ジェレフはあらかじめ知っていて、昨日のうちにイルスと会見したかったのかもしれない。
ジェレフはスィグルに別れを告げなかった。もし何か話していれば、あの伝言は自分で伝えたに違いない。
勘が良く、そして我が儘なスィグルに、今生の別れめいた言葉を伝えれば、面倒なことになるに決まっている。ジェレフはそう思ったのかもしれないし、その気持ちはイルスにもわかった。
もし明日死ぬとわかっていたら、自分もスィグルに別れは告げないだろう。彼に、穏やかに送られたければ。
第二層への入り口らしき明るいアーチが、螺旋貫道に現れた。それをくぐり抜けると、唐突に広大な空間が現れ、幾何学的に耕された麦穂のなびく美しい耕地が広がっている。
信じがたい光景だった。
この世にこんなものが。
イルスは自分の目が見たものに圧倒され、一時、他事を忘れた。
しかし、遠目に見える落盤の形跡が、イルスを我に返らせた。はるか上にある天井が崩れ、ぽっかりと穴があいている。崩れた岩盤が耕地に突き刺さり、土煙をあげていた。
スィグルはまっすぐに、そこを目指して馬を走らせている。
すでに到着していた救援隊が、砂糖にむらがる蟻のように、身の丈ほどもある瓦礫と格闘していた。
目的地を失って、スィグルは馬の脚をゆるめ、うろうろとその場をさまよわせている。
上層から崩落してきたらしい物の中には、明らかに人家と思えるものの断片が紛れ、岩に粉砕されて下敷きになっている。泥にまみれた衣服の切れ端を目にして、イルスは顔をしかめた。
工兵らしい者たちが、道具を使って岩盤を押し上げようと必死になっていると、その岩が急にふわりと浮き上がった。イルスは驚きで思わず手綱を引いてしまい、馬がいなないた。
浮き上がった岩の下に、押しつぶされた荷車と粉をひく風車のようなものがあり、岩の向こうには、長い黒髪を結わずに垂らした美しい女が立っていた。冷たい無表情をした女の額には、赤い竜の涙が広がっており、イルスはそれに目を奪われた。
「エル・メッシナ。ジェレフを探している」
スィグルは早口に、女に呼びかけた。女は横目でちらりとこちらを眺めてから、大岩を横の農地にふわりと下ろした。その岩を、女が操っているのだということは、なぜか疑問の余地無くのみこめた。
「殿下、エル・ジェレフの最期を乱してはいけないわ」
彼女の冷静な声に、スィグルが内心激昂するのが、イルスには分かった。
「ダージにふさわしくない」
「彼のダージは、彼が選ぶわ。あなたには意見する権利がない。誰にも」
「とにかく会わせてくれ。会いたいんだ」
スィグルは首を振って、女に懇願した。彼女に対するスィグルの態度は、子供っぽく苛立ってはいたが、丁重だった。
彼女は竜の涙なのだろう。女もいるのだということに、イルスは何か胸苦しい思いがした。エル・メッシナは、自分たちと大差ない年頃に見えた。
「わがままなのね」
さらりと、彼女はスィグルの性格を批判した。感情のこもっていない声が、それだけに痛烈だった。
「瓦礫から掘り出された、まだ死んでいない者に、ついていくといい。エル・ジェレフは、彼らを癒すために来ているから」
結局、スィグルが望む答えを与えて、女はため息をついた。
そしてふと、彼女はイルスのほうを見た。
明るい茶の瞳で、一時じっとこちらを見つめ、女は不意に、にやりと笑った。そして、白く細い指で、メッシナは自分の赤い石で覆われた額を指差し、同じね、と言うように、額冠で隠されたイルスの石を指し示した。
同じものと戦っている同士に向ける、親しいが、意地の悪い笑みだった。
「イルス!」
スィグルの声で呼ばれて、イルスははっとし、スィグルの指し示す方向へ顔を向けた。瓦礫の中から救い出されたらしい、若い母親と幼い子供が、板に乗せられて運び去られようとしていた。
女は一見して重症で、血にまみれ、もう死んでいるように見えた。その体にすがりつくようにしている子供は、激しく泣き叫んでおり、まだ生きている。
「ひどいわね。今の竜の涙には精度の高い予知者がいなくて。分かっていれば、逃がしてやれたのに」
エル・メッシナが、無感動に言った。イルスは、女が自分に言っているのだということが、わかっていた。彼女はおそらく、イルスのことを知っているのだ。未来視の力のことを。
「兄弟、あなたのダージは、まだないの?」
挑むように微笑むメッシナの顔を、イルスはまじまじと見つめ返した。
運ばれる負傷者の母子を追っていくつもりらしい、スィグルの後ろ姿が遠ざかるのに気付いて、イルスは引き留める力を感じながら、自分の馬の腹を蹴った。
振り返ると、エル・メッシナは静かな足取りで、次の役目を求めて歩み去ろうとしていた。
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