紫煙蝶(4)

 石のない者は出ていけといって、エル・ジェレフはスィグルを部屋から追い出した。

「長旅で疲れているところに悪いけど、俺はあんまり時間がないんでね。さっさとやらせてもらうよ」

 イルスに与えられた居室に、エル・ジェレフは彼の弟子か部下らしい者を何人か連れてきていた。彼らに運びこまれた荷物からは、なにか独特の清々しい香りがした。

「吸っても?」

 イルスの目の前に、短い銀の煙管(きせる)を振ってみせて、エル・ジェレフが確かめた。イルスは頷いた。

 ジェレフは、イルスの知る限り、煙管を手放せない質で、思い返すといつも、さまざまな香りのする薄煙をくゆらせていた。小柄な黒エルフにしては長身で、涼しげな切れ長の目をした彼には、けだるそうに煙管をくわえている姿が、ひどく様になっていて、煙をまとっていないと、なにか物足りないような気さえするほどだ。

 常に持ち歩いているらしい火種から、煙管につめたものに火をつけて、ジェレフはそれを口のはしに銜えると、はじめの一息を、いかにも美味そうにふうっと吐き出した。細くたなびいた煙は、薄く紫がかっていて、甘ったるい臭いがする。

「煙たいだろう。でもこいつが俺の命綱でね」

 端麗な細面で微笑み、ジェレフは器用に、火のついたままの煙管を指先でくるくると回してみせた。

「さっそくだけど、殿下。最近、石の力を使ったかい」

「いいや」

 イルスは即答したが、ジェレフは疑わしそうな表情を作ってみせる。

「殿下の力は未来視だろう。それっぽい幻覚や、予知夢を見たりしなかったかい」

「ないと思うが……自分の夢にまで責任持てないな」

「自分では制御できない種類の力というのは、竜の涙にとっては、とても危険だよ」

 何度も繰り返し聞かされた話に、イルスは思わず渋面になった。言われたところで、どうしようもない。眠らずにいるわけにはいかないし、突如として見る白昼夢のような未来視を、自分ではどうすることもできない。

「殿下は、発想を変えたほうがいいと思う」

「どういうふうに」

「死なないようにしようとするから、この石は恐ろしいんだ。どうせ死ぬ、諦めろ。大切なのは、限られた生きているときを、楽しく有意義に過ごすことさ」

「そりゃそうだろうけどな」

 いかにも軽薄に言うエル・ジェレフがおかしく、イルスは向き合って床の座にあぐらをかいてる彼に、苦笑を向けた。

「最近、頭痛は」

 訊ねてから、煙管を吸い、ジェレフは紫煙を乗せた長い息を吐き出す。

「無いとは言わないが、困るほど増えてはいない」

「殿下は痛みを我慢してるのかい」

「ほかにどうする」

「その痛みは、いずれ我慢できなくなる」

 イルスのぼやきに被せるように、ジェレフが言った言葉は鋭かった。彼は微笑んでいたが、その目は笑ってはいない。イルスが答えないでいると、ジェレフはまた深く煙を吸い込み、どこか官能的な気配のする表情で、ゆっくりとそれを吐き出した。

「運良く苦痛の少ない者もいるが、大抵の竜の涙は最終的には痛む。その痛みは、堪えて堪えられる種類のものではない。運が悪ければ、血反吐を吐いて七転八倒だ」

 ジェレフの話しぶりはまるで他人事のようで、あっけらかんとしていた。イルスは黙って聞いていたが、自分の手が汗をかいているのを感じた。いやな気分だった。

「有意義に生きていたければ、痛みを抑えるしかない。毎日頭を抱えていても仕方ないからな」

 にっこりと笑みを見せて、ジェレフは話を締めくくった。彼が指で差し招くと、後ろに控えていた者たちが、持ち込んでいた荷物をほどいて、二人の間に広げてみせた。

 中には、薬草のようなものが幾種類か、丸薬のように練ったものや、円盤状に突き固めたものなど、様々な形でおさまっていた。それらに混ざって、何本かの煙管が転がっているのに、イルスは気付いた。

 目を上げると、伏し目がちにこちらをうかがっていたエル・ジェレフが、ふうっと紫煙を吐き出したところだった。

「麻薬(アスラ)だよ」

 頷くような目配せをして、ジェレフがイルスの読みを肯定した。

「殿下、経験は?」

「ないな」

 イルスは端的に答えた。

「無い? 試そうと思ってみたことも無い?」

「ない」

 イルスは断言した。ジェレフは首をかしげ、珍しいものを見るように、こちらを見つめていた。

「いずれ必要になる」

 白い額を掻いて、ジェレフはくすりと鼻をすすった。

「これは白煙光(ダーダネル)、鎮痛効果がある。口の粘膜から吸収するから、ただ舐めればいい。不味いけどね。そしてこっちは暗闇茸(デディン・ミル)、これも経口。鎮痛効果が強いのが取り柄だが、使いすぎると目の前が真っ暗になる。でもまあ失明するわけじゃないから、一時的なもんだ。これも効かなくなったら、これを使え。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)。燃やした煙を吸うんだ。とても効く。煙管を使うといい」

 言い終えて、ジェレフは小さくため息をつくと、煙管から深く吸い込んだ。イルスは、彼の白い額が汗で濡れていることに気付いた。

「エル・ジェレフ、大丈夫ですか」

「ああ、蝶が見える」

 どこか茫洋とした口調で、竜の涙は答えた。イルスは目を細めた。部屋にはもちろん、蝶などいなかった。

「殿下、紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)は強い薬だ。鎮痛効果はとても強いが、幻覚をともなう。紫の蝶が、ひらひら飛び回るのが見えるんだ。その蝶は別に害はないけど、この薬には常習性がある。体に耐性がつくと、薬効が薄れるから、使用量もじょじょに増えて、蝶もたくさん、ひらひら……」

 目に見えない蝶を、エル・ジェレフの紫の目が、ゆらゆらと追いかけている。

 ふと笑って、イルスに目を戻し、ジェレフは燃え尽きた煙管を、帯にかくしてあるらしい煙草入れに仕舞った。

「痛みが耐え難く続くようになったら、いちばん弱い白煙光(ダーダネル)から使ってみるといい。これは白い光が見えるが、そんなの大した問題じゃないだろう」

「今も痛むんですか」

 イルスは居心地が悪く、そういうときの癖で、意味無く髪をかき上げて、エル・ジェレフに訊ねた。

「ん? 俺のことか? 痛いよ。薬がないと、こうやって殿下とのんきに話していることもできない」

「休んだほうが」

 イルスがすすめると、エル・ジェレフは面白い冗談を聞かされたように、けらけらと爽やかに笑ってみせた。

「休んで治るもんじゃないだろ。俺は術医として部族に仕える身だ。病んで苦しむ気の毒な民を救わねば、ただの無駄飯食らいだ。この薬だって、目が飛び出るほど高価なんだよ」

「もし、この蝶の薬も効かなくなったら?」

 イルスが箱の中の黒く突き固められた円盤を視線で指し示すと、エル・ジェレフは涼しげな伏し目で、同じものを見つめた。

「紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)は、竜の涙にとって終着点だ。蝶々でも太刀打ちできない痛みに到達したら、これを使う」

 帯から、宝石で飾られた小さな箱を取り出して、エル・ジェレフはそれを開き、中におさまっていた小さな黒い丸薬を見せた。

「口に含んで噛み砕けば、すぐ死ねる。結局のところ、死ぬのが一番らくなのさ」

 イルスは、その話を黙ってきいた。

「悪いけど、殿下にはこれはあげないよ。こういうのは皆、自分で準備するものだからね」

 脳裏に、竜の涙に半面をゆがめられた女の顔が蘇った。ヨランダ。あの女も、愛しげに毒を身につけていた。

「俺はもうすぐ、これを使わないといけなくなりそうだ」

 手のひらのうえの薬箱をじっと見下ろして、エル・ジェレフは淡々と言った。

「だから、殿下には幸いまだ早いだろうけど、この薬はちゃんと持って帰ってくれ。まだ生きられるうちに、殿下に病苦で首でも吊られたらかなわんからね」

「俺はそんなことしない」

「そうだろうか」

 薬箱を閉じ、帯のなかに戻しながら、エル・ジェレフは冷たく答えた。その言葉は、あっさりと響いたが、のみこむと、重く胃の腑にのしかかってきた。

「殿下の部族では、石を持って生まれた子供は、産屋のうちに殺してしまうらしいね。それは野蛮だけど、案外、優れた方法かもしれない。殿下はまだ、そう思わないだろう。でも、蝶々がたくさん飛び回るころには、考えも変わる。恐怖に震え、苦痛に耐えて、挙げ句悶死か。俺は何のために生まれてきたんだ。赤ん坊のうちに殺してくれてたら、こんな目にあわずにすんだのに、って……」

 いつも軽快なはずの、エル・ジェレフの声が、ねっとりと重い恐怖を含んで沈んでゆくのが、イルスには耐え難かった。この男が死ぬという事実にも、耐え難い苦痛をおぼえた。人の死はたいてい悲しいが、竜の涙を持った者の死は、イルスに自分の運命を思い起こさせる。

「殿下、ダージが必要だ。紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)が効かない痛みがやってきたときに、最後に竜の涙を支えるのはダージだ」

 長衣の裾をさばいて、エル・ジェレフは立ち上がった。彼の衣からは、涼やかな甘い香りがした。

「俺は部族の英雄で、俺の短い一生は英雄譚(ダージ)となって永遠に詠い継がれる。俺の生涯に価値がないというなら、他の者の一生なんて牛のクソ以下だ」

 にっこりと微笑むエル・ジェレフの表情は、彼のまとう紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)の香りに似て、爽やかで甘かった。

「心配いらない、殿下。誇りを保って、良い生涯を生きられる。詩人がダージに詠むような」

 小さく黙礼して、エル・ジェレフは部屋を辞そうとしていた。

 イルスは立ち上がり、答礼した。

 扉の前でふりかえった英雄が、わずかに逡巡し、そして密やかに口を開いた。

「スィグルに言ってやってくれ。後悔する必要はないと」

 意味はわからなかったが、イルスは頷いた。必ず伝えなければならない。

 それが竜の涙の遺言なのだということが、イルスには分かっていた。

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