パスハの南・帰郷編(4)
「ジェレフ」
派閥の執務室で文机につっぷしているエル・ジェレフの背中に、ギリスは呼びかけた。相手はぴくりとも応えなかった。
「ジェレフ、寝てんの」
「いいや、死んでるだけだ……」
「そうなんだ」
朝儀に提出する巻物を、ジェレフは書き上げたところのようだった。公式文書にするための立派な巻紙に、長々としたためた文書が貼り付けてある。
ギリスは文章を書くのが嫌いなので、その気持ちが理解できなかったが、ジェレフは書記に書かせるのではなく、いつも自分の手で提出書類を書いていた。
帰り着いたその足で、たぶんひどく眠いのに、部屋で休みもせずに、よくやるとギリスは感心した。よっぽど仕事が好きなのか。
「なあジェレフ」
もう一度呼びかけたが、屍は応えなかった。
「なあジェレフ。スィグルの舌って治んないの。お前が治したんだろ」
「治らなかったな」
「ヤブ術医だな」
肩にある傷痕だって、治っていなかった。こいつはちゃんと仕事したんだろうかと、ギリスはジェレフを見つめた。
おかしい。大抵なんでも治せるやつなのに。従軍したときには、同じ隊にジェレフがいたら、多少の無茶をしても奴が何とかするだろうと思って、ギリスはいろんな無茶をしたものだった。期待に違わず、ジェレフはどんな致命傷でも治癒させたし、あの口の上手い族長が、当代の奇蹟と讃える技は、伊達ではないと思う。
ジェレフはそれを自慢にしているはずだ。
もしかすると、宮廷詩人たちの作る英雄譚(ダージ)よりも、あの一言のほうを。
「無理なこともあるんだよ、ギリス。何事も程々にできないジェレフちゃんだから……」
「…………」
突っ伏したまま答える屍を、ギリスはじっと見つめた。
「ジェレフ。元気出せ。エロ戯曲の変態主人公にされるくらい何でもないだろ」
励ましたが、なんだか返って空気が重くなった。
「元通りにする方法ないのか」
「なにを。俺の地に落ちた自尊心をか」
「なに言ってんの。そんなのどうでもいいだろ。スィグルの舌だよ」
訊ねられて、ジェレフは深いため息をついている。解いたままの髪が、ぐしゃぐしゃになって、顔と文机に垂れかかっていた。
まさか泣いてんのかお前。ギリスはそう危ぶんだが、だからといって何かしようとは思いつかなかった。
「治ると思うよ、そのうち……」
掠れた声で、ジェレフがその死霊のごとき口調に似合わず希望のあることを言った。
「まだまだ、休養と安息が必要なんだよ。自分を許せるようになるまでに」
「でも天使が赦したんだろ。もういいじゃん」
額ずいて懺悔すれば、天使はどんな罪でも赦してくれる。そのためにいるんだろ、神殿の天使は。
「人を癒やすには、赦しじゃなくて、愛が必要なんだよ。それが治癒術の根本なんだよ」
あんまり息も絶え絶えにそう言うので、それがジェレフの遺言かとギリスは思った。
「じゃあもし俺にジェレフみたいな治癒の素養があったら、治してやれたかもしれないのに。愛ならいっぱいあるよ。俺にも治癒術教えてよ」
「そんな魔法は、なくてもな……」
むくりと顔を起こして、ジェレフは気力を振り絞ったのか、書き上げた書類を、気怠げな手つきで、くるくると巻始めた。
「あとは誰でも治せるよ。お前でも。一番危ないところは、もう遠に通り過ぎてる」
頭痛でもするのか、ジェレフは天を振り仰ぐような姿勢で目元をおさえ、文机に放り出してあった銀色の煙管に手をのばした。盆から火を入れてジェレフが吹かした煙の匂いを嗅いで、ギリスは鼻をひくつかせた。
ジェレフ、もう蝶々と戯れてんの。
紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)の匂いだった。この煙を漂わせはじめた兄(デン)たちは、いつのまにかいなくなる。
「なあジェレフ、痛くない時には吸うなよ。なんかに酔いたいなら恋でもしたら?」
「誰と」
「サフナでもいいじゃん。お前ちょっとはサフナのこと好きだっただろ」
「そうだったかもしれないが、お前が割って入ってきて邪魔したんだろ」
忠告が効いたのか、気が萎えたのか、ジェレフは何となく腹立たしそうに、煙管を盆に打ち付けて薬を捨てた。吸うと幻の蝶が舞うという、涼やかな甘い煙が、細く辺りを漂った。
「でも俺が邪魔してなかったら、半月か十日早く、紫の蛇の毒牙から何たら会の毒牙にかけられてただけじゃん」
そうだなと情けなそうに言って、ジェレフは頷いた。
「派閥抗争なんて性に合わないんだよ。俺はまた巡察の旅に行くから」
煙管を帯にしまって、巻物を懐に入れ、ジェレフは立ち上がった。そして何のつもりか、通りすがり様、ギリスの頭を撫でるように、ぽんと軽く叩いた。
「がんばれよ、ヴァン・ギリス」
「どこ行くの、ジェレフ」
「書類を提出してから、自分の部屋で寝るよ」
そうじゃなくて、どこへ行く旅なんだよ。
誰と行くんだ。ひとりで行くのか。何しに行くんだ。いつ帰ってくるんだ。どうして皆、ろくにさよならも言わずに出て行っちゃうの。
そういうことが頭をよぎったが、どれから訊いたものか決められず、結局黙っていた。
イェズラムが出ていく時も、そういえば、自分は部屋で腰を抜かして、ぽかんと眺めているだけだったなあと、ギリスは思い出していた。
どうして、付いていかなかったんだろう。行こうと思えば行けたはず。一緒に付いて行ってれば、イェズラムは生きて戻れたかもしれないのに。
その事に気付いたのは、なんとつい最近のことだった。
だいたい俺はいつも、二十歩くらい遅いよなあと、ギリスは思った。
そんなだから、誰にも愛してもらえないんだろう。
「ジェレフ」
ふと思いつき、世話んなったなと、ギリスは礼を言おうとしたが、足早に去っていった治癒者の姿は、もう見えなかった。
追うか、どうしようか、と困りながら、ギリスはちっとも決められず、部屋に残された紫煙蝶(ダッカ・モルフェス)の甘い香りを、いつまでも、いつまでも嗅いでいた。
《完》
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