パスハの南(13)

 真珠を買いに行きたいのですと、エル・サフナールは言った。

 滞在している部屋の戸口に現れた彼女に、ジェレフは顔を出し、明日行きたいという土産物の買い出しの誘いを聞いていた。

 廊下で立ち話をさせるのも失礼だったが、部屋の中に招き入れるわけにもいかなかった。

 女を男の部屋に引き入れるのはまずいというのも無いではないが、それは時と場合による。なんで今なんだエル・サフナールと、ジェレフは思った。

 なんで俺の部屋で大酒を飲んだギリスがとぐろを巻いている時に、あなたはわざわざ来たんだ。

「もちろんお供します。一人で行かないほうがいいです。でも後で相談させてください」

 自分は酒臭いのではないかとジェレフは思った。

 なにしろギリスに付き合わされて、しこたま飲んだところだ。

 飲酒はあまり誉められた習慣ではなかった。部族の者には下戸も多かったし、そうでない者が酔っぱらっているのを白眼視する向きもある。なにしろ族長が下戸なので、宮廷では飲酒を遠慮する空気があった。

 しかしジェレフは酒が好きだった。同輩ばかりの仲間内ではよく知られた話だ。もちろん男ばかりの場でのことだ。

 きゅうに立ち上がって歩いたせいか、なんとなく朦朧とした。

「族長閣下のご三男の診察は上首尾でしたでしょうか」

 なおも粘る気配で、エル・サフナールは話を継いだ。

 彼女が自分を口説きにきたのだということは、ジェレフには判っていた。そういうことは、大抵、一瞬でわかる。

「うん。でも、ものが竜の涙だから……」

 答えかけて、ジェレフは自分の言葉が少々馴れ馴れしいのではないかと思い、額をおさえて口ごもった。

 やばい、本当に酔っている。

「酔ってらっしゃるのですか」

 なんとなく気恥ずかしげに、サフナールは尋ねた。彼女は相変わらずの男装だったが、細くふにゃりとした黒髪を、肩口でゆるく結い、そこに花の形をした髪飾りをつけていた。

 可愛いなあとジェレフは考えた。ギリスではないが、呉服商から女物の服をもらってくればよかった。きっと喜んだだろう。彼女でなく自分が。

「酔っていません」

 いいや、確実に泥酔している。嘘で答えた自分の返事に、ジェレフは参った。

「お留守の間に、正妃様から遣いの方が寄越されて、わたくしにサウザスに留まるようにとおっしゃいました」

 困ったように、サフナールは言った。やっぱりそうなったか。

「どうしたらいいでしょうか。わたくしもタンジールに帰りたいです」

「そんなの当然のことです」

「ええ……でも」

 サフナは少しうつむいて、躊躇うようにもじもじした。

「エル・ジェレフ。あなたは族長のご三男の治療のために、しばらくこの地に留まられるのですか? もしそうなら、わたくしは、ご一緒できたほうが嬉しいです」

「サフナ……」

 いきなりそんな本題に入る彼女に、ジェレフは衝撃を受けた。普通ならここで部屋に連れ込んで完了じゃないか。

 なのになんであいつが部屋にいるんだ。

「ジェレーーフ!!」

 ほとんど絶叫するようなギリスの怒声が、背後から聞こえた。

 勢いよく全開された扉が壁を打って、ばん、とけたたましく鳴った。自分より身の丈の低いギリスに、背後から腕をかけ首にぶらさがられて、ジェレフは息がつまった。ほかにもいろいろ胸に詰まりそうな気分だった。

「なに逃げてんだ、吐くまで飲め!」

 ギリスは酔っているのかまだ素面なのか判然としなかった。もともと酔っているようなものなのではないかとジェレフは思った。

 ぽかんとしてこちらを見ているサフナの視線が猛烈に痛い。

「なんだサフナか。ジェレフを口説きにきたのか」

 あまりに単刀直入に訊かれたせいか、それとも酔ったギリスの勢いに気圧されたのか、サフナはぽかんとした顔のまま素直にこくこくと頷いた。

「こいつはな……お前が思ってるような男じゃないんだぞ」

 怨念のこもった声で、ギリスはサフナールに言った。ジェレフは口を挟もうとしたが、ギリスが首を絞めてそれを制した。

「弟(ジョット)なんかいるわけないだろ。今日と明日で相手が違うようなやつなんだぞ。いよいよって時に名前を呼び間違えて相手を萎えさせるようなやつなんだ」

「だれに聞いたんだ……」

「お前のことだって、どうやってやろうかとか、そんなことしか考えてないに決まってるんだ」

「考えてない、まだそこまで考えていません!」

 ジェレフはギリスの腕を振りほどこうとしながら叫んだ。しかしギリスの腕は蛇のように執拗にからみついていた。暑苦しかった。

 サフナはまだ、薄く唇を開いて、ぼかんとしていた。

「酔ってらっしゃるのですか」

 さっきと同じ事を、サフナは尋ねた。

「地元の火酒を浴びるほどかっくらって、べろんべろんです」

 勝手にギリスが返事をした。微妙に口調をまねられて、ジェレフはむっとした。

「わたくしも飲んでよろしいですか。お酒には目がないので」

 ぽかんとしたまま、サフナールが尋ねた。

「えっ」

 その相づちは、自分の声かギリスの声か、もう良く分からなかった。

 駄目だと言われないのを確認して、サフナールはふらりと部屋に押し入ってきた。

 そして膳の上にあった酒瓶を、その前の円座に優雅に横座りして彼女はとりあげ、ジェレフが飲みかけていた酒杯になみなみと注いだ。それを一気にあおろうとするサフナを、ジェレフは止めようとした。

「強い酒ですよ」

 言ったが彼女はまるで気にせず、水でも飲むように、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。

 酒杯の底を上げてから、サフナはふはあと深いため息をついた。

「おいしい」

 にっこりと、彼女は笑った。どう見ても可憐な彼女が、どう見ても酒豪だった。二杯目を注ぐサフナールに、ジェレフの喉は喘いだ。もしかして自分より強いのではないか。

「どうなさったのですか」

 きょとんとして、サフナは戸口に立ちつくしたままのジェレフの顔を見た。

「わたくしと一緒に吐くまで飲みましょう、エル・ジェレフ」

「それでこそゲロ仲間だな、サフナ」

 ギリスが彼女に感心したように言った。うふふ、とサフナールは笑った。

「でも、わたくしは簡単には潰れませんからね。女部屋では底なし沼と……」

「女部屋?」

 思わず聞き返すと、サフナールはまずいというように唇を押さえた。その仕草も可憐だった。

「さあ飲みましょう、エル・ジェレフ。とりあえず意識がなくなるまで」

 エル・サフナールは一人用の円座の自分の隣を、とんとんと叩いてみせた。そこに座れという意味にしか思えなかった。

 微笑むサフナールの美しい顔を、ジェレフは呆然と眺めた。まだ首にぶら下がっていたギリスが、酒臭い息とともに、ううんと呻いて耳打ちした。

「ジェレフ、据え膳食わぬは男の恥だから、こうなったからには突き進め」

 お邪魔虫が、余計なお世話だった。

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