パスハの南(15)
「ええ、そうです。あなたを落とせるか。成功したら、わたくしの勝ちで、皆がわたくしに真珠を買ってくれるのよ。これから宝石商にいって、いちばんいいのを選びましょう」
頬を染めて嬉しそうにしているサフナールの顔には、物欲、と大書してあった。
顎が落ちそうになっているジェレフと目を合わせ、サフナは急に、あ、そうだわと呟いた。
懐の隠しから、ごそごそと小さな紙切れを取り出し、サフナはそれを読み上げようとしていた。
「これを忘れてました。わたくしの兄(デン)から皆さんへの声明文です。えーと。亡きエル・イェズラムの派閥の皆様へ。英雄の死に心からお悔やみを申し上げます。派閥を引き継がれる方に申し上げます。わたくしたち、結社・紫の蛇の毒牙から銀の泉を守る会の者は、エル・イェズラム亡き後も攻撃の手をゆるめるつもりはございません。心して防戦なさいませ。まずは新首長のお一人とおぼしきエル・ジェレフに、わたくしの刺客をお送りいたしました。今回の模様はダロワージにて皆様に細大漏らさずご披露しておきます。ご無事でお戻りになりますよう、旅の安全を心よりお祈りしております。英雄(エル)・エレンディラ。かしこ」
脳をすり潰されそうな頭痛の中で、ジェレフはサフナールのどこか舌足らずな朗読を聞いた。
エル・エレンディラは長老会の一人で、女性だった。とても美しい人で、赤い華やかな石を冠のように髪に飾っている、雷撃の魔導師だった。エル・イェズラムと親しいとも、仲が悪いとも聞いたことがなかった。ただ彼女が熱心な族長派だという事実を知っているだけで。
「結社・紫の蛇の毒牙から銀の泉を守る会?」
ギリスがぽかんとした声で、サフナールに尋ねた。
「ええ、そうよ。そういうものがあるの。知らなかった?」
知らなかったと答える代わりに、ギリスはこくこくと頷いて見せている。サフナはくすりと楽しそうに笑った。
「それって名前のまんまの内容の会?」
「ええ、その通りよ、エル・ギリス」
ジェレフは目を瞬きながら、考えた。紫の蛇とはエル・イェズラムのことだ。彼の名前はそういう意味を持っていた。そして銀の泉とは族長のことだった。族長のリューズという名は、銀の泉という意味を持っているからだ。あまりにもそのまんまだった。
「毒牙って……」
「エル・イェズラムは、リューズ様の臣でありながら、いつも反逆して、いいところを持って行くので、むかつきます」
にっこり微笑みながら、サフナールはきっぱりと答えた。
「それはそれで部族のためにもなることですから、目はつぶりますが、リューズ様を命とも崇めるわたくしたちは、報復のためのいやがらせをすることにしたのです」
「イェズにもなんかしてたのか、あんたたち」
ぎょっとして、ギリスが尋ねる。
「してました。でも向こうのほうが上手で、連戦連敗でした。ですから今こそ、その腹いせを」
夢見るように、華奢な顎の先で両手を組み合わせ、サフナールは答えた。
「ごめんなさいね、エル・ジェレフ。あなた個人に恨みはないのです。むしろ好きですけど。でもあなたはエル・イェズラムの取り巻きだったから。標的になっても仕方がありませんわよね?」
同意しろという目で見られて、ジェレフは控え目に言っても泣きそうだった。
そしてくるりと振り向いて自分を見たサフナールの視線に、ギリスが慌てたふうに後ずさった。
「俺!?」
「さあどうかしら」
にやりとサフナールが意地悪く笑ってみせる。
「あなたのリューズ様への出立の挨拶、ちょっと失礼だったんじゃないかしら」
「ごめんなさい! 今度からちゃんとします」
脅しに一瞬で屈するギリスの謝罪には恥も外聞もなかった。
なにを見たんだ、ギリス。俺の記憶がない間に。
「さっ、タンジールにいる兄(デン)に報告の鷹通信(タヒル)を送らなくっちゃ。わたしく先に行っております。おふたりは真珠の買い出しに付き合ってくださいね。異国を一人歩きするのは危険ですから、護衛が必要ですもの」
ばさりと粋に長衣(ジュラバ)の裾を払って、エル・サフナールは颯爽と歩き出した。はっとしてジェレフは彼女を引き留めようとした。しかしサフナールは二日酔いの裸の男に捕まるような間抜けな人ではなかった。
ひらりとジェレフの手を踏み越えて部屋から出て行く彼女は、戸口から振り返って手を振ってみせた。
「ギリス、頼むから追ってくれ」
ジェレフは頼んだ。しかしギリスは首を振って拒んだ。
「いやだよ、邪魔したら俺もどんな目にあわされるか。あんな強烈なもんを、ダロワージでがんがん詠われたら、俺、帰ってからあいつに八つ裂きにされちゃうよ。よかった禁欲してて、あやうくバレるところだった」
「ギリス!!」
頭が痛むのも構わず、ジェレフは叫んだ。
衣服を改めて、鷹のところへ追っていったが、エル・サフナールはすでに、銀の矢(シェラジール)64号を遠く故郷に向けて放った後だった。
竜の涙に女はいない。
いるのは男と怪物だけだ。
もしかするとそれが、今回の旅でもっとも勉強になったことだった。
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