紫煙蝶(5)

 イルスは深く眠った。

 タンジール王宮の居室は、住み慣れた故郷のものとは違っていたが、快適さでは非の打ち所がなく、暑くも寒くもない。豪華すぎる部屋では落ち着けないイルスの性分に合わせてか、部屋に置かれた調度品は贅沢だが簡素なもので、目のくらむような宮廷の中にあっても、安らぎをおぼえることができた。

 寝具には安眠をさそう涼やかな香りが、かすかに香らせてある。

 タンジールの文化は、大陸でも他に例を見ないほど、高度に洗練されていた。

 かつて山の学院に人質としてやってきた時のスィグルが、あの古く冷たい石造りの建物を、野蛮だと蔑んでいたのも、この宮廷で過ごしたことのある者ならば、当然と思えた。

 この街では、水を汲みに行かなくても、部屋に引かれた泉から、いつでも冷たく澄んだ水が湧いている。

 顔を洗って、イルスはまだどこか寝ぼけたような表情をしている自分の姿を、玻璃細工で美しく装飾された壁の鏡の中に見た。額の竜の涙は、青く、澄んだ色合いをしており、まだ小さかった。

 石の力を使わずにおけば、竜の涙はゆっくりとしか成長しない。運があれば、四十年ほどは生きられるという。それだけ生きられれば普通と変わらない。長く生きたとは言えないかもしれないが、竜の涙でなくても、早々と世を去らねばならない者は、いくらでもいるのだから。

 それなのになぜ、黒エルフの竜の涙は、惜しげもなく力を使うのだろう。

 激しい戦闘が続いていた頃、彼らには選択の余地がなかった。物心つけば宮廷で育てられており、将来は戦場で華々しく散るのだと教えられ、それ以外の生涯はない。

 しかし同盟によって戦いの止んだ今、自分の身を守ってもいいはずだ。

 イルスは、エル・ジェレフの、いつも軽快な微笑を浮かべていた顔を思い出していた。

 自分たちより、ひと世代上の彼は、同盟以前の戦闘を経験している。スィグルの依頼で自分を診にやってきたとき、戦いが終わって、今は暇でしょうがないと言っていた。

 ジェレフは厳密には戦士ではないかもしれないが、いつも激戦の先陣に立って、攻撃に傷つき倒れる味方を彼の魔法で癒し続けていたという。彼が守護するのは、いかなる攻撃をもってしても死なない精鋭軍で、兵は倒れても立ち上がり、致命傷を負っても、そこから蘇ってきた。エル・ジェレフは味方の将兵に、自らの命を削って分け与えていたのだ。

 まぎれもなく、彼は部族の英雄だった。

 戦いが終わっても、彼はそれを続けている。この都市で。戦いに傷ついた兵士ではなく、ただの市民を、気安く癒しているという。

 スィグルは以前それを、枯れた麦に水を撒くようなもの、と言っていた。

 そうかもしれなかった。際限のないことだ。

 イルスは宮廷をうろついても、衛兵につまみ出されない程度に身なりを整え、部屋を出ることにした。スィグルのことが気になった。


 通されたスィグルの部屋は、やはり目もくらむような豪華な輝きで満たされていた。

 楽師を呼んでいたのか、かきならされる多弦の琴の音が、あでやかに部屋の空気をふるわせている。

 だがそれは、喪に服している者が聴くには、あまりにも華やかすぎる音楽だった。通された部屋に踏み入ったイルスは、こちらを振り向いたスィグルと目を合わせて、絶句した。

 彼が半裸で何人もの美女を侍らせていたからだった。

「なにやってんだお前」

 あきれて、そんな言葉しか出てこなかった。

 イルスが話しかけても、女の一人は鳥がさえずるような美声で歌い続けている。

「まだなにもしてない。君が起きてくるのを待ってたんだよ」

 絹の円座から身をよじるようにして、こちらを見、スィグルは手に持っていた細長い煙管から、ぷかりと一息吸って、自分の顔をのぞきこんできた側女の顔に、白い煙をふうっと吐きかけた。

 その仕草は、どこかエル・ジェレフのそれを思い返させ、イルスは我知らず不機嫌な顔になった。

「座りなよイルス」

「どこに」

 険のある口調で、イルスは訊ねた。部屋は雑然としており、酒杯や楽器、女達のものらしき衣服がそこかしこに散らかっていて、床の絨毯は虫干しの日のようになっている。

「お前ら邪魔だ、あっちにいってろ」

 女達を邪険に追い払い、スィグルは自分の向かいに設えられていた客用の座をイルスに示した。床に直に座るのがこの部族の習慣で、椅子の生活に慣れているイルスは、どうもそれに慣れない。

「休めたかい。ジェレフはなんて言ってた」

 起きたところなのか、これから寝るのか、判然としない眠たげな顔を、スィグルはしていた。人工の灯で照らされるこの街には、昼も夜もない。もともと怠惰な性分のスィグルが、その気になれば、いくらでも自堕落に暮らせるだろう。

「さあ。そういえば病状のことは何も言ってなかったな」

 しぶしぶスィグルの向かいに腰をおろして、イルスは答えた。

「臆病な君が、自分の余命は知りたくないって言ったから、死ぬのが明日だとは言えなかったんじゃないの」

 ふふふ、とたちの悪い冗談でいかにも面白そうに笑い声をあげて、スィグルは煙管を吸い、細い煙を吐いた。

「お前、それやめろ」

 スィグルがなにを吸っているのか分からなかったが、イルスは今にも彼が、目には見えない紫の蝶を追う視線をしそうで、いやな気分だった。

「これはジェレフがくれたんだよ。別に変なもんじゃないよ。殿下のお心を安らかにするお薬さ」

「麻薬(アスラ)か?」

「違うよ。ただの気鬱の薬だよ。頼んだところで、ジェレフが麻薬(アスラ)なんか僕にくれるわけない。それに言わせてもらうけど、歴史的に麻薬(アスラ)は君んとこの密貿易品で、僕の祖父の代には高値で売りつけられたうえ、宮廷から市井まで足腰ふらふらにさせられたんだぜ。父上がどんなに苦労して浄化をなさったか。今さら自分だけ汚れないみたいな顔で僕に説教しようとするなよ」

 よくそんな、すらすらと文句を言えるものだと、悪意があるときのスィグルの舌の滑らかさにイルスはげんなりした。

「宮廷で麻薬(アスラ)を使うことが許されているのは、竜の涙だけだよ」

 気が萎えたように、スィグルは煙管の灰を用意されていた盆に打ち落とし、放り出した。

「ジェレフがいつも、吸っているだろう。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)」

 櫛をいれていないらしい、もつれた黒髪を、スィグルはうるさそうに手で払いのける。

「ジェレフは君にはなんか言ってなかったかい。あいつはもうすぐ死ぬんだ」

 ごろりと仰向けに横になって、スィグルは金銀で刺繍された脇息に、頭を乗せた。

「そこらへんの餓鬼や年寄りまで癒してやるのは止せって言ってるんだ。人が死ぬのは運、不運だろう。それをいちいち助けていたら、きりがないんだ。戦場で兵を救うなら英雄でも、出産で死にかけた貧民の女を助けてやったところで、ダージのねたにはならない」

「でも尊い仕事だ」

 イルスは心底から、そう言っていた。

 数えるほどしか会ったことはないが、イルスはエル・ジェレフを信頼していた。同胞、海エルフ族には、竜の涙は忌避されていて、病ではなく呪いだと考えられている。医者に診せるどころか、人に知られれば、それを理由に命を奪われる恐れもあった。偏見に満ちている。

 イルスの青い石を、憎みもせず、不安げに顔を曇らせもしないで見つめ、心配ないと笑って言ってくれるのは、エル・ジェレフだけだ。

 心配ない。そう。たかが死だ。

「ジェレフは母上を癒せなかった」

 天井を見上げ、なにかを遠望するような顔をして、スィグルがぽつりと話した。

 イルスは友の白い顔を、しばらく黙って見下ろしていた。

「それは、仕方のないことじゃないのか。ジェレフは術医で天使じゃない」

「天使だって母上を救えなかっただろう」

 横になったまま、スィグルは腹をふるわせて笑っている。

「僕にはそれが分かってた。なのにどうして、ジェレフに母上を助けるよう頼んだんだろう。仮に救えたところで、あれは何の役にも立たない人だったよ。ジェレフを死なせてまで、助ける価値があったと思えない。助かりゃまだしも、結局死んだんだから、なにもかも無駄だったんだ」

 それだけ早口に言って、スィグルは顔をかきむしるように擦った。

 イルスには、ジェレフがスィグルに伝えるように言い残していった言葉の意味がのみこめた。

「ジェレフが昔、言ってたよ。生きよう、助かろうという意志のある者しか、ジェレフの力では癒せないんだ。治してるんじゃなく、治ろうとする体を支えてやる魔法なんじゃないかって……」

 大きなため息をついて、スィグルは無気力そうに大の字に寝転がっている。

「虜囚の身から救い出されて、死にかけで戻ってきた僕らを、助けてくれたのはジェレフだ。僕は死にたかった。生きて戻ったのが恥ずかしかったんだ。でもジェレフは、僕の体は生きようとしていると言った。母上も、弟(スフィル)も……皆それぞれ戦っているのだから、僕ひとりが逃げてはいけないと」

 蕩々と語るスィグルは、いかにも眠そうだった。それは先程の薬の効果かもしれないが、イルスは、スィグルがあまり眠っていないように思えた。

「でも実際どうだったろう。戦っていたのは僕だけで、ジェレフの助けを借りても、母上も、スフィルも、結局どうにもならなかった。ジェレフの命を、無駄に喰らっただけさ」

 言いながらスィグルは、両手で隈の浮いた目元を抑えた。

「母上は生きるのをやめたんだ。そんなやつを、助けられる魔法なんか、この世にはないんだ」

 悔しそうに言って、スィグルは押し黙った。

 言いたかったことを、あらかた吐き出したらしかった。

 昔からスィグルは、言葉を腹にためこむ質で、彼が苦しんでいるときには、とにかく黙って話をきいてやるのが一番だった。話して体が軽くなれば、スィグルは自力で立ち上がってくる。

「族長には訃報を伝えたのか」

 気になっていたことを、イルスは訊ねた。

「まだ」

 スィグルは顔をかくしたまま、きっぱりと答えた。

「遺体は……」

「うるさいな。久しぶりに会ったのに説教ばっかすんなよ。どうせみんないつかは死ぬんだ。大したことじゃない。ほっときゃいいんだよ。母上も、ジェレフも、お前も、僕がどんなにじたばたしようが、さっさと死んでしまうんだ。生きてるうちは楽しそうにしてろ。僕の気が晴れるような話をしろよ」

 驚くような勢いで起きあがって、スィグルはイルスの眼前で、一気にそう喚いた。

「……お前、おかしいぞ」

「僕はいつだっておかしいよ。そんなのよく知ってるだろ」

 あらわになっている白い首を垂れて、スィグルは駄々をこねるような小声で答える。

「エル・ジェレフが、お前に、後悔しなくていいと伝えてほしがってた」

「後悔?」

 乱れた黒髪の間から現れたスィグルの顔は、強ばっていて、怒っているようにも、泣き出しそうなようにも見えた。

「してないよ、そんなもん」

「お前の話は、いつも嘘ばっかりだな、スィグル」

 イルスが静かに非難すると、スィグルは悲しそうに笑って、肩を落とした。

「昨日、外で星を見てたんだ、一晩中」

 やってきた自分たちの隊列を、タンジールの入り口で出迎えたスィグルの姿を、イルスは思い出した。一夜をあの場で過ごしたとは思っていなかった。あの格好では、さぞかし寒かっただろう。

「月と星の船って、どこにあるのさ。本当に皆、死んだらそれに乗るのかな。僕も死んだら、その船に乗れて、母上も、ジェレフも、君もいるのか」

「さあ。そんなこと俺にはわかんねえ」

 イルスの気の利かない答えに、スィグルは情けなそうに口の端で笑った。

「僕は、月と星の船の伝承は、ほんとうは史実で、僕らの祖先がこの大陸に乗ってきたというその船は、実在するんじゃないかと夢見ていた。でも今日は、あの話が実はただのお伽話で、死んだら皆でその船に乗っていけるんだって、信じたい気持ちがわかるような気がするよ。皆、僕を置いて逝ってしまうし、寂しいんだ」

「そうだな……」

 ふらふらになって突っ立っているスィグルが哀れに思えたが、イルスにはどうしてやることもできなかった。

 スィグルもエル・ジェレフを、頼りにしていたのだろう。母親を失い、今こそあの軽口で励ましてほしい相手なのに、自分のせいで死なせるような自責をスィグルは感じて、耐えられないのかもしれない。だが、それに、生半可な同情で、気にするな、気を楽にしろと慰めたところで、何にもならない。余計に惨めになるだけだ。

 からん、と、床に並べて置かれていた銀の酒杯が、涼やかな音を立てて小さく打ち合った。

 うなだれていたスィグルが、音に気を引かれたように、そちらを見て、かすかに震えている酒杯を眺め、やがてはっとしたように上を見上げた。

「揺れてる」

 イルスも、スィグルに習って天井を見上げてみた。確かに、天井を装飾している色とりどりの揺(よう)が、ゆらゆらと揺れていた。

「……落盤だ」

 叫ぶように言って、スィグルは明らかな動揺を見せた。

「落盤?」

「ジェレフが行ってしまう」

 一瞬、おろおろと惑う気配を漂わせ、それからスィグルは部屋を出ていこうとする。

「待て、どこかへ行くなら、まともな格好をしろ」

 イルスが忠告で引き留めると、スィグルは苛立って噛みつきそうな顔をこちらに向けたが、自分の格好を見て、すぐに納得した。悪態をつきながら、床に散らばる服をあさり、自分が着ていたものを探すスィグルを、あきれながら見守り、イルスは立ち上がった。

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